似顔絵1 - コピー (2) これまで、中学生という時期を生きる上で大切だと思うことについて述べてきました。具体的なエピソードとしていくつかの教科外の取り組みについても紹介しました。しかし、学校において中心を占めているのは教科の授業です。この授業においてこそ、ここまで述べてきたことを実現していこうという意思がなければ、まさに木を竹に接ぐことになってしまいます。ただ、このことこそが教員にとって最も厳しいことなのです。

各教科には、学年ごとに達成すべき目標があり、学習内容があります。その中にはペーパーテストで測れるものもあれば、そうでないものもあります。もちろん定期テストの成績は大切です。しかし、その先に、彼らの卒業後の長い人生においてこれらの学びがどのような意味を持つのかを考えることが学校における授業者の責任であるように思うのです。

まず初めに国語の教員としての私の実践を紹介させていただきます。

(中学校副校長 堀内雅人)

 

1 『走れメロス』(太宰治)を再話する<中2‐2学期の実践>

①なぜ今、『走れメロス』か?

 

数年前のことです。2学期になってすぐのころ、生徒に短歌を創作させる機会を持ちました。「学校生活」や「家族」、「自分」を見つめる歌が数多くできあがったのですが、そんな中でも「友・友情」を詠んだものがめだちました。

 

「感謝したい 普段は言えぬこの気持ち みんなに言います いつもありがと」

「友だちと笑い合ってるこの時間 止まってほしいと思う毎日」

「友だちとたくさん泣いて笑いあう ずっと大好き タカラモノだよ」

 

一方、こんな歌もありました。

 

「うらのかお 見てはいけないうらのかお 今もしかして見ちゃったのかな?」

「あるおんな ホントはすごくきらいなの だけどもなぜかしゃべってしまう」

 

前者の歌を詠んだ生徒たちが友だち関係をうまく作れていて、一方後者の歌を詠んだ生徒たちはその問題で悩んでいる、そんな単純なものではありません。確かに悩んでいるのでしょう。しかし私は、後者の歌の方に魅力を感じます。そこには表面的ではない人間と人間の関係を築くきっかけが含まれているように思うからです。

たぶんどの生徒にとっても「友だち」というのは、一番の問題であり、大きな悩みなのでしょう。たまたま今、うまくいっている。これが永遠に続いてほしいと願う。それでいて、いつ壊れるかもしれないという不安、過去の傷、それらが自分の中でうまく消化しきれずにたまっていく。何とかしたい。いやなものには目をつぶりたい。でも、ふと感じてしまう。必死に友情の大切さ、ありがたさを自分に言い聞かせてみる。自分にとってかけがえのないものだけど、不安の種であり、元凶にもなるもの。傷つきたくない。小さな世界で安心していたい。同じ悩みを抱えながら、あらわれ方は正反対。それでいて、互いに語り合うことができない現実。ますます自分の中に未消化のままたまっていくのでしょう。

できあがった短歌には、生徒のそんな様子が素直にあらわれています。私にはそう感じられました。根底は同じです。ただ、それが表現されるときに極端な形であらわれているだけなのです。けっして相反する感情の発露ではない。どちらも友情を求めている。「友だちなんて信じられない」「私は一人でいい」、しばしば耳にするこんな言葉には、人一倍「人を信じたい」「何でも話せる信頼できる友達が欲しい」という気持ちが隠れているはずなのです。

それが中学生時代なのだと思います。一人ひとり、真剣に悩み、格闘している。だけど、そこにとどまっていてよいとは私は思いません。心の内側では明と暗、そのどちらも抱えているにもかかわらず、それが外にあらわれる時、両極となってでてきてしまう。実際の教室では、ときに異なるタイプとしてグループとグループの間で、あるいは個と個の間できしみを生みます。何とかその両者を結びつけたい。いや、その前に正面から向き合わせたい。結びつけるのは「言葉」です。切り離すのもまた「言葉」です。では、どんな言葉が必要なのでしょうか。生徒と接しながら、あるいはどんな文学作品を授業で扱うかを考えるとき、頭をよぎることです。自分とは異質だと思っていた人間の中に、自分と相通じるものがあると感じること、それは自分の中にあるもう一人の自分を受け入れることに他なりません。まさに、中学2年生とは、子どもから大人へと変化する象徴的な時期なのだと改めて感じます。

 

さて、太宰治の『走れメロス』ですが、とりもなおさず中学2年生の定番教材です。ただ私は長い間、この教材を扱ってはきませんでした。何度か教材研究はしてみたものの、直前になって躊躇していました。教科書教材としては長編です。扱うには勇気がいります。果たして生徒はこの作品をどう読むのでしょうか。小学生の高学年なら、一つのメルヘンとして楽しく、あるいは感動しながら読んでくれそうな気もします。中学2年生でもハッピーエンドの作品を望む生徒は多くいます。ただ、「こんな人、現実にはいないんじゃないのか?」「現実はそんなかんたんじゃないよ!」という声があった時、どういう授業になるのでしょうか。「そうだね!」で終わらせるのでは、この作品を読む意味はありません。それでいて「信実と友情は何よりも大切だ」「人を信じることこそ勇気ある行動だ」こういう言葉が空回りしてしまうのではないかという危惧もありました。にもかかわらず、目の前の生徒を見ながらこの作品を通し、何も考えず、照れずに「人を信じたい!友だちは大切だ!」と叫ばせてあげたい、そんな衝動があったのも事実です。つまり、私にとっていつも引っかかる作品であったわけです。

しかし、国語科の校内研究会での同僚の発言が挑戦するきっかけを作ってくれました。「この作品、王様に語らせたら面白いんじゃないか?」 王、ディオニスは「邪知暴虐」「奸佞邪知」といったことばで語られる暴君です。一見、感情移入しづらい人物のように見えますが、その反面もっとも人間らしい人物でもあります。人を信じたいけれども、信じられない。自分の最も信頼すべき近い人間から処刑せざるを得ない孤独感。いったいこの2年の間に何が王の周りで起こったのでしょうか。友だちに裏切られ、傷つき、あるいは逆に結果としてだれかを裏切るような形になってしまった経験の一つや二つ、どの生徒にもあることでしょう。人をそして自分を信じられなくなったことのある生徒も少なくないはずです。視点を変えて作品を読み直すとき、王ディオニスは我々にとって最もリアリティーを持った人物として浮かび上がってくるのではないでしょうか。はたして、王の本心はどんなだったのでしょう。王としての威厳を保たねばならない裏で、何を感じていたのでしょう。この問いかけは、現実の中学2年生の心に何か波紋を広げさせてくれるような気がしました。

 

それまで中1の教材である『少年の日の思い出』(ヘルマン・ヘッセ)では、語り手を「ぼく」から「エーミール」へ変換させ、エーミールの一人称小説として作品の後半部分を書きなおしてみるという作業をしています。主観だけでものを視ることに慣れきってしまっている彼ら(たぶんそれが子どもの特性のひとつであると思う)にとって、語り手である「ぼく」をつきはなし、別の人物の視点から物語を創りなおすという活動は、実際理解しづらいことのようでもありました。ただ、いったんそれを了解した彼らはこちらの想定以上に筆がすすんでいきました。たぶんそこには、作品の構造上の枠が確固として現前しているという安心感の中で自由に自分の想像を描ける喜び、さらにはヘッセの文体をまねることのおもしろさがあったように思うのです。

その手法を『走れメロス』において、試してみようと思ったのです。王のもう一つの顔を知ることはメロスのもう一つの顔を知ることでもあります。いや、二つの顔があるのではない。それはコインの裏表であり、両方あって存在するものです。両方あってメロスであり、ディオニスであるはずです。作品を読み深めていくうちに、両極端な人物として登場したこの二人の相違点だけではなく、共通点が見えてくるのではないでしょうか。

この再話の作業は多くの熱中する生徒を生み出し、中には年度を超え書き続けている生徒も現れました。評定を気にしてのことでは全くない、純粋に面白かったのだと思います。私も一つの読みに執着せず、生徒とともに教室空間での共同の読みを楽しめました。 (次週に続く)

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