今回は駒女の弓道部の様子をご紹介します!

終業式を終えて、とうとう夏休みが始まりましたが、弓道部は今日も元気に活動しています!

 

 

引いた後は矢取りと矢拭きもしっかりと行います。

 

顧問と上級生の熱血指導により新入生もぐんぐん成長中です!
8月始めには合宿が待っています。
この期間で練習を積み、次の大会も好成績を残せるように、さらなる上達を目指して頑張ります!

第28回全国高等学校女子硬式野球選手権大会

駒沢学園女子高等学校0-6作新学院高等学校

本来の力を発揮できずに敗戦となりました。
自分達のやりたい野球はできませんでしたが、状況においてできることはしっかりとやっていた選手達を見て感心しました。
勝たせてあげられなかった監督の責任です。

この1年間で色々なことがあり、仲間や顧問とたくさんぶつかりましたが、私はいつも本気で向き合い、3年生の可能性を信じてきました。最後まで辞めないで、やり通した事は大きな財産になると思いますし、ありがとうと伝えたいです。この経験は今後、何かで辛い時の支えになるでしょう。3年生の皆、お疲れ様。
そして2年生、1年生、厳しい夏になると思います。支え合って乗り越えてもらいたいです。

まだまだ発展途上の駒沢女子ですが、今後も応援宜しくお願いします。

 

 

皆さんは校歌と言われて頭に浮かぶのは? 幼稚園・小学校・中学・高校・大学どの時ですか。私自身はというと、色々な校歌のサビがごちゃ混ぜになって浮かんできます。
校歌と聞いて思い出す事は、母校に教育実習に行った時、教務主任をされていた先生が、「赴任して来た時に始業式で生徒の歌う校歌を聞いて良い学校に来たなと感じた」という話です。合唱が盛んな学校だったので卒業生である私はちょっと誇らしい気持ちと、「先生ってそんな事で学校の良さが分かるんだ~」と印象に残っています。そして私にとって、一番なじみの深い校歌はというと学園にお世話になり数十年やはり駒沢学園の校歌でしょうか。
駒沢の校歌で思い出す事は、稲城に移転した時に理事長の上田先生が教室から見える見事な富士山を見ながら「この景色だよ、校歌の歌詞と同じだろ。」と愛おしそうに話されていたのを覚えています。そして音楽の小林先生が、同窓会で校歌の伴奏を頼まれピアノを弾き出すと4番まで大合唱「2番までと思っていたから慌てちゃったわ」という話です。色々な年度の卒業生たちが一同に集いそれぞれの思いのこもった大合唱。世代を超えて結びつくための1つのアイテムとしての校歌の役割や熱い愛校心を感じました。
以前は毎日、朝礼の時に校歌やその時々の仏教行事の歌を歌ったりと今よりも校歌を歌う事も多かったように思います。特にコロナ以降全校生徒揃って歌を歌う機会も少なくなりましたが、在校生は校歌を歌う事ができるのだろうか……と心配になります。
安心して校歌を大合唱できる日がまた訪れる事を願っています。

 

芸術科美術 髙橋

今日は終業式、夏休みを前に生徒の顔はやはり嬉しそうです。

暑い廊下で、教員といつまでも楽しそうに話をしている生徒、部活をしにテニスコートに走っていく生徒、重いウオータージャグを必死に抱えている生徒などなど……。
「夏だ! あついあつい青春だ‼」生徒の声が聞こえてくるようです。
夏休みは自分のやりたいことに、思いっきり挑戦して、良い思い出をたくさん作ってくださいね。そして、一回り大きく成長したみなさんと2学期お会いしたいと思います。

 

 

 

 

7月14日の試合後、保護者の皆様から勝ち守りをいただきました。

毎年この時期になると、いよいよ最後だなと気が引き締まります。

野球ができるのは保護者の支えがあるからで、感謝の気持ちを持って夏の大会に臨みたいと思います。

 

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リーグ戦の最終戦となった試合は、

叡明高校12-2駒沢学園女子高校
上記の結果になりました。

幸先よくスクイズで2点を取り優位に試合を進めようとしていましたが、途中の4回表、フォアボールからヒットやミスが重なり8失点。
この点数が響き敗戦となりました。

リーグ戦としては6勝8敗という結果で終わりました。昨年度は2勝のみでしたので、勝ち星としては昨年よりも多く勝ち取るとこができ、選手の成長を感じるリーグ戦となりました。

 

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健康栄養学科アスリート栄養サポートプロジェクトでは、女性アスリートへの栄養サポートについて学び、実践していくプロジェクトを実施しております。

駒沢学園女子高等学校野球部の選手の皆さまに対して、5月に実施した今年度1回目の栄養・身体状況調査の結果をお渡しするフィードバックを6月に行いました。同時にお弁当提供と食育講話も実施しました。

今回は練習前のお昼の時間に実施しましたので、学生メンバーが考案、調理したお弁当を提供しました。お弁当の内容は、エネルギーやたんぱく質、さらにカルシウムも補給できる「たんぱく質&カルシウム強化弁当」です。

 

調理の様子①
調理の様子①

調理の様子②
調理の様子②

 

提供したお弁当
提供したお弁当

選手の喫食の様子
選手の喫食の様子

フィードバックは、これからの厳しい暑さを乗り越えるためのコンディション管理の参考にしていただけたのではないかと思います。また、講話も「コンディション管理について ~元気で部活動を行うために~」というテーマで行いました。前回のフィードバックのときに学生メンバーから、除脂肪体重(LBM)についても選手に注目してほしいとの声があったので、講話の中に除脂肪体重(LBM)の内容を入れ、選手には今回の測定会の除脂肪体重(LBM)の項目もしっかりと確認してもらいました。

 

食育講話の様子
食育講話の様子

最後に、選手とフリートークをさせていただき、食事のこと補食のことなどを中心に情報交換をさせていただきました。

 

フリートークの様子
フリートークの様子

夏の大きな大会が始まる前のお忙しい時期だったかと思いますが、ご参加いただきました選手の皆さま、顧問の先生、監督、コーチの皆さまに感謝申し上げます。

学生のコメント

ただ話すだけでなく、実際にお弁当を提供することで生きた食育を経験することができ、とても勉強になりました。無事にお弁当を作ることができて良かったです!!

実際にお弁当を提供してみて、調理の作業においては大変な部分もあったが、それ以上に選手たちが楽しそうに待っていてくれたり、おいしかったですなどと喜んでくれたりと、とてもやりがいを感じることのできたお弁当提供になりました。また、選手と直接お話をして、補食や食生活などについても聞くことができ良い機会になりました。

朝早くから調理を開始したが、効率よく作業を行うことができたので予定より早く終わり、余裕を持って提供することができた。提供時には、選手と会話できる機会があり、練習前後に食べやすい食事内容などを聞くことができ、今後の参考にしたいと思いました。

 

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保護者と生徒と担任との三者面談がありました。

教員にとっては、日頃のご家庭での様子が、保護者の方にとっては学校での様子がわかる大切な機会となっています。
「先生、あんまり余計なことは言わないでね。」と、事前に生徒からお願いされることもたびたびです。きっとその逆もあるのでしょうね(笑)。
保護者の前ではいつもとはちょっと雰囲気が違う、生徒の新たな一面を垣間見ることができ、新鮮な発見があります。
学校と家庭は両輪、共にしっかりと見守ってまいりましょう。

歴史が好きで社会科の教員になった自分が、今、「仏教」なるものも教えている。歴史と仏教は全く違うように思えるが、人の生き方を考える点では同じだ。
仏教を教えるうえで大切にしていることは、「死」について真剣に考えるということ。最初は、「死」といっただけで、クラス内が微妙な雰囲気になる。今の社会では、「死」を話題としない。子どもたちにとって、「死」は身近なものではない。「タブー」なのだ。そこに問題がある。
「死」を突き詰めると、いかに「生きる」かにつながる。仏教は、「いのち」につながる学びである。
自分の仏教の研究テーマは、「死」に関連している。暗い?
「死」を仏教のテーマにしようと考えるようになったのは、53歳で駒澤大学の科目履修生として宗教の教員免許を取得するために通ったときに、歴史の教員なのになんで仏教なんだろうと思いながら、レポートにと手にした『正法眼蔵』生死の巻との出会いだった。老いに向かいつつある自分に何かを与えた。
道元の著作である『正法眼蔵』の中で、生死の巻は非常に短い巻である。しかし、道元の生死に対する見方が、短い巻の中に言い尽くされている。この巻の書き出しの言葉は「生死のなかに仏あれば生死なし」である。私たちにとって生死の問題を究明することは重要で、だれしもが避けてはならない問題である。この世に生を受けたものはいつか必ず死をむかえるのも事実であり、どのように死を迎えるかということが大切である。それはどのように生きるかということでもある。
道元の生死に対する見方をぜひ感じてほしい。

生死の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどはず。

生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこゝろえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるゝ分あり。

生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆゑに、仏法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばたゞこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。

仏となるに、いとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこゝろなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを仏となづく。又ほかにたづぬることなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもていくとき、ちからももいれず、こころもついやさずして、生死をはなれ、仏となる。

自分が「死」を迎えるときに、「死」をこのように受け入れられるように、今を、自分の命をどう生かしていくべきか考えて生きていきたい。

 

社会科 永井

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