日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第3話目をお届けします。毎週土曜日の10時に配信しています。
「ほりしぇん」というのは初めて担任を受け持った学年の生徒につけてもらったあだ名です。それ以来、生徒からも保護者の皆さんからも自然とそのように呼ばれてきました。今後ともよろしくお願いいたします。(中学校副校長 堀内雅人)
3 「ふつう」でなければいけないか?
もう30年近く前になるでしょうか。明星学園に勤め始めた私にとって夕方から夜にかけての時間は、先輩の先生たちの教育論や具体的な指導法についての、議論とも喧嘩ともつかないやりとりをきくことに費やされていました。何軒かの決まった飲み屋がありました。もちろん新米教師とて常に第三者として安全な場所にいられるわけではありません。酔った勢いで何度も、簡単には答えようのない質問をふっかけられもしました。豊かで濃密な時間でした。
前後は覚えていません。ある先輩教師が「たしか小林秀雄が書いていたと思うんだが」と切りだしました。「個性的な人間というより、変わり者といった方がどこか人間的な温かみを感じないか?個性なんて、教育で育てるようなもんじゃないんだよ」。新鮮なことばでした。『自由の大切さ』『個性の大切さ』は多くの学校で教育目標に掲げています。明星学園においてはなおさらです。その本当の意味について吟味することなく、否定しようのない言葉としていつのまにか受けとめていました。その後、会話がどう発展したのか、あるいはそれだけで終わったのかは全く記憶にありません。しかし、翌日私は小林の『考えるヒント』にねらいをさだめ、さっそく書店で文庫本4冊を買い求めていました。「個性」をキーワードに斜め読みを始め、ついにその箇所をみつけました。なぜか、当の先輩の先生にも話さず、秘やかな作業でした。
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≪誰も、変わり者になろうとしてなれるものではないし、変わり者ぶったところで、世間は、直ぐそんな男を見破ってしまう。つまり、世間は、やむを得ず変わり者であるような変わり者しか決して許さない。だが、そういう巧まずして変わり者であるような変わり者は、はっきり許す。愛しさえする。個性的であろうとするような努力は少しもなく、やる事なす事個性的であるより他はないような人間の魅力に、人々はどんなに敏感であるかを私は考える。と言うのは、個性とか人格とかの問題の現実的な基礎は、恐らくそういう処にしかない、これを掴まえていないと、問題は空漠たる言葉の遊戯になるばかりだ、と思えるからである。≫(小林秀雄『考えるヒント』)
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今まで何度かこの言葉に救われてきました。その度ごとにそのときの自分や状況に引き寄せて考えることのできる不思議なことばでした。そして、その度ごとに肩の荷がおりるような気がしました。
とりたてて個性的になろうと自分にプレッシャーをかけることなど必要はない。いや、それ以上に自分を変わり者と見られることを恐れる必要はない。変わり者、上等ではないか。変わり者が変わり者として生きられる社会こそ居心地の良い社会だと思います。そこには本当の意味での人間と人間との関係が生まれてきます。そもそもそう簡単には変わり者にはなれないのです。
「変なやつって言われた!」たぶん今までに何十人という生徒がこんなことばで助けを求めてきました。その度ごとに「変なやつでいいじゃないか。おれだって変な先生なんだから。普通ってどういう人なんだよ?」と問い返してきたと思います。(「何言ってんだ、この先生は!」と別の意味でヘンなヤツと思われてしまったかもしれませんが)
みんなが同じように仲良く、そんなコミュニケーション能力など、息の詰まるような関係の上でしか成り立ちません。毎年100数十人の新入生が中学校に入学してきます。変な生徒とそれに輪をかけた変な先生達が、中学校での生活を一緒に創っていく。そう考えると愉快ではないでしょうか。
(*次回は7/24配信予定です)