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日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(毎週土曜日配信)第17話は、「質問する力/考える力-『てつがく対話』の授業」です。

これからの新しい時代、自分を大切にしながら主体的に生きていくためにますます必要になってくる力が「問う力」なのではないかと思うのです。

(中学校副校長 堀内雅人)

 

17 質問する力/考える力―「てつがく対話」の授業

 

◇問うことの大切さ

「なぜ……か?」「どうすれば……か?」自分自身に問うということは、前向きに生きている証と言えるのではないでしょうか。「どうせ自分なんて……」という状況の中で、問いは生まれません。問いを立てるということは、混とんとした状況を自分なりに整理し、より良い状況にしたいと考えるときに生まれます。そして思考が始まります。自己内対話です。

他者に問うとき、それは他者との対話を生むきっかけとなります。ただ、日本語において「なぜ?」「どうして?」と他者に問う形は、単なる愚痴や不平のまま終わっていることが多いように思います。英語では「Why…?」と尋ねられれば、必ず「Because…」という形のこたえが返ってきます。ところが日本語で「なぜ学校に行かなければならないの?」「どうして勉強しなければいけないの?」と子どもに問われた時、大人はどのような答え方をするでしょうか。本気で答えようとするでしょうか。子どもは答えを期待せず、ただ不満をぶつけているだけかもしれない。「どうせ大人だって、答えられないでしょ」。あるいは、本気で一緒に考えてほしいと思っている子どもは、大人のそんな姿勢に落胆するかもしれません。言葉がつながっていかない。空気を読むのが得意、つまり自分の頭で思考することを積極的にしない人の方が、今の日本社会では生きやすかったりします。でも、それでよいのかということです。

良い聞き手に出会ったとき、良い語り手が生まれるように思います。しっかり耳を傾けてくれる人に対して、無責任な言葉はなかなかかけられません。と同時に、相手に届く問いとは何かということが問われます。問うことの大切さとともに、問いを問い直すことの大切さが求められるのです。ここにこそ、「てつがく対話」の意味があるように思います。

 

◇「てつがく対話」とは

2018年度から明星学園中学校では、中学1年生の全生徒を対象に年間を通し「てつがく対話」の授業を週1時間実施しています。1つの教室に私を含めた3人の教員が入ります。

「てつがく対話」とは、子どもたちの思考力を養うために70年代のアメリカにおいて「子どものための哲学」として始まったものです。哲学者の思想を教えるのではなく、身近な問いから出発してグループで一緒に考え、対話を深めていくものです。フランスなどヨーロッパ圏においては、必修の授業として位置づけられているところも多いようです。

この授業の大切なポイントは「何を言ってもいい」、ただし「否定的なことは言わない」という二つのルールだけです。「何を言ってもいい」というルールがない限り、対話は哲学的になっていきません。また、相手の意見を論破することを目的にするところからは、他者との相互理解は生まれません。「てつがく対話」は、勝ち負けではありません。一つの正解を決めることでもありません。他者を尊重することなしに、対話は成立しません。

そしてもう一つ、単なる意見交換で終わってしまっては意味はありません。「みんなちがって、みんないい」は、一歩間違えると対話の否定につながります。相手と違う自分の意見があればはっきり言っていいのです。疑問に思うことがあれば、問いの形で相手に返すことです。そのことなしに、対話は生まれません。「否定的なことを言わない」というのは、相手を馬鹿にする言い方をしないということです。

それに比べ、一般的な学校空間とはどのような場所でしょうか? 間違ったことを言えば、…笑われる。先生の意に添わなければ、…嫌われる。あるいは、嫌われるのではないかと不安になる。そのような場では生徒は、学びの当事者にはなれません。これは学校空間に限ったことではありません、一般社会においても同様です。だからこそ、忖度といった言葉が流行語になったりもするのでしょう。そのような空間では、本当の意味の「責任」というものが発生しません。「自由」と「責任」は、コインの裏表です。

「てつがく対話」の空間は、そのような意味で「非学校空間」にならざるを得ません。「なんで学校に行かなければいけないの?」「なんで人を殺してはいけないの?」 このような問いをめぐって自由な精神で対話する覚悟がないと、この授業は絵に描いた餅になってしまいます。日本社会において、子どもが親や先生にこのような質問をしたらどうなるでしょうか。「つまらないこと、考えているんじゃないわよ!」と言われるのが関の山ではないでしょうか。子どもの側に立っても、ただの不平不満を吐いただけで答えなど求めていないかもしれません。対話の生まれる余地はありそうにありません。一方、英語においては「Why~」で問われれば、「Because~」で答えます。もともと日本語自体、対話を生みづらい言語なのかもしれません。それは議論することよりも察しあう、対立を好まず同じ価値観の中でまとまろうとすることを良しとする文化だったからなのかもしれません。

しかし、明星学園は授業の中で失敗することを尊重してきました。自分の考えを表明する限り間違うことはつきものです。それは恥ずかしいことではありません。一つの間違えや勘違いから授業は活性化し、ダイナミックに展開していく。そんな授業を目指してきました。失敗しないことを優先させている限り、思考は深まっていきません。こと明星学園においては、「てつがく対話」を行う素地がもともとあったともいえるのです。

まだ始まったばかりの授業ですが、次回は授業の具体的なエピソードをご紹介します。

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