全ての私達に

一学期のハーフタームには日本に帰国した生徒達も数多くいました。久しぶりの母国と家族が安らぎを与えてくれたことと思います。
しかしながら、英国から日本のニュースを見ていると、川崎の殺傷事件が目に飛び込んできました。まずは、亡くなった方々、傷ついた方々、その関係者を覚えて祈りましょう。
このニュースを見聞きしたとき、つらい思いをしている人たちのことが浮かびました。と同時に、本校は関東圏からの方が多いので、生徒の皆さんのことが心配になりました。もし直接被害に遭わなくても、生徒達の知人が被害に遭ったかも知れません。
そう思いながらニュースを調べていると、はっとなったことがありました。被害者の男性の一人、私と同世代の外務省の方に見覚えがあったのです。
今から十年以上前に、神学校の研修でミャンマーの奥地、インパール作戦の舞台の一つに訪れたことがあります。奥地の空港で、亡くなった外務省の方と私は出会い、ミャンマー最大の都市ヤンゴンまでのフライトを隣席にて共にしたのでした。
その時に、ミャンマーの貧しさの問題について言葉を交わしたことを鮮明に記憶しています。
ミャンマーの名産である翡翠の鉱山は、中国やインドの資本に抑えられていて、そこで貧しいミャンマー人の男性が家族のために出稼ぎに行きます。残された妻は、当分の蓄えがない場合は売春宿に働きに行くのです。そして妻や、あるいは現地の売春宿を訪れた夫は性病にかかり、結果、ミャンマーではHIVが蔓延しています。
そのため、現地の教会ではHIV患者のための施設を設けています。
また児童労働も問題となっています。五人に一人の子供が学校に通わず、働かざるをえない貧しさなのです。そういった子供たちの受け皿として、教会が寺子屋のような役割を果たしています。
ある大聖堂を訪ねたとき、多くの若者達が教会で練習を重ねた現地の踊りなどで私達を歓迎してくれました。
その日の夜、ガイドをしてくれるミャンマーの方に連れられ、お酒が飲める大きなホールへ行きました。壇上では、昼間見た踊りと似たような踊りを、若い女性達が披露しています。
ふと目をやると、ホールの片隅には大きな花輪があります。あれは何かと尋ねると、「花輪を買って踊り子に渡すと隣りに来てくれる。さらにもう一つ花輪を渡すと、踊り子と夜を過ごせる」との返事がありました。
何ともやるせない気持ちに包まれたことを覚えています。
この私の経験を生徒達に授業や礼拝などを通して伝えました。
私を通して川崎の殺傷事件や、また殺害された方がどういった国で働いていたか。その国の人々はどういう状況にあるのか。生徒達にとって、今回の川崎の殺傷事件や世界の状況はまさに他人事ではなくなったことと思います。
私達はつい、自分の知っている範囲のみを私達と思い込んでしまいます。
ですが、「私達」という範囲は本当はとても広く、実はまだ会ったことがない人も含めて「私達」なのです。国内外における社会の分断が続いて久しいですが、世界は地続きなのです。
毎朝の礼拝にて、イエス様が教えられた「主の祈り」が唱えられます。その一節に「私達に日ごとの糧をお与えください」という祈りがあります。
この糧は、心と体の糧を意味します。この糧には、愛という意味があるのです。
「全ての私達に、心と体において愛が与えられるように。」
「私達」として祈る意味。「愛」を求め祈る意味。
世を去りし者も、この世にいる者も、全ての私達が共に歩むことができますように。
これを覚えながら、生徒達が人として成長していくことができますよう祈り願っております。

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