私の大学時代だから、もう五十年も
昔になる。
ある日の家政学の講義で、女性教授が
「家庭の目的は、それを構成する家族
一人ひとりの幸福にある」と語った。
当たり前の話なのだが、それにしても、
彼女の物言いには妙に力がこもって
いる。誰かが家族の中にあって、一人
ひとりの幸福を破壊しているのだとする
気負いが、発言の背後に感じられた。
この傾向は、今日の高等学校の家庭科
にも引き継がれている。淡々と授業が
展開されるのではなく、常に何者かが
家族を圧迫しようとしている。家庭科は
これらの不当な圧力と戦わねばならぬ
という「悲壮感」に溢れている。
戦前の父親といえども、決して「家族の敵」
だったわけではない。赤貧(せきひん)洗う
ような貧しさの中でも、父は、家族にひもじい
思いをさせまいと必死であった。
母が、我が身以上に家族に尽くしたことは
言うまでもない。厳しさの中で、ひしと身を
寄せ合い、いたわり合って生きていたのが、
戦前のごく普通の家族だったのである。
まして今日、我が子を無視して自分の利益
のみを考えたり、子を搾取の手段としたり
するような親はどこにもいない。それなのに
家政学や家庭科は、どうして今も「家庭の
民主化」のため、これほどに張り切ってしまう
のであろうか。