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7月4日に僕、桑原、上坂、森の4人は岡野先生に引率されてロンドンにあるリンネ学会に行った。リンネとは、世界で始めて、世界中の生き物を分類した人である。始めに、司書さんからリンネ学会の歴史について聞かされたあと、分厚い扉で厳重にガードされた地下室にはいった。

まず目に入ったのは大量の本。そして大量の引き出しだ。100以上もある引き出しの中にはリンネとその弟子が採取した大量の標本が収められていた。魚や植物、虫や貝などの大量の標本が当時のままの状態で保存されているのだ。当時のままというのは比喩でもなんでもない。そのままの意味である。当時はその羽の美しさからアクセサリーにも使われていたモルフォ蝶。いまから約300年も前の標本なのに、少しも色あせていなかった。しかし、一番重要なのは標本ではない。リンネが生き物を分類わけした本だ。人、ライオンなどの動物、魚、植物。そして、ヒドラやドラゴンなどの空想上の生き物すら、「未発見」という形で分類わけがなされていた。

ここで注目したいのは、「人」がほかの生き物と同じレベルで本の中に分類されているという点である。この本が書かれた当時はキリスト教が強い権力を持っていた時代である。キリスト教では「人間は神が創った特別なものである」という考えが当たり前のものとして考えられている。そんな時代に人間をほかの動物と同列として考える。それがどれだけ異常なことか。ガリレオは地球を中心にほかの天体が回っているという天動説を否定し、太陽を中心に地球も含めたほかの天体が回っているという地動説を唱えただけで迫害された。そんな時代にリンネがどのような非難を受けたかは想像がつくだろう。

しかし、一番すごいのはそこではない。「最初」に分類わけしたということだ。今の時代は当たり前のように分類わけされている。食べ物や服などの日常にありふれたものなんにでもなにかしらの分類わけがされている。そんなあたりまえを生み出すのがどれだけ特別ですごいことか。僕たちが当たり前だと思って使ったり考えているもの、その当たり前を最初に生み出すことの偉大さが身にしみる場所でした。

(高等部2年生 男子)

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昨日、僕は本当に貴重な体験をさせてもらった。リンネ学会へ行き司書のエレインさんからリンネ学会の歴史と成り立ち、また自然選択説を発表したダーウィンとウォラスの関係にいたるまで説明していただいた。

次に、地下にある分厚い扉で閉ざされた、古い本のたくさんある保管庫へ案内された。正直、博物館のようでつまらなそうだと思った。しかし、それは間違いだった。つまらないどころかそこにあったのは宝の山とでも言うべきものであった。とても風変わりな魚の標本、サファイアのように光る羽を持った蝶、一つ一つが素晴らしかった。だがやはり、一番の宝はリンネの作った最初の生物の分類表、システマネイチャーだろう。そこにはいくつもの驚きが詰められていた。今では当たり前となっているが、人間をホモサピエンスとしてその表に加え、ほかの生物と同じレベルで分類することは画期的な革命的な考え方であった。聖書の教えである全能の神により創造された、選ばれた人という生き物という当時の考え方に真っ向から反対する考え方に違いない。つまりこれは彼にとってひとつの挑戦だったはずだ。理論整然と分類された表には空間の部分があった。将来発見されるであろう生物のために空けられた空間だ。表の真ん中にはPARADOXと書かれた部分があった。よく見てみると、そこにはドラゴン、一角、ヒドラといった未確認生物や想像上の生き物の名前が書かれていた。分類できないと認め、さらにそれを表に入れるのもなかなかできることではないだろう。科学性と非科学性が混在したリンネの分類表。リンネはやはり天才だったのだろう。

最後は図書室で庄司先生が次のようなお話をしてくれた。リンネが提唱した分類表、その分類表に従って、世界に存在するすべての生き物がその提唱されたシステムによって分類された。この分類表に時間の経過による自然選択の考えを吹き込んだのがダーウィンではないかとのことだ。その話は僕がこれから先、物事を考えていく上で、とても重要なことを教えてくれるものとなった。それは、リンネがグラフで言うならⅩ軸とY軸の平面で分類し、ダーウィンがそこにZ軸つまり時間軸で分類し、それは今も、科学現象を考えていく上での考え方の基本となっているのだということだった。僕の勝手な解釈かもしれない。けれども僕はこのとき長い世代にわたって積み上げられた知識という言葉の意味が分かった気がした。つまりⅩとYからなる平面的な考えをZ方向に積み重ねることによって立体的な考えを構築して知識を作り上げる。これは三次元的考え方とでも言うべきもので、これからの僕の考え方に大きな変化をもたらすものになるだろう。

(高等部2年生 男子)

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心臓のどくどくという音は、加速して行く。私は今まさに緊張の絶頂にある。

私たち高校2年生4人はケンブリッジ大学や東北大学で開催されるサイエンスワークショップに参加する事になっています。この大冒険の最初はロンドン日本大使館で開催されるノーベル物理学賞を受賞した梶田先生のお話を聞くことでした。

岡野先生からこの話を聞いた時、私ははっきり言って梶田先生がノーベル賞を受賞したニュートリノについてまったく知りませんでした。聞いたことあるなというぐらいでした。私は、危機感と焦りを感じました。梶田先生から直接お話が聞けるのに何も知らないまま行くなんて、と。何とかしなくちゃと思い、とりあえず、先生から勧められた動画やホームページを見て、片っ端からせめて行きました。用語が難しく分からない所は、物理の先生に質問しました。初めて知る分野だったので、知らない単語も多くあり、読んでは調べてまた読んでの繰りかえしでした。それを重ねていくうちに少しずつ分かっていき、それは、とても言葉では表せない嬉しさや興奮、物を知っていく楽しさでした。

また、梶田先生に質問が出来ると聞いたのでみんな、「これはどうなっているか聞いてみよう」とか「梶田先生はこの時どんな気持ちだったか聞いてみよう」と色々考え意気込んでいました。ですが、大使館に着くと、そこには、まだ経験した事のない別世界が広がっており、私たちはその空気に呑まれ緊張は絶頂に達しました。中はとても豪華でじゅうたんはふわふわ、日本とイギリスがミックスされたような場所。そこにいると私が知っている先生でさえ知らない人のように見えました。緊張した私の隣には、もっと緊張して顔が強張っている、私がまだ見たことのない様な顔をした友人がちょこんと座っていました。

梶田先生のお話が始まり、予習してきた甲斐があり、すっと頭の中にはいってきました。そしてお話が終わり、待ちに待った質問タイムが始まりました。
「次には質問しよう」と思う私のチキンハートにより私は質問がそのときは出来ませんでした。

その後、交流タイムが始まり、その時、サイエンスワークショップに参加する英国人高校生も何人か参加しておりその子たちと梶田先生と共に記念撮影をしました。こういう交流がこれから必要になっていくのだなと改めて実感しました。撮影後、英国の子と共に梶田先生をとり囲むように質問をしにいきました。質問すると梶田先生は優しく説明してくださって私の不思議に思っていたモヤモヤがぱっと晴れていく気持ちでした。

私にとってこの経験は一生に残る思い出になり、一生に一度のものだなと思いました。この特別講演会に来て、新しい友達を作り、たくさんの色んな知識を持った人からアドバイスをもらいました。この経験を糧にこれから頑張りたいです。

(高等部2年生 女子)

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初めてサイエンスワークショップに行きたいと思ったのは中学二年生のときだった。当時の高校二年生が、ハエを使って行う細胞分裂の実験のプレゼンをしているのを見て自分も行きたいと思ったのを覚えている。

高校一年生になるとより具体的な話を聞き、それは憧れから目標ともいえるものになった。当時の僕が何を思って強い憧れを抱いたのかは分からない。もしそれが今と同じなら、英国人の友達を作りたい。最高の実験器具で、普通はできないような実験をしてみたい。これらが一番の理由だろう。

高校二年生、ワークショップを目前に控えた今、僕にはもうひとつの期待、というか目標のようなものがある。理系方面で働いているいろいろな人や、同世代のいろいろな人と交わり、自分が将来やりたいことを見つけることだ。多くの人の中で自分を見つめなおすことで何かを変えたい。それができたときに次の目標が決まると僕は信じている。

(高等部2年生 男子)

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私にとって、初めての友達とのホームステイでした。前に一人でホームステイをした時は、不安で不安で仕方なかったけれど、今日は友達と二人ということで全然不安などなく、何とかなるさ精神でやりきることができると思いました。

そして、ホームステイが始まりました。家は、とても広く、庭が大きい事に感動しました。ペットが居ないと書いてあったけれど、猫が居て、子供が居ないと書いてあったけれど2日間子供が居て、一緒に楽しく過ごす事ができました。天気の良い日は、庭で食事をしました。食事の野菜や果物は、庭から採れた新鮮なものばかりでとても美味しかったです。そして、食事のデザート。毎日かわるデザートが一番の楽しみで、友達と毎日何だろうね、と楽しみにしていました。

ホームステイ先の人と、ガーデン、ピクニック、教会に行きました。ステイ先の人が大好きなガーデニングを見て、いろいろな花の説明をしてもらい、花の知識が少しつきました。ピクニックは、とても風が強く雲ゆきの怪しい日にしました。それでも、たくさんの人が来ていて、鹿と一緒に食べたり、白鳥と一緒に食べたりして楽しかったです。

そして教会。改めて、英国にはたくさんの教会、多くのキリスト教信者が居ることを知りました。やはりどこの教会に行ってもステンドグラスが美しく感動しました。
初めて友達とホームステイしたり、1週間の計画を練って出かけたりしてとても充実したものとなり、そして、英人と話しずらいと思っていた気持ちも薄れ、どんどん自分から話したいな、と思えるようになりました。

(高等部3年生 女子)

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もう、気づいたら高3の6月。そろそろ、受験も近づいてきて、意識を変える時期だ。世の受験生は、必死で夢に向かっている。
その時、自分はどうなのかと考えた時、まだ本気を出せていなかった。自分の悪いところを考えると、まだ余裕というものが心にあった。まだ勉強は、と言って逃げている自分がいた。このままだと、後悔すると考えることもあった。しかし、自分は勝てない。弱い人間だと思ってしまう。そんな自分が嫌いで仕方なかった。

そんな事を考えていたある日、私の父から突然言われた。「今、お前は後悔していたら今すぐその後悔をなくす努力をしろ。人間、頑張ったら、どこまでも行ける。」
私は、このことを聞いた瞬間、心の中にある全ての闇が無くなった気がした。そして迎えたハーフターム。自分は、出来る限り勉強に励んだ。自分が、今一番やるべきことを一生懸命行なった。
私にとって、この1週間のハーフタームはとても充実していた。
自分を変えてくれた父に感謝です。

(高等部3年生 女子)

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理系。理系は、数学や理科などの科目を特に重点的に学ぶコースで、立教では高校2年で文系・理系に分かれて勉強する。
私は理系に進んだ。

理系に進んでから、ふと思ったことがある。
「なぜ私は理系科目が好きなのだろう。」
周りの理系の子は、親がそういう仕事に就いていたりする子が大半だ。私の両親は特にそういうのではないし、兄や弟に関しては理系科目は苦手らしい。私も理系科目がとび抜けて出来るわけではない。それでも理系科目がとても好きなのだ。

考えているうちに、私がまだ小学校に入るか入らないかの時のことを思い出した。
私の両親は忙しく、兄や弟のこともあって、私はよく母方の祖父母の家に預けられていた。祖父母は、その辺り一帯に農地を持つ農家で、私は時間があるとそこで一人で遊んでいた。種蒔きの手伝いや季節のものの収穫を手伝い、夏はぶどうの葉のカーテンの下でよく昼寝をした。祖父母は優しく、手伝った後はいつもご褒美にアイスやお芋を食べさせてくれた。今でも覚えているのは、ふかふかに耕した畑に裸足ではいって感じる冷たく涼しい感触。

私は今時の子よりも多くの体験を肌で感じてきたから、今、私は理系科目、特に生物が好きなんだなと思う。周りから見れば、数学や化学には関係ないと思うかもしれないけれど、私は身近にこういうことがあったから理系科目にもしっかり取り組むことができたのかなと思っている。
今はまだ理系の端くれだが、いつか大人になった時、自分のなりたい者になるため、これから頑張っていこうと思う。すく近くに迫っているケンブリッジ大学でのサイエンスワークショップが楽しみだ。

(高等部2年 女子)

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起きたのは午前6時45分。ぼうっとする意識の中、鏡の前に立って初めて今日が何の日かを悟る。負けられない戦いが今日ある。幾度も挑んだ闘いに今日ついに終止符が打てるかもしれない。そう思いながら朝の仕度を始めた。

この闘いに挑むようになったのはいつからだろう。そうだ。中3からだ。僕は挑戦状を出す度にその高すぎる壁を越えることができず挫折した。でも今回は違う。それなりの準備もしてきた。何より自信もついていた。何度も挑戦してきたのだ。そこらの人とは違う。確かに少し不安はあった。だが、僕の挑む心意気によってそんなものはもう頭の隅に追いやられている。それくらい本気でもあった。

戦場とも言える場所に着く。
「また来たよ、こいつ。」
そんな風にそこの空気や物が僕に笑っている気がした。今からまたこの闘いに挑むということを思うと、少し気分が重くなった。やはり無理。不安。負ける。そんな言葉が僕を襲う。そこで2人の仲間が目に入った。僕と同じように何度も挑んできた仲間。大丈夫、大丈夫。彼らも同じ。そう思えるようになった。

僕の番がきた。僕は挑戦状とパスポートのコピーを出す。そして放った言葉。
「準一級です。」

(高等部3年生 男子)

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毎学期末に開かれるスクールコンサート。保護者の方々は勿論、地元イギリス人の方々も毎回たくさんいらっしゃいます。
今回も大盛会のうちに終わったスクールコンサートでしたが、早速地元の方々からお礼の手紙が届いています。
その中から2通をご紹介します。

*   *   *   *

Dear Headmaster

I would like to take this opportunity to thank you for inviting the public to attend your Concerts.

I have been attending them for many years and would like to congratulate your pupils and staff for a truly outstanding Summer Concert.

The standard and variety improves with each concert and over the past 2 years it has become really apparent how much the pupils enjoy participating.
Never more than in this last concert where your pupils organised the choir, the musical accompaniment and arrangement of the two Japanese songs. It was delightful!
To be encouraged to use their own initiative and talent and given a degree of freedom in this way shows a true understanding and respect between teachers and pupils.

Please express our thanks to the Director of Music for these wonderful concerts and her ability to bring the “musical best “out of your pupils.

Many congratulations!!

Kind regards
C.H.

*   *   *   *

Dear Music-makers!

We would like to thank all the pupils who entertained us so splendidly on Thursday evening.
The music was varied, interesting and very well performed.
The whole evening was well-organaized and brought credit to the school.
Thank you again,

N. & D. M

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ゴージャスと聞いたら、何を思い浮かべるだろうか。私たち日本人は、きらびやかなものや、金ぴかのもの、高価なものをイメージするのではないだろうか。しかし、ホームステイ先の人は、私の思うゴージャスとは全く違うものに、ゴージャスと言っていた。

一緒に歩いていた時、古い家ばかりが並んでいる通りがあった。400年以上も前に建てられた家らしい。その中に1軒、一際古そうな家があった。家の前の空いているスペースには、雑草が生えているし、建物自体も綺麗ではない。その上、周りの家に比べたら大きいが、高さもないし、そこまで大きくない。私だったら、あまり住みたくないと思うような家だった。しかし、ホームステイ先の人は、その家をゴージャスと言った。どこを見たらゴージャスになるのだろうと思った私は、辞書で調べてみた。そこには、「すばらしい」とか「豪華な」という意味が書いてある。しかし、英語でのgorgeousは、日本語での「豪華」よりも幅広く用いられるらしい。それにしても、結局は良い意味で使われているはずだ。ホームステイ先の人は、皮肉っぽくは言っていなかった。きっと、本心から言ったのだろう。なぜ、同じ家に対しての感想が、ここまで違うのだろう。

もちろん、個人によって異なるが、全体的に見て、イギリス人は古いものを大事にするらしい。家の値段も、古いほど高くなる。それに比べ、日本人は、新しいものが好きだと思う。家も新しいほど高い。さっきの家への意見の相違は、ここから出てきたのではないかと思う。
家に限らず、育った環境などで、考え方は変わってくるだろう。しかし、自分たちの考え方が優れているとか、劣っているなどと思わず、それぞれの意見を理解し、認め合う必要が、あると思う。

(高等部3年生 女子)

 

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