少人数教育と 個別的な対応を 重視する むさしの学園小学校です。
昨日から、むさしの学園が90年にわたって歩んできた道をご紹介しています。
今日は、大正14年(1925年)2月に寄稿された
「むさしの学園の生まれましたわけ」
と題した、創立者・佐藤藤太郎(さとうとうたろう)による文章を
ご紹介します。(長いので、今日と明日の二回にわたってご紹介します)
※読みやすくするため、旧字体・旧仮名遣いは改めます。
教育が術に堕ちて純真な子供たちが虐げられています。せまい教室の
二部教授、緑の草木に乏しい煤煙の運動場、浮草のように動かねばならぬ
親心のない教師。
すべてが子供の伸びて行くのをさまたげています。識者は教育第一を
叫びますが、小鳥は籠にもがいています。静かに日本の現状に思いを
ひそめます時、教育の危機を憂えざる人はありましょうか。
ここに三人の馬鹿者が、美しい理想の夢を描いて手を握っています。
もちろん名もない三人です。物質にもめぐまれていません。ただ、
信じあってかたく結ばれた魂を唯一の糧としている者です。
大正11年秋、同志の一人が、東京の教育視察に来ました折、市街地の
子らの現状を悲しみ、将来におののき、転じて郊外に足を向けました時、
太古そのままの静かな美しい自然にひきつけられました。
ゆたかなる土と水、すめる日光と空気、緑の若い木々達。こここそ、
子供の育つところと、魂を躍らせました。夢が生まれたのです。
二人のもとへ美しい夢は伝わりました。三人の胸に夢を追って走る
約束が宿りました。人々は無謀だ、馬鹿だと、とめました。しかし、
一度しかない貴い一生です。この武蔵野の土に小さな足跡でも残したい
という心が燃え上がりました。全生命を投げこもうと覚悟して立ちました。
まず、貧しい貯えの全部を出しあって、井の頭公園附近に千坪に近い
土地を購め、次に小さな学校の建築に着手しようといたしまして、
西村文化学院長から設計図をいただきました翌日、大震災の試練は来ました。
(続)