少人数教育と 個別的な対応を 重視する むさしの学園小学校です。
昨日は、創立2年目から、15年間を駆け足でご紹介させていただきました。
今日は、戦争の足音が聞こえる1941(昭和16)年のことから
始めさせていただきます。
昭和16年、政府は、国民学校令を発して、小学校を廃止し、
国民学校とすることを命じました。
その際、私立小学校各校は、小学校としての存在を許されず、
文字通り、存亡の危機を迎えます。
創立者の佐藤藤太郎は、他の私立小学校とも連携し、存続が
許されるよう、尽力します。
結果、小学校の存続は認められない。
だが、「初等学校」という名前での存続は認める、
となり、存続が決定しました。
しかし、喜んでばかりはいられません。
臨海学校を実施していた千葉県・岩井海岸は、東京湾の入り口に近く、
要塞地帯とされ、立ち入りが許可されず、臨海学校を実施できません
でした。
1943(昭和18)年になると、近隣の中島飛行機の工場が拡大
されることになり、そこから南にむかって、調布飛行場まで、
直線状の軍需工場地帯となりました。
その中で、学園の敷地を国家的見地から譲ってほしい、との申し入れも
あり、万が一の空襲も考えて、学校疎開が話し合われるようになりました。
1944(昭和19)年、いよいよ戦況は悪化し、激しくなってきました。
三多摩地区は、学童疎開の指定区域外でしたが、指定区域内に住む児童も
多く、自主的な疎開が始まっていました。
そこで、とうとう、長期休校を決定することになりました。
しかし、存続の希望が多かったため、小金井に学校疎開することになり、
147名の児童が希望しました。
とはいえ、教室が不足します。
そこで、教師たちの家も使って、文字通りの「寺子屋式」となりました。
疎開したとはいえ、小金井です。空襲もあり、授業が打ち切られたり、
数日間休校を余儀なくされたりしていました。
1945(昭和20)年、いよいよ戦況悪く、空襲も激しさを増して
います。
3月の卒業式を機に閉鎖を伝えたところ、それでも存続の希望が
ありました。
そこで、担任が子どもとともに、御岳山麓に疎開し、何とか、授業を
続けました。
そして、8月15日、終戦。
新しい日本が始まります。新しいむさしの学園も始まることになりました。
戦後のむさしの学園は、また、明日のお話とさせていただきます。
むさしの学園小学校
042-361-9655