少人数教育と 個別的な対応を 重視する むさしの学園小学校です。
今週は、むさしの学園が90年にわたって歩んできた道をご紹介しています。
今日は、大正14年(1925年)2月に寄稿された
「むさしの学園の生まれましたわけ」
と題した、創立者・佐藤藤太郎(さとうとうたろう)による文章を
ご紹介する第2回目です。
※読みやすくするため、旧字体・旧仮名遣いは改めます。
大正11年秋、同志の一人が、東京の教育視察に来ました折、市街地の
子らの現状を悲しみ、将来におののき、転じて郊外に足を向けました時、
太古そのままの静かな美しい自然にひきつけられました。
ゆたかなる土と水、すめる日光と空気、緑の若い木々達。こここそ、
子供の育つところと、魂を躍らせました。夢が生まれたのです。
二人のもとへ美しい夢は伝わりました。三人の胸に夢を追って走る
約束が宿りました。人々は無謀だ、馬鹿だと、とめました。しかし、
一度しかない貴い一生です。この武蔵野の土に小さな足跡でも残したい
という心が燃え上がりました。全生命を投げこもうと覚悟して立ちました。
まず、貧しい貯えの全部を出しあって、井の頭公園附近に千坪に近い
土地を購め、次に小さな学校の建築に着手しようといたしまして、
西村文化学院長から設計図をいただきました翌日、大震災の試練は来ました。
馬鹿者も人間である悲しさに、折れそうになりました。三百の小学校が
灰となりました悲惨な状を見ましては、一層、氏名の重大なことを痛感
いたしまして、米と塩さえあれば満足する腹を決めました。
そして、大正13年4月、武蔵野の土の上に夢の学校と3つの小さい住宅が
生まれました。もとより、松蔭先生の寺子屋を理想とします私共の夢の学校
ですあら、校舎はささやかですが、西村先生が自然に親しむようおつくり
下さいましたことを喜んでおります。
堂々たる設備はなくとも、富士を仰ぐむさしのの杜、水清き小金井の桜、
昔ながらの大自然はあたたかい懐をひらいて、あまねき日の光と澄みきった
空気の母乳をゆたかに与えて惜しみません。野の花、森の小鳥、その親しき
友となるのです。
大地への愛着、そこに人間としての正しき使命がはぐくまれます。
野にこそ詩があり、宗教があり、ほんとうの音楽があり、絵画があります。
「広い大空のもとへ出て、自然の教えをおききなさい」というトルストイの
一言の実行は、教壇上の数万言にまさると思います。
まず、共学によって男女協力の文化の建設の貴い芽を培い、一学級の数を
三十名以下とし、個別指導によりまして、天まで伸びんとする子供の能力を
出来る限り伸ばす、自学独創を本体とし、音楽、絵画、童謡等、特に芸術味を
豊かならしめる教育をなす一方、工作、園芸等の労働になれ、これを楽しみて
なすまでに尊重する心を養い、自然に親しむことを大眼目とすることは、
言うまでもありませんが、晴れた日は少なくとも半日は草の上、雑木林の
中に過ごして、日光を浴び、大気に身をさらし、徒歩主義による健康第一の
教育に意をそそぎ、かくて全日、子らと教師とは温かき友となって暮らしたい
のであります。