10月3日(土)、4日(日) にちがく祭(文化祭)を開催します。

早いクラスは夏休み中から準備を進めています。きっと素晴らしい「にちがく祭」になるでしょう。

今日は、社会科 安田先生の文化祭に関するメッセージです。

 

「学園祭が近づいて思うこと」

日本学園も学園祭が近づいてきました。生徒たちは会場の設営や飾りつけなどで忙しそうに動いています。それを見ると、自分が高校生だった時の文化祭を思い出します。

私が通っていた高校は本校みたいに文化祭に力を入れていませんでした。前日の午後しか準備時間がなく、それほど本番も盛り上がりませんでした。私もそうでしたが、同じクラスの仲間たちも高校の文化祭ってそのようなものかな、と思っていました。

しかし、東京に上京してきて教員として働いてみると、私が経験した文化祭とは全くと言っていいほど違い、学校全体が一丸となって取り組んでいることがよく分かりました。
地域や学校の違いがあるといえ、みんなで盛り上げて成功させようという雰囲気があり、教員になって初めて文化祭とはこのようなものなのかな、と思っています。

今年は新型インフルエンザの流行で、生徒たちにも影響が出ていますが、それを乗り越えてぜひとも成功させて欲しいと思います。記憶に残る楽しい学園祭になることを期待しています。

 

 

私立校と公立校の違いはたくさんあります。

卒業して母校を訪れたときに、知り合いの先生がたくさんいるのは楽しいことでしょう。

 

中学2年A組 担任 山中先生のメッセージです。

 

 先日前に卒業させた生徒達が二十歳になったと言うことで誘われてその集まりに行った。

 

同窓会というわけではないが、卒業しても、時々あっていたメンバーがようやく自分たちも先生とお酒が飲めるということで、誘ってくれた。

すでに社会人として今年から「修行」を始めた人、大学生として就職活動をどうするか悩んでいる人、どう生きていこうか悩んでいる人など、いろいろな人との再会を楽しんだ。

 

お酒が飲めるけれど、飲めない人も結構多くいて今言われる草食系男子の一端を感じさせる。

 

ただ、みんなとわいわいやりたいということで飲む場所であっても参加するのかもしれない。

10人近く集まったメンバーだが、まだ三年足らずなのでみんな変わっていない。

でも、彼らを取り巻く環境は、日々変わっており、そこで苦労をしている話をみんなから聞けてよかった。

見つからないけれど、自分はどう生きたらいいのか。そのためにいろいろと悩みながら進んでいく姿を見て、しっかり卒業してくれたのだと安心をした。

それ以上に、自分も日々変わっていく環境にいると自覚していかないと成長がないことを感じた。

 

 なによりも、幹事として今回仕切った卒業生のH君には、驚かされた。在学中は、人の世話より自分のことで目一杯の人だったのに、数名の仲間と一緒にきっちり会をセッティングしていた。やはり、人は変わるものだとつくづく思った。

※本校校長は時間の許す限りクラブの応援に行きます。

校長の観戦記をご覧ください

前の日曜日、自宅からはちょっと遠かったのですが、京浜急行空港線「大鳥居」駅から徒歩8分の都立つばさ総合高校まで出かけました。高校サッカーTリー グ3部の優勝決定戦のためです。対戦相手は、そのつばさ高校で、つまり学園チームにとっては不利な敵地での戦いです。
 午前10時に始まった試合は、アウエイの不利もあって前半戦は押され気味。私は
「うちの子たちは、まだ半分眠っている状態なのかな・・・」
とぼやいていました。
後半戦に入ってもゼロ対ゼロの状態のまま。私は直射日光を避けるため、敵陣ゴールの後方にある木陰に座っていたのですが、少しずつ調子を上げてきた学園選手の放ったゴールシュートが大きく逸れてフェンスを越えて、私の近くにころがってきました。私は拾い上げたボールに
「にちがく(日本学園のこと)に勝たせてください」
とつぶやいて、選手に投げ返しました。その数分後に再びボールが私の方に・・・。
私も驚きましたが、やや離れた場で応援する保護者のお母さんがたも
「また、校長先生のところに・・・」
やはり、何かを感じたのかも知れません。そこで私は再び立ち上がってボールを拾い、同じおまじないをかけて、投げ返しました。
その5分後ぐらいでしょうか、何と学園チームが待望の1点を入れて、逃げ切って優勝したのです(話を面白くしようと、作っているのではありません。全部、真実です。ただし、私のおまじないのおかげで勝ったとまでは言いません)。

養護の井上先生よりのメッセージです。

昨日は、二十四節気の白露にあたります。
今日は暑い日ではありましたが、やはり真夏の暑さとは違って秋の気配を感じます。

先週あたりから、近所の魚屋さんには秋刀魚も出まわってきました。早速、魚屋のおじさんに「今年の秋刀魚は脂が乗って美味しいよ!」とすすめられ、塩焼きにして大根下ろしもたっぷり添えて頂きました。今年の秋刀魚は脂が乗って美味しいわりに値段が安めなようで、秋の味覚をたっぷり楽しもうと思っています。

「にちがく」の秋も、これから、日学祭を始めとして盛りだくさんな予定です。「食欲の秋」だけでなく、「勉強の秋」「スポーツの秋」そして、もっともっと秋を堪能しつつ、たくさんのことを吸収していって欲しいと思います。

保健室としてはインフルエンザの流行の動向にドキドキしつつも、きっと実り豊かになっていくであろうこれからの秋という季節を楽しみにしています。

現役生にとって最も大切な夏休みが終わってしまいました。夏休み中は、学校や塾の講習に参加していた人、毎日学校や自宅で地道に勉強していた人、AO入試の準備に追われていた人と様々でしたが、各自、自分のやるべきことを一生懸命やっていたようで、安心しました。

2学期はAO、指定校推薦、公募推薦による入試が始まります。一般入試と違い、それぞれ事前に準備すべきことが非常に多いので、期日に間に合うよう十分余裕を持ってやるようにしましょう。また、そろそろ面接の練習もしなければなりません。面接対策については後日詳しく説明しますが、自分の語るべきことは何なのか、じっくりと考えておいてください。

入試準備と並行して日学祭の準備も進めなければなりません。今年は模擬店のみの参加のため、さほど大変ではありませんが、何事もバランスよく進めていきましょう。

また、B組は半数以上の人が来年の一般入試まで頑張っていくことになりました。敢えて困難な道に挑戦するという姿勢があるので、その姿勢を頼もしく思い、期待しています。各自、それぞれの希望の進路に進むことができるよう、精一杯頑張ってください。朗報を待っています。

いよいよ2学期がスタートしました。
中1B担任 小飯塚先生から学期初めのメッセージです。

 今年の夏はなんだかとても短く、朝と夕方に部屋に入り込む涼しい風が早くも秋を感じさせ、夏の終わりの静まった空気が部屋を漂っている。

 2学期のスタートです、担任となってはじめての夏明け、(今年はすべてはじめての体験になるが)やはり真っ先に心配になるのが、この夏に出た各教科の宿題。

誰もが経験したことだと思うが、夏休みの終わりに、この夏遊びまっくったことを後悔しながら終わりの見えない宿題を必死になって片付ける。

これを書いている間も、宿題を溜めてしまっていそうな生徒を想像し、同じ思いをしながら必死になっている姿を勝手に頭に描いている。

これはあくまで想像に過ぎない。もしかしたら全員終わってるのかもしれない(そうであって欲しい)、と、なんとこんなことを考え緊張している私がいる。


「こんな夏の終わりははじめてである。」


 さて、2学期といえば学校行事も学園祭に始まり中学はスキー教室など盛りだくさんである。

中学ではこの夏の校外授業の農泊体験を学園祭で発表し、すでに準備も着々と進めている。

そして、もう一つは、劇、これも1学期から準備してきているものであるが、この2学期も始まって早々勉強に行事に忙しそうだ。

がんばっていこう!


※10月3日(土)、4日(日)「にちがく祭」です。

  中学生は、展示・演劇、そして学年によって、いろいろな発表を行います。

  夏休み中から準備を進めているクラスもあるようです。(Web管理人)

※尾花先生の文化祭はどうなるのでしょうか。感動の最終回です。

そのうち、キャンプファイヤーの点火を待つ人と、その前に帰ろうとする人とが次第にはっきりしてきました。ちらほらと、ダンスに使うオクラホマミキサーのテスト放送も聞こえます。
いや~な汗が背をつたうその時、後夜祭を待つ人混みの中に、ひとりの女の子が目につきました。少々茶髪の目立つ、落ち着いた感じの女子高生が、もう一人の友だちと話しながら、楽しそうにグランドと校舎の間ににたたずんでいます。
小柄でよく笑う、大人っぽい感じの人だったのが印象的でした。下手な鉄砲でも、まずは打たねば当たるまい。もはや人生崖っぷち。勇気をもって、ダメもとでダンスに誘うと、にっこり笑って、

「ていうか、あたしたぶん年上だと思うけど?」

な、なんと! 先輩だったか…。おそらく、今の生徒でもそうだと思いますが、中高生で学年がひとつちがうというのはかなり大きなこと。
まして異性に話しかけるとなれば、当時はそれこそ勇気がいることでした。とにかく恥ずかしいやら緊張するやら…。でもここでダメなら、もう時間がありません。
木っ端ミジンコのバラバラ、ひとえに風の前の塵に同じでございます。自分は背水の陣で頭を下げたのでした。

「あ、先輩とか全ッ然OKッス。よろしくお願いします!」
「ハハ、なんか運動部っぽいね。じゃあ時間になったらここに迎えに来て」

あれ、これってOK? やったー! やったぞー! エイドリアーン!(この時、自分の頭の中には、なぜかロッキーのテーマが流れていました)。もし近くに他の生徒たちがいなければ、おそらく歓喜の雄叫びをあげていたことでしょう。
ひとつは地獄のシゴキから逃れられたことに対して、もうひとつはちっぽけな勇気がむくわれたことに対して。

さてさて、あとはもうあやふやな記憶でしかありませんが、たしかこの年の一年生部員20数名は、すべてフォークダンスに相手を誘うことに成功していたように思います。
そして、ここからしばらく、たいていの部員が、高校に入ってはじめての〈楽しい時〉を過ごすことになるわけなのです。だからといって、さすがに当時の先輩に感謝の気持ちはありませんでした。よくぞまあ、史上最大の緊張を与えてくれたものです。
こんなひどいこと、もう誰がするもんかと言いつつ、ひとつ先輩になると、やっぱり同じことが繰り返されるのでした。「伝統」ってこわいものです。

まあ何はさておき、終わりよければ何とやら。めでたしめでたし。
《おしまい》

ラグビー部顧問尾花先生の3回シリーズ 愛と勇気の文化祭 その2

 フォークダンス、踊れなければ「地獄の練習」。そんな殺生な…。でも、あとでわかることなのですが、この話は一見理不尽なように思われて、実は運動部の先輩たちの“ささやかな愛情”がこめられていたのでした。

 

 もとより、田舎の男子校生と言えば、女子との接点がなかなかありません。自分の母校は、地元ではそこそこ人気のある男子校ではありましたが、それこそ一年中部活三昧のきびしい毎日にあっては、他校の生徒との交流など、部活を通して以外にはありえなかったのが実情でした。

だから二年の先輩たちは、後輩部員たちにあえて「地獄の練習」という言葉をもちだし、強制的に女子と話をする機会を設けてくれたというわけなのです。

 もちろん、文化祭は文化祭。フォークダンスを踊れなかっただけでシゴキまがいの練習なんて、実際にはあるわけがないのです。

 

 がしかし、当時の自分たちにとっては、それは冗談ではすまされません。

部に入部してから約四ヶ月。その間に、どれだけ高校の運動部がきびしいものか、もう嫌というほど味わっています。

 古き男子校の体育会系、先輩の言うことはとてもとても重いものでした。自分たちは、とりあえず直しても無駄な身だしなみを一応整え、校舎の中をひたすらウロウロ。後夜祭の開始まで一刻の猶予もありません。あちこちでダンスの相手を探しながら、校舎の内外で、何度も他の部員たちと顔を合わせます。

「おい、お前相手見つかったか?」

「ダメだよ、全敗だって」

「お前さ、理想高えんだよ」

「うっせえ。でもマジ『アレ』だけはやりたくねえよ、絶対見つけようぜ」

こんな会話が、学校のあちこちで繰り返されていました。

 

 そのうち、そこそこ男前な部員たちは相手を見つけてホッとひと息、あとはもう後夜祭を待つだけです。が、自分を含め、半分以上の部員はまだ相手が見つかりません。キャンプファイヤーの点火まであと少し、俺たちの命ものこりわずか…。しずむ夕日、せわしい蝉の鳴き声が、いやがおうにも焦る気持ちをかき立てます。そのうち、ほかの運動部員たちも、なぜラグビー部の一年生がこんなにも焦っているのか、次第にわかってきたようです。面白半分で応援したり、同じ気持ちでため息をついたり、でもやっぱり人ごとは人ごとのようです。もともと仲がよかった野球部など、後夜祭よりも楽しそうに、自分たちのことを遠目に見て笑っていました。

《またもつづく》

 

 

ラグビー部顧問尾花先生の「夏の思い出」 愛と勇気の文化祭 その1 をお送りします。

 

高校時代の夏の思い出というと、ハッキリいって、部活でしごかれたこと以外記憶になく、思い出せば思い出すほどブルーな気持ちになってくるので、あえてほのぼのとする話をひとつ。
それは、なつかしくもあり、少々恥ずかしくもある、文化祭にまつわる小さなエピソードです。夏というには、いささかズレているかもしれませんが、一応夏の名残りとしてお話しします。

自分の母校では、毎年9月の頭に文化祭があります。二日間にかけて行われる文化祭は、イベントの少ない高校生活の中で、誰もが心待ちにしている行事でした。というのも、男子校の文化祭であれば、ほとんど女子高生しかやって来ないからです。言うなれば、モテない男子高生にとって、年に一度〈地上の七夕〉みたいなもの。
その日を逃せば、またもとのむさ苦しい男だけの世界に逆戻り。ああ、青春かな文化祭。その日ばかりは誰もが胸高鳴り、血湧き肉躍り、そして無意味に雄叫びを上げたくなる、そんな二日間なのであります。以下の話は、自分が高校一年生の時の実話です。

文化祭2日目の朝、部活動における教育係、先輩の二年生から「部室前に全員集合」とのお達しがありました。尋常でないこの雰囲気、誰か何かやらかしたのだろうか? こんな日に呼び出しなんて、いったい何が起こったんだ?
一年生部員全員に緊張が走りました。みな即座に集合し、先輩の前に直立不動です。すると、二年生のリーダーから次のような言葉が。
「お前ら、後夜祭のキャンプファイヤーで、フォークダンスあるの知ってるな? そこで女の子と踊れなかったヤツは『アレ』だからな。以上」

さて、『アレ』とはいったいナンぞや。そう、我が校ラグビー部独特の、それはそれは厳しい地獄のような練習のことを指すのです。ふだんの練習で、一年生がヘマをした時にだけ行われるあの練習。
全員の顔色が少しずつ変わって行くのがわかります。自分の隣にいた部員が、先輩には聞こえない小さな声で呟きました。
「ジーザス…」。
たかがフォークダンスをペアで踊れないだけで、地獄の『アレ』が。これはいかん、それだけはごめんだ。
楽しいはずの文化祭、部員に戦慄がはしりました。一年生全員の目の色が変わり、そして、部室前から校舎に向かって全力で走っていったのです。
《つづく》

その1

お題は「夏の思い出」。今年の夏の思い出は、何といっても長かった「夏期講習」。中学3年生の講習にてである。

 論説文・小説・古文・知識問題など、普段の授業ではなかなか扱えない、ちょっと難し目の入試問題を用いての問題演習を行っていた。問題を解く→解説(答え合わせ)という授業形式なのだが、「進学クラス」のある生徒が、なぜか、うれしそうに「やばい!」、次の問題も「やばい!」を連発している。

 何だ、やはり少し難易度が高いので分からないのか、それとも、体調でも悪いのか・・・。

気になったので、件の生徒に聞いてみた。

「K君、やばいとは何事かね?」

「先生、答えが調子よく『○』なんですよ!!」

 

しばし、考えた。自分で解いた答えが正解である、という普通に考えれば喜ばしき状況であるにも関わらず、本来、危険な状況であることを表す「やばい」とは、何事か?

 最近の若者はこの言葉をいい意味にも使うらしい。いわく、美味しいものを食べたときも「やばうま」・・・・・・。

 さて、そういう時、教員としてはどういう態度で接するべきか?

     昨今の若者の言葉遣いに理解を示しつつ、「そうか、最近はそういうふうにも使うのか」と、笑顔で明るく答え、若者文化全般に理解ある大人という評価を生徒の中に醸成させ、すぐに授業へ立ち戻る。

     昨今の若者の言葉遣いに半ばあきれながらも、ここで生徒が何気なく使った一語にこだわって授業を中断するよりは、授業の進度を最優先に考え、何も言わずに冷静に大人の態度でもって、そっと授業へ立ち戻る。

 さまざまな態度の示し方が、一瞬のうちに私の脳内を駆け巡る。

しかし、私の取った態度は、

「K君、『やばい』というのは、危険な状況などにおいて、つまりマイナスの意味で用いるものなのだよ、君は正解を連発しているという、本来喜ばしきものである事実が、何か、君の身の危険を呼び起こしているのかね!?」

 K君はあっけにとられているが、周囲の生徒はにやにやと笑っている。

 生徒達は、私のこういうやりとりにもうすでに2年以上つき合わされていることになる。

私はさらに続ける。

「K君、ここは正解が続いて、『やばい』ではなく、素直に『うれしい』と言い直すべきではないかな? 違うかなK君! 私も、君が正解を重ねてくれてとてもうれしいよ!!

「……う、うれしい。」

 恥ずかしさを押し殺した彼のはにかんだ表情には、言わずにはこの場を終えられないという、この2年間で身につけた大人らしい判断力とともに、かすかに男の子の可愛らしさが感じられる。

 その日の授業が10分ほど押したのは言うまでもない。

 

 

夏だろうと何だろうと言葉にこだわる その2

 

「ことば」にまつわることを書いてみたが(そんな偉そうなことでもないですが)、普段の生徒の言葉遣いを聞いていると、けっこう気になることがある。

 たとえば、夏休みの宿題の一覧表を配る。そうすると、ある生徒が

「国語の宿題、めんどくさくない?」

と、隣の生徒と話している。

 そういう言葉を私は聞き逃さない。このことばのどこが気になるのか。

 

    大切な宿題なのに、鼻から「めんどくさい」と言ったこと。

    よりによって、国語の宿題を「めんどくさい」と言ったこと。

    それをしかも、聞こえるように言ったこと。

    「めんどくさい」と、「面倒くさい」をくずした言葉遣いをしたこと。

 

実は、そのどれでもないのだ。

「めんどくさくない?」という時の、アクセントなのだ。

普通、「めんどくさくない?」と言う時、「く」のところにアクセント(高音にする)をつけて発声するはずだ。しかし、生徒達は、というか、最近の若者は「くさく」のところを、同じ音の高さで発音するのだ(こういうのを国語業界では『平板化』と呼ぶ)。

この発音がどうしても気になる。

昨今、もっとも使われているであろう、分かりやすい例でいうと、「いかんじ」を「いいかんじ」と発音するやつ(傍点はアクセントの位置…以下同じ)と言えば分かってもらえると思う。私は絶対にこんな発音では言うことはできない。

なので、生徒に言わずにいられない。

「○○君、『めんどくさくない?』、とは何事か?」

 一瞬、ぎくりとする生徒。やばい、聞こえたか!

「それは、『めんどくさくない?』ではなく、『めんどさくない?』だろ! 言い直しなさい。」

「……。先生、そこですか?」

「ああ、そこだ。」

 生徒達は、半分笑いながら、半分あきれながら話を聞いている。こうして、私のかわいい生徒達は、こういう私との「めんどくさい」やりとりに付き合ってくれる。

しかし、気になるものは、気になるのだ。

 ことばは生きものと言われる。その意味用法も時代とともに変化している。新しい文化を創造する主体の多くは若者であるし、新しいことばを生み出すこともあると思う。あることばが、時代を経て昔とは異なる意味で用いられるようになったのは、古文でいう「をかし」の例(「趣深い」という意味が、現代では「おかしい、変だ」という意味でも用いられる)を見れば明らかである。先日の「やばい」も同様、英語圏では「bad」は、良い意味でも用いられることがあるようだ(追悼 マイケル・ジャクソン!)。

 アクセントについても、地方による違いはある。たとえば、京都の先生と話したときに「んせい」と呼ばれると新鮮に感じる。

  しかし、ことこのアクセントについては、どうも「創造」や「地域差」というより、無意識のうちに、ある種の「均質化」を求めているように私には思えてしまうのだ。

こんな事を感じるようになったということは私もそれだけ年を食ったということなのだろうか。そういえば、少し前まで若手若手と言われたが、確かに最近言われることもなくなった。

しかし、年齢ばかりではあるまい。なぜなら、私よりも年配であり、授業における厳しさでは随一、日学きっての硬派で知られる、九州男児の某先生が、「伊藤さん、今日の説明会、いいかんじだったね」とかわいらしく言われたのを聞くにつけ、驚きとともに、そう感じずにはいられないのだ!

※某先生、引き合いに出してすいません。尊敬しています! 

ページ
TOP