似顔絵1 - コピー (2)〖ほりしぇん副校長の教育談義〗は、今回(第33話)から『中3「卒業研究」の実践』を特集します。本校では中3の1年間、自ら立てたテーマ(問い)について調べ、自分の考えをまとめるという実践を続けています。今でこそこのような取り組みは、様々な学校で行われているようです。しかし、1985年度の中3で初めて実践したときは、ある驚きをもって受け止められました。「なぜ中3に卒業研究なのか?」「どのような発想からこのような実践が生まれたのか?」「時間割にはない大掛かりな取り組みをどのように実現するのか?」「教科教育との関係は?」「生徒に対するサポートはどのようにするのか?」試行錯誤の連続でもありました。

でも、そのような課題にしっかりと向き合うことは、目の前にいる15歳の子どもたちのリアルと向き合うことでもありました。〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第3部は、中3「卒業研究」を通し、中学生の姿、それに向き合う教員の姿をお伝えできればと思います。

 

Ⅲ 中3「卒業研究」の実践

 

1 中学生の『卒業論文』との出会い

 

私の勤務する明星学園中学校では、1996年度より現在に至るまで25年以上にわたって、中学3年生を対象に『卒業研究』に取り組んできました。この間は、試行錯誤の連続でもありました。しかし、校長を含め、学年所属を問わず中学校の教員全員が協力して指導に当たること、一部の生徒ではなく、全ての生徒一人一人に光が当たり、達成感の得られる取り組みを目指すという一点においては、まったくぶれずに歩んでこられたのではないかと思います。

自分でテーマを決めて、原稿用紙30枚以上の『卒業論文』を書くということでスタートした本校の『卒業研究』は、現在、卒業論文を書き一冊の本として製本すること、研究したことをお客さんの前で全員が一人ずつプレゼンテーションを行うこと、この二本の柱で定着しています。

まとまったレポートを書いた経験の少ない生徒にいかに文章を書かせたらよいのか、それぞれの教員は頭を悩ませてきたことでしょう。教科の授業と『卒業研究』をどう結びつけるか、教科サイドとしては常に頭から離れない課題だったのではないかと思います。「論文の書き方」の類の本は、世の中にあふれています。あるフォーマットを与えると、ある一定の水準の論文(レポート)ができあがることは理解できます。しかし、多くの生徒が同じような形式で、「全体的には悪くはないし、むしろ良く指導されている感じもするけれど、なんか、面白さがない! 個性がない!」と言われるような取り組みにはしたくないという思いを多くの教員が持っていました。かといって、すべて生徒に任せるなら、一部の個性あふれる作品ができあがる反面、自分で論文の完成にいたることができず、締め切り間際に何とかやっつけ仕事で提出だけ済ます生徒が出てきてしまうことになるのです。

そのような意味で、どこまで生徒に枠を作ってあげるかということは、目の前にいる個々の生徒をどう認識しているかによって変わってきます。それをマニュアル化したときに、大切な何かが抜け落ちてしまう気がするのです。と同時に、目の前の生徒に対しては明確な指示も必要です。ただそれは、一般化できるかどうかは分かりません。常に未完成です。未熟な実践を未熟な教員集団がどうすればより良くできるかを考え続けた20数年でもありましたし、この試行錯誤は終わることなく、教育という場の中では継続されていくことなのでしょう。

このブログでは、「論文の書き方」「プレゼンテーションの仕方」といったことについて多くは述べません。その分野については、多くの文献が用意されています。ここでは、「卒業論文」「プレゼンテーション」の取り組みを、どのような思いで生徒たちに実践しようとしてきたのか、それに対して生徒たちはどのように応え、一人一人のドラマが生まれているのか、評論家でも学者でもない現場の教員の立場から紹介することができればと思います。

 

私が明星学園中学校の教員になってから10年ほどが過ぎたころです。卒業生を3回ほど送り出し、国語の教員としても担任の役割も一通り経験し、本来なら自分の力を学校現場で大いに発揮しなければならない世代になっていました。にもかかわらず、どこか私の中にはもやもやしたものが大きくなりつつあるのを感じていたのです。本当にこれでいいのだろうか。

それは端的に言うと、教員である私と生徒との関係であり、また生徒同士の関係性の問題でした。教員の役割とは何だろうか。学校の役割とは何だろうか。本校の教育理念は『自由平等・個性尊重・自主自立』です。自由とは何だろう。自由と平等は果たして両立するものなのだろうか。個性とは教育で育てるものなのか。単なるわがままとはどう違うのか。自立している人間とはどのような人間をさすのか。自主自立と共同性はどのような関係でとらえればいいのか。

私にとって幸福だったのは、このような問題について語る同僚がいたということです。先輩の先生たちも自分の考えを一方的に押し付けることなく、禅問答のような言い回しで、考えるためのヒントになるようなことをつぶやいてくれていたことを記憶しています。実は、性急に答えを求めようとしないそんな雰囲気が、今の私を作ってくれているような気がします。

生徒の保護者の方からもさまざまな質問をもらいました。「国語というのは何を教える教科なのですか」「なぜ国語という教科名なのですか」。けして授業者である私を責める言い方ではありません。一緒に考えようという姿勢だったのです。まだ経験の乏しい私には、その質問の深い意味については恥ずかしながら理解してはいなかったはずです。ただ、それらいくつもの問いかけが40年近くたった今でも、その時の映像とともに、よみがえってきます。

ある日のこと、私のクラスの女子生徒の生活面の指導のためにお母さんに来てもらい面談をした後のことです。「先生!うちの娘の良いところはどこですか?」と、にこっと笑った彼女の表情。不意の質問にどぎまぎしてしまい、とっさに何も答えることができなかった自分。ゆっくり考えればいろんな話ができたろうに、そう思っても後の祭りです。今でもその場面を思っては、胸の痛みを感じます。それからです。生徒を厳しく指導しなければならないときこそ、まずその生徒の良い面を意識したうえで事に当たるようになりました。

こんなこともありました。保護者会の後、なぜか「先生!これ読んでみて!」と心理学者アドラーの本を数冊渡してくれたお母さん。どの人も私に性急に答えを求めたり、感想を求めたりはしませんでした。そのためかもしれません。私はそれらの問いを自分の中に持ち続け、常にそれを意識し、考えるようになったのだと思います。

ある時のことです。二人のお母さんが私のところへやって来て、こんなことを言いました。「明星学園の先生たちは、授業の研究を熱心にして、面白い実践をたくさんしているのは分かります。それなのに生徒が活躍するアカデミックな行事ってないですよね。生徒の主体的な行事といえば運動会があるけれど、それだけでいいのでしょうか?」私にはその時、すぐにその場で返答する言葉はありませんでした。でも、それは私自身が一番感じていたことでもあったのです。

その時突然浮かんだのが「中学生の卒業論文」という言葉でした。実は、この言葉を初めて聞いたのは私の高校時代の友人からでした。彼の数年上の学年が中学3年の時、学年全体で取り組んだというのです。今から50年近く前のことです。テーマ名を聞くと、大学生のそれと見まがうばかりでした。もちろんその時はただそれだけのことでした。ただ、偏差値の高い中高一貫校の中学3年生だからこそそのようなことができるのだろうと一種の羨望を交えながら思っていただけです。それが十数年たったその時よみがえってきたというのは不思議なことでした。

本校の場合は、小中高一貫校でありながら進学実績で生徒を集めるような学校ではありません。受験のための勉強ではなく、一人一人の生徒の成長にとって何が必要かを本質的に考えていこうとする学校です。偏差値の輪切りではない多様な生徒が存在しています。それでいて私自身、学校の理想とするところと現実のはざまで悩んでいるときでもありました。二人のお母さんからの質問を受けたとき、この生徒たちにこそ卒業論文の取り組みが必要なのではないのかと感じたのです。もちろん、何をどうすればこの取り組みができるのかそのノウハウも自信もありませんでした。このアイディアを同僚に話すまで1年半ほどかかってしまいました。

なぜ彼らにこの取り組みをさせたいと思ったのか、それは彼らの日常を見ていてのことでした。ほとんどの生徒が内部進学する明星学園において、中学校3年生での特別な受験勉強というものは必要ありません。公立中学校の生徒にくらべて、自分の時間はたっぷりあるはずです。クラブ活動に熱心な生徒もいました。夢をもって、習い事に打ち込んでいる生徒もいました。しかしその一方で、せっかくの時間を持て余しているように見えた生徒も少なからずいました。下校時間ぎりぎりまで何の目的もなく過ごしている。私はおしゃべりが無駄だという気持ちはまったくありません。むしろ中学校時代、一見無駄に思えるような時間の必要性を感じます。ただ、彼らの様子を見るにつけ、本当にそれが楽しいのかな? 本音で語り合っているのかな?と思うことがしばしばあったのです。それでいて、その一人一人の中には興味関心やこだわりがしっかりあり、テストの成績の良し悪しとは関係なく、豊かな可能性のようなものを感じていたのも事実です。ただ、総じて自信がない。心に秘めているだけで学校では話していない特技のようなものもある。なんてもったいないのだろうと思いました。日常の会話を超えて、「自分はこういうことが好きなんだ。」「私は昔からこういうことにずっと疑問を持ってきたんだけど、どう思う?」「みんな当たり前にしていることだけど、よく考えるとおかしくない?」「なぜ・・・なんだろう?」そんな言葉が生徒同士の間で、生徒と教員の関係の中で飛び交うようになったなら、なんて素敵だろうと思いました。そして、生徒への働きかけさえうまくできれば明星なら絶対にできるだろうとも確信したのです。(次回につづく)

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