日本語の深さについて(3)

 

「いつしか歳も 杉の戸を」の部分に注目してほしい。

「いつのまにか、歳月が過ぎていったので」という
意味なのだが、それなら「いつしか歳も 過ぎぬとお」
と書くべきではないだろうか。それに「スギノトオ」では
言葉としてもおかしい。

実はこれが日本語特有の「かけことば」というもの
なのである。

昔の体育館の扉は、木造校舎だから杉の木で造られて
いることが多かった。今日の鉄筋コ ンクリートの体育館の
ドアは多く鉄製である。

昭和35年 開校式当日の狭山ヶ丘高等学校

「杉の引き戸 、何と風情のある体育館、講堂だろうか。
卒業生はその杉の引き戸を開けて、住み慣れた学舎を
後にすることになる。

「明けてぞ今朝は 別れ行く」これも同じである。

勿論意味は 「夜が明けて 今朝は別れゆく」と言う
意味なのだが、これに「杉の戸を 開けて」とい う意味が
重ねられているのである。

昭和39年 旧木造校舎と当時の生徒たち

その4に続く…

日本語の深さについて(2)

ところで「蛍の光」はどうやって集めたのだろう。

私にも経験はないのだが、実は沢山の蛍を
ネギの中に詰め込んだのだそうである。

すると蛍の光でぼうっ と明るくなる。実際に
それで本が読めるものかどうか私にも確信は
ないが、少なくとも美しいものだったのでは
ないかと想像される。

今のビニールの袋だっ たらもっと明るかった
ろうと思うが、でもネギの筒の方がロマンがある。

昔も行灯その他の光源はあった。多くは菜種から
絞った菜種油を使う光源である。

しかし菜種油は値段が高い。それに大切な食料
でもある。容易く明かりとして用いることは許され
なかった。

 

その3に続く…

日本語の深さについて(1)

 

卒業式、入学式などに永く歌われてきた歌を
ご紹介しよう。明治文語文に近い歌詞だが、
内容は深く、日本語の豊かさをも感じさせる歌
である。

蛍の光

蛍の光 窓の雪

文読む月日 重ねつつ

いつしか歳も 杉の戸を

明けてぞ今朝は 別れ行く

止まるも行くも 限りとて

形見に思う 千万の

心の端を 一言に

幸くとばかり 歌うなり

蛍の光や窓の雪の明るさで「文読む 、即ち勉強する
ことができるものだろ 」うか。実はそれができたのである。

昔の書物は筆の字を版木で刷ったものが多 かったから、
今の活字に比べると文字が特段に大きかった。

二宮金次郎が 薪を 背負いながら勉強したと伝えられるが、
昔の本ならそれも可能だったのかも知れない。

その2に続く…

偉人の伝記に親しませよう(7)

 

英雄の存在を否定し、小人物だけが「真実の人間」なのだ
と教える卑小な思想が、 教師のあるべき姿まで否定した。

私は小中高等学校の図書室に、もっと多く、また面白い
偉人伝を多くすべきだと思 う。そしてこのような本に
数多く触れるよう、子供たちを指導すべきである。

私も近く、三笠書房から「親が子に伝えたい偉人の話」を
出版する。また、さらに 一年を要するとは思うが、「公に
殉じた人々 1945 年を中心に」という本も出版する 予定
である。

人間は本来エゴイストではなく、愛する者のために死ぬことの
できる気高く、偉大 な存在である。それを自らの人生で証して
くれた、偉大なる先人の生き様を、明日の世代にしっかり継承
しなくてはならないと思うのである。

<完>

(平成19年3月25日『狭山ヶ丘通信』)

偉人の伝記に親しませよう(6)

 

関西で小学校に侵入した兇漢が一年生多数を
殺害したという事件があった。その際、 担任の
中年の教師は子供たちの先頭に立って逃げた
そうである。教室には椅子もあれ ば机もある。
それをぶつけ、振り上げて戦えば、ほとんどの
生徒は逃げ延びることが できたであろう。

しかし彼女はそうはしなかった。

後に新聞記者に尋ねられて「私に も子供があります
から」と語ったと言う。私はそのセリフに接して抑え
がたい怒りを 覚えた。

自分の子と人様の子と、一体どっちが大切だと言うのか。

まさに「師道、地に墜つ」と言うべきであろう。
教え子の生命身体に危険が迫り、他に助けを求める道
がない場合、死なねばならないのが教師である。昔、
遠足などで子供が水に溺れた場合、泳げぬ教師までが
水に飛 び込むのが常であった。そのために「にじゅう遭難」を
生み事態が一層深刻化した。

だから校長は、安全を保つべく厳しく指導すると共に、
泳げぬ教師は絶対に飛び込んではならぬと言い聞かせた
ものである。

それでも教師たちは飛び込んだ。それが師道 というものである。

その7に続く…

偉人の伝記に親しませよう(5)

 

第二次世界大戦は、我が国にとっても英雄輩出
の時代であった。 硫黄島における日本軍の抵抗
は、米軍をしてすら驚嘆と畏敬の念を抱かせる
ものであった。

水不足、食糧不足と、ガス、熱水の岩山で、
全滅することを覚悟の上で将兵は最後の一兵まで
戦った。それは抵抗が一日延びれば、その一日分
本土空襲が遅れる ことを彼らは熟知していたからで
ある。

一般に司令官は本部に残り、いかなる場合も
突撃しないのが原則だそうである。突撃すれば
敵弾に負傷し、捕虜になる可能性があるからで
ある。

しかし栗林中将は最後の突撃に参加した。

彼は部下にシャベルを持って随行する事を命じた。
自分の死骸を米軍に渡さないためである。おそらく
その軍曹は、中将が傷ついた場合には殺害する
ことをも命じられていたのであろう。今日に至るも
栗林中将の遺骨は発見されていな い。

 

その6に続く…

偉人の伝記に親しませよう(4)

 

戦後教育は、このような偉人をすべて否定し、
身辺はすべて日々の暮らしにあくせ くする
小人物に充ちているという雰囲気を子供たちに
押しつけがちであった。

最近の政治家は、惨めなほどに、スケールが
小さい。日本における偉人の存在を否定したい、
アメリカ教育使節団の教育勧告が、このような
惨状を将来するに至ったと私は考えるのである。

来るべき東京都知事選に、石原氏と別に何人か
の候補が名乗り出ている。

(平成19年3月25日『狭山ヶ丘通信』)

その一人は当選後知事の給与を辞退すると言ったり、
大幅な減額を主張したりしている。

天下の東京が都知事の給与をけちったりなど
するものか。当選を目指すためとは言いなが ら、
このように貧しい政治主張が為されるにつけ私は、
しみじみ戦後教育が、どれほど人間を矮小化して
しまったかを考えさせられるのである。

その5に続く…

偉人の伝記に親しませよう(3)

 

大久保利通は、明治政府最高の権力者でありながら、
若干四十八歳で兇刃に倒れた。 大久保の馬車が
太政官庁舎に入っただけで、太政官全体が足音も
忍ばせるほど静寂になったと言われるくらいだから、
権勢の程も偲ばれると言うものである。

紀尾井坂で不平士族に暗殺されたときも、その暗殺は
予想されていた。しかるに彼は特別の護衛も連れずに
出勤していたのだから、元勲たちの死生観は我々の
想像を超えるものだっ たのであろう。

面白いのは、その死後である。大久保が死んだ後には
天文学的な金額の借金が残されていた。大久保夫人は、
日常の米を買うにも困窮する始末であった。見かねて
その一部を、明治陛下の皇后であられた、昭憲皇太后が
お払いになったというのだから、 借金の額も桁外れである。
最高権力者だったのだから、賄賂などどのようにも提供
さ せられる立場であった。しかし大久保は私財の蓄積など
ということには無縁の男であ った。

「公あって私なし」

ここでも私は、西郷に共通するスケールの大きさに驚嘆
する のである。

その4に続く…

偉人の伝記に親しませよう(2)

 

西郷隆盛は、当時我が国でただ一人の陸軍大将であった。
彼の月給は五百円だったそうである。言うまでもなく当時、
大変な高給であった。金に関心のない西郷は、これを
太政官に返そうとしたが、法律的にそれは不可能である。
明治の体制にあっても、 政治家、官僚の「政治寄付」は、
厳しく禁止されていたからである。

彼は下男と共に六畳二間の借家に住んでいた。二人の
生活費としては十五円あれば十分であった。維新の元勲
と下男が、秋刀魚でも焼いて食っていたであろう姿を思い
浮かべると、ひとりでに口元が綻んでくる。

一月の給料で一年は暮らせた訳だから、 残りの給料は
封も切らずに棚の上に投げ上げられ、そのままほこりを
かぶっていたそ うである。

治安の良い時代の事とて、泥棒の手合いに盗まれることも
なかったらしい。 西南戦争における西郷の死は、滅び行く
武士階級への「心中」だったと私は考えてい る。

「公あって私なし」の西郷にして初めて為し得る事だった
のであろう。この「心中」 を以て西郷は、盟友大久保の志を
遂げさせようと考えたのではあるまいか。

西郷は、 それほど桁外れに大きい人物だったのである。

 

その3に続く…

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