富士塚校舎は焼け、その後も空襲は続きます。

武相台校舎は戦火の中かろうじて残ります。

石野先生の自宅は当時横浜駅の近くでしたが、こちらも焼けてしまいます。学校のそばになんとか小屋に近い家を建てました。

 

そして終戦を迎えます。

8/15学校に50人弱の生徒が集まり、用務員室のラジオを外に出し玉音放送を聞きました。

2022.12.19 武相の歴史第二部5

 

他校が休校の中、武相は8/18頃には授業を再開します。

連合軍の進駐、軍国主義から民主主義へ大きく変わる中、水道・電気にも困り、食料も不足する事態は変わらず、昭和20年が終わろうとします。

 

昭和20年12月、今の校歌が作詞されます。学校ができたときからずっと気にかかっていたそうです。詞には弟・石野博先生が曲を付けました。

 

校歌の歌詞はこちら

 

Kazuki × Takafumi – BUSO SCHOOL SONG / THE FIRST TAKE風

企画31 サムネ案

 

音楽のプロが教える学園歌の歌い方【武相学園】

企画32 サムネ案

 

校章も現在の「動静章」が考えられました。

校章

昭和21年、新しい年が明けました。

 

石野先生は、新しい学校教育に相変わらず忙しく過ごしています。

第1期の卒業生を出し、校舎の増築、水道も完成します。

そして、昭和9年から休止していた史蹟めぐり会の「武相文化協会」を復活させます。復活例会は第154回として箱根湯本で行われたのでした。

 

(つづく)

 

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