その1

お題は「夏の思い出」。今年の夏の思い出は、何といっても長かった「夏期講習」。中学3年生の講習にてである。

 論説文・小説・古文・知識問題など、普段の授業ではなかなか扱えない、ちょっと難し目の入試問題を用いての問題演習を行っていた。問題を解く→解説(答え合わせ)という授業形式なのだが、「進学クラス」のある生徒が、なぜか、うれしそうに「やばい!」、次の問題も「やばい!」を連発している。

 何だ、やはり少し難易度が高いので分からないのか、それとも、体調でも悪いのか・・・。

気になったので、件の生徒に聞いてみた。

「K君、やばいとは何事かね?」

「先生、答えが調子よく『○』なんですよ!!」

 

しばし、考えた。自分で解いた答えが正解である、という普通に考えれば喜ばしき状況であるにも関わらず、本来、危険な状況であることを表す「やばい」とは、何事か?

 最近の若者はこの言葉をいい意味にも使うらしい。いわく、美味しいものを食べたときも「やばうま」・・・・・・。

 さて、そういう時、教員としてはどういう態度で接するべきか?

     昨今の若者の言葉遣いに理解を示しつつ、「そうか、最近はそういうふうにも使うのか」と、笑顔で明るく答え、若者文化全般に理解ある大人という評価を生徒の中に醸成させ、すぐに授業へ立ち戻る。

     昨今の若者の言葉遣いに半ばあきれながらも、ここで生徒が何気なく使った一語にこだわって授業を中断するよりは、授業の進度を最優先に考え、何も言わずに冷静に大人の態度でもって、そっと授業へ立ち戻る。

 さまざまな態度の示し方が、一瞬のうちに私の脳内を駆け巡る。

しかし、私の取った態度は、

「K君、『やばい』というのは、危険な状況などにおいて、つまりマイナスの意味で用いるものなのだよ、君は正解を連発しているという、本来喜ばしきものである事実が、何か、君の身の危険を呼び起こしているのかね!?」

 K君はあっけにとられているが、周囲の生徒はにやにやと笑っている。

 生徒達は、私のこういうやりとりにもうすでに2年以上つき合わされていることになる。

私はさらに続ける。

「K君、ここは正解が続いて、『やばい』ではなく、素直に『うれしい』と言い直すべきではないかな? 違うかなK君! 私も、君が正解を重ねてくれてとてもうれしいよ!!

「……う、うれしい。」

 恥ずかしさを押し殺した彼のはにかんだ表情には、言わずにはこの場を終えられないという、この2年間で身につけた大人らしい判断力とともに、かすかに男の子の可愛らしさが感じられる。

 その日の授業が10分ほど押したのは言うまでもない。

 

 

夏だろうと何だろうと言葉にこだわる その2

 

「ことば」にまつわることを書いてみたが(そんな偉そうなことでもないですが)、普段の生徒の言葉遣いを聞いていると、けっこう気になることがある。

 たとえば、夏休みの宿題の一覧表を配る。そうすると、ある生徒が

「国語の宿題、めんどくさくない?」

と、隣の生徒と話している。

 そういう言葉を私は聞き逃さない。このことばのどこが気になるのか。

 

    大切な宿題なのに、鼻から「めんどくさい」と言ったこと。

    よりによって、国語の宿題を「めんどくさい」と言ったこと。

    それをしかも、聞こえるように言ったこと。

    「めんどくさい」と、「面倒くさい」をくずした言葉遣いをしたこと。

 

実は、そのどれでもないのだ。

「めんどくさくない?」という時の、アクセントなのだ。

普通、「めんどくさくない?」と言う時、「く」のところにアクセント(高音にする)をつけて発声するはずだ。しかし、生徒達は、というか、最近の若者は「くさく」のところを、同じ音の高さで発音するのだ(こういうのを国語業界では『平板化』と呼ぶ)。

この発音がどうしても気になる。

昨今、もっとも使われているであろう、分かりやすい例でいうと、「いかんじ」を「いいかんじ」と発音するやつ(傍点はアクセントの位置…以下同じ)と言えば分かってもらえると思う。私は絶対にこんな発音では言うことはできない。

なので、生徒に言わずにいられない。

「○○君、『めんどくさくない?』、とは何事か?」

 一瞬、ぎくりとする生徒。やばい、聞こえたか!

「それは、『めんどくさくない?』ではなく、『めんどさくない?』だろ! 言い直しなさい。」

「……。先生、そこですか?」

「ああ、そこだ。」

 生徒達は、半分笑いながら、半分あきれながら話を聞いている。こうして、私のかわいい生徒達は、こういう私との「めんどくさい」やりとりに付き合ってくれる。

しかし、気になるものは、気になるのだ。

 ことばは生きものと言われる。その意味用法も時代とともに変化している。新しい文化を創造する主体の多くは若者であるし、新しいことばを生み出すこともあると思う。あることばが、時代を経て昔とは異なる意味で用いられるようになったのは、古文でいう「をかし」の例(「趣深い」という意味が、現代では「おかしい、変だ」という意味でも用いられる)を見れば明らかである。先日の「やばい」も同様、英語圏では「bad」は、良い意味でも用いられることがあるようだ(追悼 マイケル・ジャクソン!)。

 アクセントについても、地方による違いはある。たとえば、京都の先生と話したときに「んせい」と呼ばれると新鮮に感じる。

  しかし、ことこのアクセントについては、どうも「創造」や「地域差」というより、無意識のうちに、ある種の「均質化」を求めているように私には思えてしまうのだ。

こんな事を感じるようになったということは私もそれだけ年を食ったということなのだろうか。そういえば、少し前まで若手若手と言われたが、確かに最近言われることもなくなった。

しかし、年齢ばかりではあるまい。なぜなら、私よりも年配であり、授業における厳しさでは随一、日学きっての硬派で知られる、九州男児の某先生が、「伊藤さん、今日の説明会、いいかんじだったね」とかわいらしく言われたのを聞くにつけ、驚きとともに、そう感じずにはいられないのだ!

※某先生、引き合いに出してすいません。尊敬しています! 

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