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日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第14話は、「二つの眼鏡を持つことの大切さ」です。

国語の教員として「ことば」の教育をするとき、肝に銘じておかなければいけないことだと感じています。

(中学校副校長 堀内雅人)

 

14 二つの眼鏡を持つことの大切さ

 

数年前、詩人のアーサー・ビナードさんが本校の公開研究会の全体会の講演者として来てくださいました。いちょうのホールには座りきれずに、壁際にずらっと人が並ぶほどの大盛況となりました。「ことばはレンズである。英語のレンズで見ていたとき見えなかったものが、漢字を学び、日本語を話すようになった時に見えてきた。新しい発見があった。・・・」ご自身の体験をユーモアたっぷりに話し始めてくれました。「言葉を教えるというのは本当に大切。技術を教えることも大切。でも、そのことによって見えなくなるものがある。世界を狭めてしまうことがある。本当に大事なことはことばのむこうにあるものに、思いをはせること。・・・」広島や長崎の問題がアメリカの教科書ではどう教えられているかという話がありました。自由で正義の国アメリカが、原子爆弾によって戦争を終わらせ、両国の戦死者をそれ以上増やさなかったという構図。それがあたりまえのこととして信じられていたこと。

アーサーさんは日本語を学び、日本語のレンズでそれをながめ、原爆の落とされる数か月前の東京大空襲のことを知ったとき、さまざまな疑問がわいてきたと言います。それを一つ一つ調べていくうちに、気づいたそこに隠れていた欺瞞。「なぜ東京の中枢ではなく、一般庶民の住んでいる下町に、それもわざわざ逃げ場のないように焼夷弾を落としたのか?」「なぜわざわざ戦争を長引かせるようなことをしたのか?」地図を見ることの大切さ、その場所に足を運ぶことの大切さを語ります。広島の人はだれ一人『キノコ雲』などとは言わないそうです。「私が日本に来た当時、出会った広島の被爆者はみんな『ピカ』というんです。『ピカドン』という人もいました。東京の人はそんな言葉を使ってはいなかった。それは原爆にどこであったかの違いなんです。」爆心地付近にいた人。そこから数キロ離れたところにいる人。そんな地獄の中にいる人が『キノコ雲』など見ることができないこと。きれいな『キノコ雲』を見ることができるのは、地上で何が起きているか想像することすらできない「エノラ・ゲイ」の乗組員の眼から見たことばであること。「どのことばを使うかによって、無意識のうちに立ち位置が決まってしまうんです。」「ベトナム戦争の時、それまで使われていた『焼夷弾』ということばが日本の新聞から消え去り、『ナパーム弾』ということばに取って代わったのはなぜか?」

ことばの大切さと、怖さ。それを自覚した上でのことばの教育。時に違うレンズでものを見ることの重要性。いったん自らのレンズを外してみることの勇気。これは国語教育のみならず、英語、社会科、全ての教科に共通する重要な問題意識です。その日の社会科の分科会でも、話題になったようです。「鎖国と開国」。あたりまえのように使われている歴史用語。この言葉の使い方に疑問を投げかけた中3生がいたようです。それを社会科の教師はどうさばくのか? 研究会もまた同じです。だれもが自分のレンズを持っています。研究するということは自分のレンズを確固としたものにすることでもあります。それをいったんはずしたとき、何が見えてくるのだろう? 別のレンズに掛け替えたとき、どんな疑問がわきあがってくるだろう? それができてこそ自分の世界を広げてくれる意味のある研究会になるのではないかと思います。だれもが自分のレンズには無自覚です。だからこそ、教員全体でアーサー・ビナードさんのこの日の講演を聴けたことは大きな喜びでした。

 

そんなことを考えているとき、2014年12月2日、朝日新聞の夕刊文化面に次のような記事が載りました。タイトルには『桃太郎と教科書 知的な反抗精神養って 池澤夏樹』とあります。それ以前に、前衆議院議員の義家弘介さんが、筑摩の高校教科書「国語Ⅰ」に収録されている池澤さんのエッセー『狩猟民の心』について、<これは子供たちに供するにふさわしくない>と発言したことへの、表向き遠慮がちな、でも実は痛烈な反論という形の文章でした。まずは、義家さんが指摘する池澤さんの文章を紹介します。

《日本人の(略)心性を最もよく表現している物語は何か。ぼくはそれは「桃太郎」だと思う。あれは一方的な征伐の話だ。鬼は最初から鬼と規定されているのであって、桃太郎一族に害をなしたわけではない。しかも桃太郎と一緒に行くのは友人でも同志でもなくて、黍団子というあやしげな給料で雇われた傭兵なのだ。更に言えば、彼らはすべて士官である桃太郎よりも人間以下の兵卒として(略)、動物という限定的な身分を与えられている。彼らは鬼ヶ島を攻撃し、征服し、略奪して戻る。この話には侵略戦争の思想以外のものは何もない》

ここからは義家さんの意見です。

《わが国では思想及び良心の自由、表現の自由が保障されている。作者が作家としてどのような表現で思想を開陳しようとも、法に触れない限り自由である。しかし、おそらく伝統的な日本人なら誰もが唖然とするであろう一方的な思想と見解が、公教育で用いる教科書の検定を堂々と通過して、子供たちの元に届けられた、という事実に私は驚きを隠せない。 / 例えばこの単元を用いて、偏向した考えを持つ教師が「日本人の心性とは、どのようなものであると筆者は指摘しているか、漢字4字で書きなさい」などという問題を作成したら一体どうなるか。生徒たちは「侵略戦争」と答えるしかないだろう。》

 

皆さんはどのような立場をとられるでしょうか。日本がどういう国かという問題ではありません。大切なのは、視点を変えた時、一つの現実が全く異なる様相として現れるという驚きです。文学教育の最も大切なことは、この「視点」「語り」の問題にあると私は考えています。思想を教えることではありません。感動を経験させることが第一でもありません。文学は人の心を揺さぶります。感情移入を経験させることができ、感動をさせることも可能です。ある方向に生徒を導いてしまう危険性を併せ持っています。だからこそ、文学教育では、一方で批評する力を身につけさせることが求められます。まさに「考える自由」を授業場で教師も生徒も持っていなければなりません。

池澤さんは次のようにこの文章をしめくくっています。

《教育というのは生徒の頭に官製の思想を注入することではない。(略)一つのテーマに対していかに異論を立てるか、知的な反抗精神を養うのが教育の本義だ。ぼくの桃太郎論を読んだ生徒が反発してくれればくれるだけ、ぼくは嬉しい。》

 

この文章(教材)で、生徒に何を考えさせるか。問われるのは授業者の側です。「探究」的な文学の授業は、緻密な教材研究、授業研究なしには生まれません。数年前、評判になった広告があります。泣いている鬼の子の絵の上に「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」という子どもの字で書かれたコピーがありました。痛烈な批評です。

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