「諦めない、見捨てない」(マタイによる福音書18章21節-22節)

何をされても「いいよいいよ」と言って怒らないことが赦すこと、寛容なことなんだと思っていました。けれども最近「怒っていい」と言われました。「あなたの言動が私を傷つけた」という意思表示をしていい。それをしなければ、相手は成長できないからです。
神さまは、聖書の中で結構怒っている。けれども神さまが決してしないことがあります。それは諦めることと見捨てることです。赦すとは、諦めず、見捨てない事
行動には線を引くけれど、人に対しては線を引かない。誰かが何かをしたときに「どうせまた〇〇するだろう」と決めつけない。その人が成長する可能性、その人が行動を改める可能性を勝手にシャットアウトしてはいけない。そして期待し、成長を見守るのです。逆の方が簡単です。ですが、私たち自身も、多かれ少なかれ、誰かにそうやって赦されてされてきたんじゃないかと思うんです。
私は中学・高校をキリスト教主義の学校で育ちました。中学生の時に信仰を持ってクリスチャンになりましたが、聖書の授業が嫌いでした。そしてある時聖書の先生にケンカを売りに行った。その先生は、ひたすら私の話を聞いてくれた。
帰り道、目的は達成したはずなのに、すごく嫌な気持ちだった。その嫌な気持ちの正体に気づき、私が間違っていたと気付いたのは自分が聖書の先生になってからでした。
去年の秋、先生に電話しました。「昔先生に謝っていただきました。今度は私が謝りたくて電話しました」って。私が気づいて謝るまで15年近くかかりました。でも、その私の可能性を先生はシャットアウトしなかったんだと思のです。私の要求を受け入れることはなかったけれど、私のことは受け入れてくれました。
私たちは、みんな誰かに成長を見守られてここまできた。赦されないようなことをしてしまっても、諦めないで関わってくれる人がいたと思う。だから今度は、私たちが、誰かを諦めない人に、見捨てない人になっていきたい。

聖書科教員より

 

聖望学園では中高とも週に1度、礼拝が行われます。キリスト教の精神を学び心を落ち着かせると共に、ことば(メッセージ)を聞くことができます。毎週のメッセージから、人生を歩むヒントや心の支えを見つけてもらえると考えています。

部活や授業、行事では学ぶことのできない、「生きる糧」となるメッセージをもらっています。

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