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日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(毎週土曜日配信)第16話は、「対話が生まれるとき」です。

対話とは、単なるおしゃべりとは違います。また、一人一人価値観や感じ方が違うのだからそれぞれでいいという空気が漂う場からは対話は生まれません。異なる意見を尊重するということは、その意見にしっかり耳を傾けるということであり、質問したり、異を唱えてはいけないということではないはずです。そのあたりの曖昧さが気になります。

(中学校副校長 堀内雅人)

 

16 対話が生まれるとき

先日、国語科の教職を目指すある大学生からこんな質問を受けました。「授業中質問し、指名した生徒が見当違いな答えを言った時、先生ならどのような対応をしますか?」 彼らは模擬授業を経験し、まずは教育実習という形で現場に入っていきます。準備した指導案には教師の発問と想定される生徒の答えが書き込まれます。思った通りの答えを生徒が言ってくれれば安心。ほめてあげられます。でも、間違ったり、想定外の答えが返ってきたらどうしよう、それが不安なわけです。生徒を傷つけてしまうのではないか。でも、きちんとそれを正さないと何を教えたのかが分からなくなってしまいます。でも、どう伝えればいいのだろう。悩みは深まるばかりです。

もちろん、発問の種類によって一概に言うことはできません。しかし、ここには授業を作ることにおけるとても大切なことが含まれているような気がします。実は、間違えを含めた多様な答えが出てきたときこそ、授業は活性化するのです。では、どうすれば多様な答えが返ってくるか。まずは授業中の間違えはけっして恥ずかしいことではないという教室空間ができているかということ。さらに、生徒が答えるたびに授業者は表情を変えないこと。生徒は知らず知らず先生の表情を読みとりながら発言してしまいます。大切なのは出てきた発言をしっかり聞き、その対立点をしっかり見抜く力を持つことです。けして顔色をうかがったり、空気を読むことではありません。また、間違えは間違えとしっかり生徒は理解しなければいけません。それこそが学びです。自分とは違う他の生徒の考えを聞いた段階で、誰から言われるでもなく自らの間違いに気づく生徒がいます。なぜ、勘違いしてしまったのか。それを述べることは本人だけではなく、クラスの全員にとって大きな学びになります。もし、明らかな対立点が出てきたらそれを検証するための深い学びがそこから始まります。それこそが授業の核心です。

先述の学生の問いに戻るなら、「しめたと思いながらも表情にあらわさず、たんたんと黒板にその意見を書き、ほかの考えは?と他の生徒に問いかける」となるでしょうか。難しいことですが。

 

私は国語の教員です。中1の授業を担当するとき、4月の最初の授業ではなぜ国語の勉強をするのかという話をするようにしています。一つの正解、説明の仕方があるわけではありません。様々な切り口の話し方があることでしょう。数年前の授業で私は、次の2つの文を使って、説明を試みました。

 

A (前の学校では)言葉はナイフだった。

B (今の学校では)言葉はバンソウコウだ。

 

「どのような意味だろう?」と問うわけです。重松清の『きみの友だち』「千羽鶴」の中にある文です。どのクラスでもすぐに手が挙がります。Aは、「言葉は人の心を傷つけるもの」「暴言を言われたのかなあ」「いじめられたんじゃないのかな」。Bは、「言葉は心の傷を治してくれる」「やさしい言葉は癒しだよね」。こちらが想定した通りの答えです。「ナイフとバンソウコウは比喩表現だよ」「AとBは、対比の関係になっている」。こんな発言が出てくればもう満点です…と思っていました。

その上で語ろうと思っていたのです。言葉がなければ人間の悩みはどれだけ少なくなることか、と同時にどれだけの喜びも消えてしまうことか。人間として生まれた以上、言葉なしに生きていくことはできない。ナイフは使い方ひとつで危険にも便利なものにもなる。ある意味、ナイフの発明は人間の進化にとって大きな意味を持っていただろう。同じように言葉の使い方を学ぶことは人生を豊かにすることに繋がっていく。

ところが、あるクラスでそんな話をしようと思ったとき、一人の男子生徒の小さなつぶやきが聞こえてきたのです。「バンソウコウで傷が治るわけじゃないよ!」。予期せぬ発言でした。こちらをまっすぐ見ず、少し投げやりな言い方が気になりました。「なにあいつまた屁理屈言ってるの!」といった周りの空気も感じました。

しかし、ハッとしました。「バンソウコウでは傷は……治らない……?」口に出し、しばらくその意味を考えていました。沈黙が生まれました。教師が悩むと、生徒の目は一気に輝き始めます。生徒たちも一緒に考え出したのです。するとこんな発言が飛び出してきました。「たしかにバンソウコウで傷が治るわけじゃないよね」「傷を守っているだけ?」「傷を見えないように隠しているんじゃないの?」私があれやこれや思いを巡らしていた1分ほどの間にでてきた生徒の発言です。すると、さっきまで斜に構えていた男子生徒が姿勢を正したのです。彼もまた他の生徒の意見に耳を傾け始めました。「傷を治すのは、バンソウコウなんかじゃなくて、その人自身の身体でしょ!」「自然治癒力ってやつ?」「その人が自分で治そうとしなければ治らないんだよ」。

この対話は、まさに重松の『千羽鶴』のテーマに繋がります。その作品を読んでいるわけでもないのに、中1のそれも4月の最初の授業でそれが行われたということは驚きでした。と同時に、作品の一部を自分の都合のいいように引用して、いかにももっともらしいことを言おうとしていた自分を恥じることになりました。ありきたりの準備されたきれいごとの授業にどこか違和感を持っていた生徒。しかし、その違和感を言葉でうまく説明することはできない。でも、人一倍豊かな感性を持っている。今まで自分の本当の部分をわかってくれなかった大人や先生に対するちょっとした不信。わかってほしいくせに他の生徒のように素直に言えないイライラ。こんな生徒像が浮かんできました。中学校に入学して間もないころ、どのクラスにも一人か二人、こんな生徒がいます。扱いは難しいですが魅力的な生徒です。こういう生徒がクラスから浮かずに、他の生徒とつながっていくことができたとき、そのクラスは集団としても成長していきます。

数年前のこの一時間の授業を、その教室の空気を、いまだに記憶しているということはそれだけ心打たれた経験だったということではあります。しかし、裏を返せばそうたびたび感じることはできなかったということでもあります。たぶん、気がつかないまませっかくのチャンスを何度も何度も失っていたのかもしれません。だからこそ、そういう授業場を作ることの必要性を意識したいのです。

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