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富士塚校舎は焼け、その後も空襲は続きます。
武相台校舎は戦火の中かろうじて残ります。
石野先生の自宅は当時横浜駅の近くでしたが、こちらも焼けてしまいます。学校のそばになんとか小屋に近い家を建てました。
そして終戦を迎えます。
8/15学校に50人弱の生徒が集まり、用務員室のラジオを外に出し玉音放送を聞きました。
他校が休校の中、武相は8/18頃には授業を再開します。
連合軍の進駐、軍国主義から民主主義へ大きく変わる中、水道・電気にも困り、食料も不足する事態は変わらず、昭和20年が終わろうとします。
昭和20年12月、今の校歌が作詞されます。学校ができたときからずっと気にかかっていたそうです。詞には弟・石野博先生が曲を付けました。
Kazuki × Takafumi – BUSO SCHOOL SONG / THE FIRST TAKE風
校章も現在の「動静章」が考えられました。
昭和21年、新しい年が明けました。
石野先生は、新しい学校教育に相変わらず忙しく過ごしています。
第1期の卒業生を出し、校舎の増築、水道も完成します。
そして、昭和9年から休止していた史蹟めぐり会の「武相文化協会」を復活させます。復活例会は第154回として箱根湯本で行われたのでした。
(つづく)
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