「孝」の観念を取り戻そう
孝は人間形成の大前提

 

アメリカの二十世紀前半を代表する教育学者
ジョン・デューイは、「子どもは教育の主体で
あって客体ではない」と言っている。

決して間違った考えではない。

だがここで忘れてならないのは、発達段階
という問題である。

人は生まれた瞬間から人間なのではない。
放置しておいて、ひとりでに人間に育ち
上がっていくものでもない。我々はすべて、
周囲を取り巻く多くの方々の力によって、
「人間にしていただいた」のである。

人間に”なった”のではない。”していただ
いた”のだ。

戦後は、「倫理規範は教えてはならぬ。
それは子ども自身が内面形成していく
ものだ」というような考え方が支配的で
あった。

デューイに傾倒するあまり、発達段階と
いう発想が欠落してしまったのである。

そのような人々に私は尋ねる。乳飲み子
は、いかにして教育の主体たり得るのかと。
小学生も三年生になるくらいまでは、親や
保護者を絶対の存在と考える。先生にさえ
よく思われれば、仲間からはなんと思われ
ようと構わないというのがこのころである。

そのような時期には「殺すな」「盗むな」
「嘘をつくな」をいうような根本的価値を
たたき込んでおかなくてなならない。服従
の大切さを教えていかねばならないのも
このころである。

「教育勅語」が、国民のあるべき姿を示す
徳目の冒頭を「父母に孝に」という言葉で
飾ったのも、この消息を深く意識したからに
はほかならない。

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孝を最高の徳と心得、親の教えに忠実に
従っていこうとする人間であって初めて、
親の教えに素直に、忠実に従い、深みの
ある人間性を養うことができる。

戦後思想は、親孝行を”親を大切にすること
だ”と考えがちであった。「親への孝を教える
のは、親の利己心を子どもに押しつけることだ」
と考えがちだったのである。

しかし、親を敬い、親を大切にする心が育って
いなければ、子は、人間として健全な成長を
遂げることができない。

師への尊敬も同様である。その尊敬によって
利益を受けるのを潔しとしない傾向が、今日の
学校には溢れている。

卒業の際の「謝恩会」に違和感を抱き、これを
「卒業を祝う会」としなければ納得できないなど
という傾向も、この流れに属するものである。

しかし親への孝養は、子が親を大切にすると
いう責任を果たすだけではなく、子が人間として
健全に育っていくための絶対的前提でもあった
のである。

まさに「孝は百行の本」であることを忘れてはならない。

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