夢というものは実に不確かで、掴んだと思っても、手の中に残しておく事は大変難しいものだ。
寒い。冬の朝の冷たい空気によって、無理矢理に意識が現実へと引き摺り戻される。
寝ているうちに勝手に布団から飛び出た足は、うっかりと一晩を外で過ごし、凍えながらも温い布団の中に戻ってきた。
もう一度、あの心地の良いまどろみの中へと沈んでゆきたい。そう、強く思うのを必死に堪えながらもゆっくりと、まずは上半身から起こしていく。
しぼんだ目を擦りながら、辺りを見回す。
「ああ、そうか」
自分が今居る場所は、無駄にバネが強くて、少しゴツゴツとしていて決して寝心地が良いとは言えないベッドではなく、柔らかく体に馴染んだ敷き布団である事。そして、周りは僕の知っている家具で彩られている事。更に、目覚めても自分しか居ないという事。
頭では、分かっていたつもりだ。ここは立教英国学院の男子ドミトリーではなく、自分の家である事くらいは。
心の中にがっぽりと大きな穴が開いているみたいだ。
さっきまで、楽しい夢をみていたのだろうか? なんだか少し物悲しい気分で、また同じ夢をみたいと強く思っている。
しかし、いくら思い出そうとしてみても、断片でさえも手から零れ落ちるように、思い浮かばず、意識の覚醒と共に消えていってしまう。
不意に、頭の中を井伏鱒二の”山椒魚”の一節がよぎった。
山椒魚は目を瞑り、深淵の中にその身を委ねながらつぶやく。
「ああ寒いほど独りぽっちだ!」
布団の中からのそのそと抜け出し、クローゼットを開けて、適当にズボンとTシャツを引っ張り出し、ダラダラと着替えを始める。
立教英国に居る皆は今、どうしているのだろうか?
僕は高校受験の為、三学期は学校には行かずに、そのまま日本に残ることになった。独りで過ごす時間が増えたせいか、たまに、クラスメイトの事が気になってしまう時がある。そういう時、僕は皆が自分の知らない時間を歩んでいると言うことがたまらないほどに悔しく、恐ろしく感じてしまう。
けれども、今の自分はどうしようもなく、完璧なまでに独りだ。
洗面所に行き、軽く歯を磨いてから少し遅めの朝食をとった。作り置きの不恰好なおにぎりの横には、母の自分では「達筆なのだ」と言い張る、丸みを帯びたよく読めない字で、手紙が一枚添えられていた。
おにぎりを頬張る傍ら、手紙に目を通していると、「受験しようと思った君は偉い」だの、「毎日良くがんばっている」、などといった僕を褒め倒す様な、綺麗な言葉が綴られているのが見える。
口の中のおにぎりが、急に冷たく感じた。

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