この学校に五年間ほどいた僕は多くのことを学んだ。勉強、生活態度、人間関係。それだけではないけれど。とりあえず多くのことを。今でもそうかもしれないが、どうしようもない僕を少しは変えてくれた。
印象に残っていること。やはり、立教生活初日。あの日だけ全てを思い出すことができる。けれどあの日は最悪。本当に最悪。同期の一つ下の後輩に指をさされ、『君、中一?』と聞かれ、英語ができるペテン師、いや悪魔?のせいで初日の就寝後に怒鳴られた。散々な目にあった。初日は最悪。
好きな行事。オープンデイ。準備期間は好きなことはできないし、くだらないことで喧嘩しちゃうし、たまに途中で何作っているのかわからなくなるし。つまらないことばかりだけど、当日だけは楽しいことだらけ。やはり、楽しいことだらけだと人生はつまらないのだろう。苦しかったり、つまらなかったりする日々を乗り越えた後の楽しさは格別。それを認識させてくれるのがオープンデイ。すばらしさはそれだけではないけれど。
些細なことで人は変われる。それは本当。僕にとって些細なことは「数学」。この学校にきて、苦手で嫌いな数学を好きになった。中一の三学期に僕はこの学校に入学したが、それまでほとんど勉強はしてこなかった。けれど、数学を好きになってから、僕は数学の勉強だけはそこそこやった。今でも僕の得意科目。自分を変えてくれるきっかけを見つけることはとても難しいけれど、やはり探そうとする姿勢は大事。さらに立教生は一人ではない。ここ立教では生徒や先生がすぐ横にいる。だから、探しものは見つかりやすい。
僕には好きな言葉がある。
「今、汝は画れり」
意味:自分で自分の見切りをつけるな
漢字:『いま』はnowの『今』、『なんじ』はyouの『汝』、『かぎ』は計画の『画』(計画の意味はない)
これは中国の昔の儒家、孔子の言葉。
この言葉は高二の冬に見つけた。立教では生活が限定されている。外には自由に出れないし、ネットは自由に使えないし。自由が制限されている。でも、その中で自分に見切りをつけずに生きていき、自分があらゆる可能性を持っていると思うことは立教生活に大きな意味を与える。それは人生においても同じだと思う。自分が本当にやりたいことがあるなら、周りからどんな反対があっても、しっかりその誠意を見せつつ、貫き通してください。全てを投げ捨てる価値があるなら、捨ててください。しっかりと考えた判断なら絶対に後悔はしない。投げ捨てた僕が保証します。

手紙
目の前、ビデオ越しにいる高三へ
二回目になる人もいるけれど、久しぶり。二学期が終わってから、ほとんど君達とは連絡をとらなかった。受験があったし。
二学期が終わった後の受験生活の中で辛い時はもちろんあった。その時僕は自分の事でいっぱいになるけど、少し時間が経つと君達を思い返す。楽しかったなとか。行事また一緒にやりたいなとか。戻りたいなとか。何してるのかなとか。すると自然と手はログアウトしたはずのSNSに手が伸びる。そのようなことが三回くらい。僕は何かあると君達を考えてしまう。君達は僕にとってそういう存在。
僕達はオープンデイや合唱コンなどの行事に熱をそそいだ。そういう行事では僕達は団結して大きくなる。大きくなるたびに僕達は一人一人成長する。それが僕にはたまらなかった。でも、行事の話だけではなく、たまにだらける。いや、たまにじゃないかも。結構な頻度で。僕達は崩れる。その度に自分に対しても色々と腹立たしくなるけど、その内僕の気は収まる。僕達はメリハリがあるのか、ないのかよくわからない。僕達は僕にとってそういう存在。
もし君達全員が絶体絶命のピンチで、もしその状況から救うことができる手立てを持つヒーローが僕だったとしても、僕は君達を助けない。なぜなら、君達は僕と切磋琢磨生活してきたのだから。僕がもしヒーローなら、君達もヒーロー。僕がその手立てを持つなら、君達もその手立てを持つ。そのはず。かなり極端な例だけれども、僕達はそんな関係だと思う。ほんのそこらの人達とは違う。僕達は僕にとってそういう存在。
そんな僕達はもうバラバラ。もうあの日々は帰ってこない。だから、もう僕達がどういう存在かを認識することはおそらくもうない。悲しいけれど、時間が僕達が一緒にいることを許してくれない。仕方がない。
最後に言う。僕は君達が応援してくれた以上に、僕は君達の目指すものを応援します。辛くなった時、周りをみてください。どこかに僕達がいます。いつでも支えてくれる僕達がいます。そんな僕達です。ありがとう。恥ずかしいから、こんなことはあんまり言いたくないけど、僕は君達が好きです。君達は僕の人生を変えてくれた。ほんとうにありがとう。

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