親、とりわけ父親を民主主義の敵と見る戦後思想は、
学校からも家庭からも「親孝行」という言葉を放逐した。

学習指導要領のどこをひっくり返してみても「孝」と
いう言葉は出てこない。そのためであろう、今や我が
国の家庭は、子育てのためだけの場になってしまっ
ている。

父母は限りない愛情を持って子を慈しむが、子は育ち
上がってしまうと、親との同居を望まない。親が、起居が
ままならぬようになっても、同居して面倒を見るという
ようなケースは少ない。

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よくしたもので、親の方でも「私たちは自分たちでしっ
かりやっていくから、一緒に暮らしてくれなくてもよい。
あなたたちは自分のことだけをしっかりやりなさい」など
と、我が子が幼い頃から語り聞かせたりしている。

結局、親の老後は、老人ホームなどの施設に丸投げ
されてしまうのである。

だが老人ホームなどの施設は、必ずしも老人の幸せを
保障できるものでないらしい。他人が老人のお世話を
するには限りがある。

例えば、日に何度も粗相を繰り返すような老人に対して、
他人である施設の勤務員が、果たしてどこまで親身に
そのお世話をすることができるのであろうか。

施設内の温度一つにしても、寝込んでいる老人と
働いている勤務員とでは適温の水準に違いがある。

又、人間は常に他人からの愛や信頼や尊敬を貪婪
(どんらん)に求める生き物である。老人介護施設に
それを求めることは難しかろう。

もちろん、親身も及ばぬまごころで介護に当たって
いる方も少なくはないだろうが、親の面倒を見る第一
の責任は、その子どもにある。

少子化の今日、それは困難な課題かも知れぬが、
子はその責任を自覚し、まごころを込めて親の老後
の面倒を見なくてはならない。

介護に疲れ、弓折れた矢尽きたとき、そのようなときに
初めて頼るべきものが老人介護施設だと私は思うので
ある。

親子三世代が同居している家もある。そのような家庭
にあっては、老人は若者の若さ、幼さに触れて、日々
安らぎを得るであろう。

又、若者は、老人の熟成した智恵に学ぶことができる。

「それはお父さん、お母さんだけでは決められません。
お爺ちゃんに伺ってみましょう」「そのことはお母さんに
も分かりません。お婆ちゃんに教えていただきましょう」

そのような人間関係があってこそ、家庭は、人がその
全生涯を託すことのできる安心の場となるのである。

 

 

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