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私は高校3年の夏休みを使って、まったく知らない文化に飛び込こんでみたいという思いから、受験生でありながら、母の許可を得てボランティアでペルーへと旅立った。ペルーまでの旅は、20時間ととても長く、不安と期待でウズウズしていた。着く飛行場ごとにヨーロッパから離れて行くのが感じられ、英語さえ通じなくなっていく。冒険感が増し、もうそれだけで胸がいっぱいだった。どんな人との出会いが私を待っているのだろう。どんな経験をするのだろう。空想ばかり膨らませて、私はそれまで行ったことのなかったアメリカ大陸のペルー第二の都市であるクスコへ着いた。

着いた瞬間からこの国の独特な文化がとても衝撃であった。と同時に、生き生きとしていて好きになった。クスコには、カラフルな民族衣装を着ている人が多く、まるで犬の散歩をしているかのようにアルパカを連れている人もいた。毎日のように祭りが開かれていて、人々の信仰心が強く感じられる。街は様々な人情にあふれていた。そんな和気あいあいな感じのクスコはごちゃごちゃしていながら、美しいと感じられる独特な雰囲気を持っていた。

それに対して、田舎にはまた全く違う雰囲気が漂っていた。私が二週間ほど住んでいたクスコから車でおよそ6時間のヒューロという村は、誰もが想像する貧しい国で見かける風景であった。家の壁ははがれていて、落書もされており、屋根は鉄の板で、西洋から見ればそこに住むのはありえないような家が並んでいた。しかし、そう思えたのは初日のみだった。慣れるとむしろそのぼろぼろさに良さを見出せた。シャワーの水も山から流れてきたため太陽が照っていないと温かくならない。夜ボランティアの人達が全員集まってキャンプファイアーを囲むために木の枝を集めたりする生活は、自分が今生きていることを強く実感させてくれた。シャワーの流れを改良する為に小川の雑草むしりをしたり、家造りのための石を運ぶ時も、西欧みたいに全て備わっている環境に恵まれていないからこそ、自分の存在を強く感じ、自分の行動一つ一つがどれだけ自分と周りの生活に影響しているのかを感じた。

そんなペルーでの生活の思い出の中でも、最も良い経験となったのは地元のペルーの小学校との交流だ。小学校とはいっても、私達が想像するような、校門がある立派な建物、教室に机と椅子が当たり前のように備えられているような学校ではない。大前提として知っておかなければいけないことは、ペルーの教育制度は発展途上国の中でも最も悪いと評価されていて、学校に行くという事に対し、特に田舎では必要性が感じられていないということだ。多くの子供は学校に通っておらず、学校設備も教師も色々な面で不足している。そんな中でも学校へ通う子供は、本当にラッキーである。その上、学校に通わせてはくれても、毎日通う子はめったにいないといわれている。

そのような情報を持って初めて学校に行ったとき、私はもの静かで内気な子供たちを想像していた。しかし、皆予想以上に元気で、何よりも本当に人懐っこかった。最初は少しシャイではあったが、一時間も経たないうちにハグをしてくれるほど慕ってくれるようになった。サッカーをやったり、勉強に対しても向上心が強く、とても一生懸命だった。本当はわたしが彼らに教えるべき立場であったにも関わらず、そんな子たちと過ごして自分が今もっているものに満足するべきである事を学んだ。いっぱい笑う事ができ、言語も通じていなかったのにも関わらず、心で分かち合えている気がして楽しかった。

その他に二日間マチュピチュに行ったり、インカ帝国の発掘作業を手伝ったりして、私は初めて見るような世界に出会った。多くの刺激を受け、ボランティアをやる勇気と自信をもらった。この経験をいかして次はインドへ行きたいと思っている。

(高等部3年生 女子)

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高校ラストのオープンデイ。毎年高3は焼鳥やバザー、キッチンといった出し物のお手伝いをする。今回私は古本屋のお手伝いをした。実を言うと、私は最初から古本屋をしたかった訳ではない。第一希望のじゃんけんで負けて残っていたのが古本屋だったのである。みんな希望通りで、楽しそうな顔を見ていると、やるせなく、苦しかった。私のオープンデイは、こうした形でスタートすることとなった。

悪い空気にしたくなかったし、何よりも周りに悔しい気持ちを見せたくなかったから、早く気持ちを切り換えて明るくいこうと心に決め、作業に取り組んだ。意外と古本屋の作業は大変だった。本の仕分けや値段貼り、ざっと300冊ある本を全てロフトや図書館からハットに運ぶ事は、細かい作業でもあり、力仕事でもあった。この作業を終わらせてから、次に装飾の作業に取り組んだ。最初の苦しかった気持ちはいつの間にか消え、みんなを驚かせるような古本屋を作りたい!そう思うようになっていった。他の係の力も借りて、一から装飾作りを始めた。久しぶりの装飾作りにてこずり、初日にもかかわらず5時半に解散をすることとなった。残り1日。私にできる最大限のことをしようと思うと、たくさんのアイデアが浮かんできて、その日はすぐに眠れなかったのを覚えている。

次の日も朝から晩まで作業をして、ついにオープンデイ当日を迎えた。オープン15分前にもかかわらず、古本屋のあるハット前にはもう何人か列ができていた。オープンと同時にたくさんの方々が足を運んで下さり、クローズも1時間遅れとなった。何よりも、みんなが笑顔だったのが本当に嬉しかった。

どんな場所に置かれたとしても、その場所で自分がどれだけ頑張れるか。それが全てだと気付いた。
“置かれた場所で咲きなさい”
これが、今回のオープンデイが私に教えてくれた事だ。

(高等部3年生 女子)

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私にとって、今回は二回目のオープンデイでした。
去年は、初めてだったので、分からないことばかりでとても大変でした。でも今年は、私以外はみんなオープンデイを体験したことがなかったので、私がひっぱらなければいけない、と思いました。
今年の小学生企画のテーマは「クリスマスツリー」です。みんなで話し合い、調べる内容、分担を決めました。私は、クリスマスツリーに付ける飾りについて調べました。私もとてもくわしく調べたし、みんなも頑張ってくれたので、とても良い展示になりました。

今回のオープンデイでは、達成感のあることをしたい、と思っていたので、私は看板を描くことにしました。
何も描かれていない大きな板を目の前にしたとき、初めはとても緊張しました。でも、描いているうちにどんどん楽しくなっていきました。初めは真っ白だった板にどんどん色をぬっていき、やっと完成したときには、本当に気持ちの良い達成感を得ることができました。

オープンデイが終わって、後夜祭も終わって、閉会式を迎えました。審査の結果発表で「お客様の第三位はP5P6クリスマスツリー企画」と言われたとき、まさか自分たちが呼ばれるとは思っていなかったので、びっくりして泣きそうになりました。
お客様からも、たくさんうれしい言葉をいただきました。

今回のオープンデイは、私にとって、最高のオープンデイになりました。

(小学部6年生 女子)

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英国では寒さも厳しくなり、街や学校では、クリスマスに向けたイルミネーションが夜を彩りはじめました。
そんななか、立教英国学院の生徒たちはキャロリングを行いました。
立教英国学院のキャロリングは、しばらくの間、学校の中庭に集まり、生徒だけで行っていました。しかし、7年前からElmbridge Villageという学校の近くにある老後施設のコミュニティーのホールで歌を披露するようになり、地域の方々とともにクリスマスをお祝いすることができるようになりました。
“KON NICHI WA! GENKI DESU KA?”という地域の方々からの言葉に、生徒たちが「元気です!」と答え、今年のキャロリングが始まりました。

今年は日本語の曲と英語の曲、あわせて12曲を立教生全員で合唱します。
この日のために、聖歌指導員の高校3年生たちは、楽譜の用意や練習指導など多くの準備をしてきました。
OPEN DAYが終わったあとの毎週日曜日には、礼拝の後にキャロリングの練習をする時間が少しありますが、集中して練習ができるのは期末テストが終わってからです。
そのため、パートごとの練習はテストの直後からはじまり、入退場や全体での練習は本番前日に行います。
そんな短い期間の練習でも、小学生から高校生までの全員が自信を持って合唱ができるのは、聖歌指導員の3年生が中心となり、先輩たちが後輩たちを導いていくからでしょう。

当日は、生徒たちは練習以上に大きな声で楽しそうに歌い、聴いている方々も生徒たちの歌を聴きながら自然とリズムをとってくださいました。
曲が日本語であろうと英語であろうと、クリスマスキャロルのもつ「クリスマスを祝う」という想いを共有できた時間だったように思います。
最後には、聴きにきてくれた方々から”ARIGATO”の言葉とお菓子のプレゼントをいただき、学校に戻りました。

立教英国学院では、キャロリングをおこなった日の夜にクリスマス礼拝を行います。
夕方には地域の方々と共にクリスマスの喜びを分かち合い、夜には生徒と教職員でクリスマスを祝うことで、今日までの日々を共に過ごした人や、これまで守り支えてくれた人のことを想い、感謝する日となるのです。
期末テストを終え、長かった2学期が終わりに向かっていくなかで、これまでの日々を振り返り、新しい学期、そして新しい年へと気持ちを切り替えていく日となったのではないでしょうか。

20151203concert112月4日(木)に立教英国学院ではCHRISTMAS CHARITY CONCERTが行われました。定期試験が終了して、数日しか経過していないにもかかわらず、出演者は一人ひとりが最高のパフォーマンスをし、観客を大いに魅了しました。

立教で行われるコンサートでは、幅広い学年がステージに立ちます。高校生によるPIANOやEUPHONIUM, SAXOHONE, VIOLIN, VOCAL SOLOがあったり、小学生・中学生による合奏があったりします。美しい歌声をホールいっぱいに響かせたり、様々な楽器を自由自在に操り、音を奏でたりする姿は、普段と違って正に「演奏者」です。つまり、ただ単に歌をうたう、楽器の演奏をするというような表層だけをなぞったものではなく、曲の理解に努め、深層にまで入り込み、表現をしているということです。そうした姿勢があったからこそ、聴衆の感動を得られたのでしょう。前回のコンサートで、高校3年生は引退をしてしまったので、やや不安のある中での開催でしたが、高校2年生をはじめ、出演者全員が堂々と役割を果たしきりました。

今回の出来栄えも非常に高い評価でしたが、これからまた生徒たちは各々の技術に磨きをかけるべく、練習に励んでいくことでしょう。新たな曲にもチャレンジし、さらに、自分たちの可能性を広げ、次のコンサートにつなげてくれることを期待しています。

光陰矢の如し。高校一年で入学した私も、もう高校三年である。来る受験に向けての受験勉強の合間、一瞬勉強から距離を置けるのがオープンデイ準備期間である。

補習後、準備ができたのは僅か二日間。その間、如何に高校三年生として良いものを創るかという事が重要であった。私は古本を販売する事になった。自ら望んだ役職では無かったが、自分なりの最善を尽くす事を目標に、本の分類、内装の飾りつけ、掃除、模型製作など、前年までとほとんど変わらない事を、前年よりもより熱意を持って行った。高校三年ともなると、生徒同士の関わりは三年にも及び、互いの主張や意見、考え方も理解できるようになり、協調性が生まれ、また対立する意見の表面化を、中庸の考え方を出す事により、防ぐことが出来るようになっていた。この事には皆気付いていただろうと思う。

なんの障壁も無く、無事にオープンデイを迎える事の出来た私達だが、本番になると流石に皆緊張を隠し切れない様子であった。客が来ないと、二日間の努力は、完全にとは言わないが、水の泡となってしまう。今年は霧という生憎の天候故に、客は少ないだろうと考えている私を、私は見出した。

ところが、私の予想は良い方向に裏切られた。客足は途絶える事は無かった。それは閉店時間を三十分延長せざるを得なかった事にも表れている。何とも形容し難い、達成感のようなものを感じた。

高校三年生はオープンデイにおいては、あまりアクティヴに活動する事もなく、しばしば「縁の下の力持ち」と形容される。それは確かに事実であるが、今回のオープンデイは私がその言葉に持っていた印象を変える事となった。たとえ脇役であっても満足感と達成感は、主役と同程度、いやもっと大きいものであると思った。そういった意味でも、今回のオープンデイはとても有意義であった。

(高等部3年生 男子)

六日間という長いようで短かった補習を終え、高校三年生は我々にとって、最後のオープンデイの準備を開始した。お互いがお互いのことをよく分かっているためか、準備は手際よく進み、特に大きな問題もなく、完成へと向かっていった。ここでいう完成、高校一年生、二年生のころは、自分のクラスの展示が出来上がることを完成と呼んでいた。だが、お客さまが喜んでくれる顔を見ることが、今年の完成なのだ。

当日、昨年とは違い、天気にも恵まれた最後のオープンデイ。今までとは違い、今年は一日中働きっぱなしだった。私は食べものをつくる仕事だった。自分たちがつくったものを食べてくれる喜び、そしておいしいと笑顔になってくれるお客さまを見ているとき、私たちの作品が完成したんだなと感じる。

今年、高校三年生として我々ができることは、一人でも多くのお客さまに笑顔になっていただくことや、立教生は親切で礼儀正しいと思ってもらうこと、そしてまた来年も来たいと思ってもらうことだと思う。我々にとってのラスト・オープンデイ。お客さまも楽しんでくれたし、我々も楽しめたと思う。今までで、一番短い一日だった。

(高等部3年生 男子)

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あの日もこんな朝だったのだろうか。
晴れ渡る空の下、そこは静けさに包まれていた。

今年の八月六日の広島。「70年は草木も生えない」と言われながら復興を遂げた街に、平和な世界を願う老若男女、すべての人々の祈りが広がった。

あの閃光、惨状は70年経った今でも体験した人々の中に深く刻み込まれている。忘れたことなど一度もない。

「広島をまどうてくれ。」

これは広島弁で「広島を元通りにしてほしい」という意味だ。あの日からずっと被爆者が訴え続けている悲痛な心の叫び。
あの時失われたのは人間だけではない。建物、自然、動物、人々の思い出や夢までも奪った。
70年前の広島は廃墟と化していた。人々は深い悲しみや絶望、苦しみの渦中にいた。

そんな街を、人々を勇気付けたのは一体何だったのだろうか。
それは、戦前から市民の足となっていた広島電鉄の路面電車、通称「ひろでん」だった。
当時、男性が戦地へ赴いていたため運転士をしていたのは女学校の生徒達だった。原爆投下の朝も通常運行していた。しかし、一瞬にして電車諸共消えてしまった。だが、爆心地に近いところを通っていたはずの三両が残っていた。奇跡だった。
三日後の八月九日。女学生らは考え、悩んだ末に電車を復旧、運行させたのだ。自分たちも被爆し、包帯をまいた体で、ただただ市民に勇気を与え、復興へと歩んでいくために。
その思いに胸を打たれた人々は一日でも早い復興を目指し、後遺症や偏見、差別に苦しみながらも生き抜いたのだ。

そんな街は1980年、全国10番目の政令指定都市となり、五年後の戦後40年の時には人口が100万人を突破した。今や日本の主要工業都市となり、全国10番目の人口を抱える程の大都市となったのだ。
南は美しい瀬戸内海に、北部・西部・東部は丘陵地帯に囲まれた自然豊かな広島を取り戻したのだ。
この場所で育った戦争を知らない世代は、「命と平和」について多くの事を学んできた。

だから私達は誓う。

被爆者の願いを未来へと繋ぎ、命を、今を大切に精一杯生きる。同じ思いを私達の子どもが味わうことのない世界を造ることを。

(高等部3年生 女子)

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今年のオープンデイにも、父と母は来てくれた。両親が立教に来るのは年一回で、その時がオープンデイだ。

今回は、妹に
「ママ来てるよ。」
と言われ、会いに行くと、母は涙目だった。私まで目がジワジワして鼻がツンとした。その母の涙はうれし泣きなのか、悲し泣きなのか、感動した涙なのか分からない。妹を小学生のうちから寮にいれて後悔したが、妹が元気にしている姿を見たり、私が日本でしてきたことを捨てて、この学校に来たという決断に、不安があったが私を見て安心したのかな、と思う。それとも、いつも父が仕事の時は家で一人で寂しいから、私たちに会えて嬉しかったのかなと思う。

母を見て、私はこのまま一緒に帰りたいと思ったが、愛してくれているんだと思ってうれしかったし、今以上に妹の面倒を見たり、勉強も生活も人づきあいも頑張らなくてはと思った。

父は、恥ずかしいのをよく隠すので、会った時は「元気か?」としか聞いてこなかったけれど、すっごい笑顔だった。私が食堂でお客様を接待しているのにもかかわらず、私のチーズケーキを買うわけでもなく、会いに来てくれた。毎回長時間居座っていて、少し迷惑だったけれど、嬉しかった。

私も父に性格が似ていて、言葉で伝えるのは苦手だけれど、父のおかげでこの学校で充実した日々を過ごせているので、感謝しなくてはいけないと思う。だから私も人を大切にして愛したり、もっとこの学校で習得したり、結果を残したりしたいと思う。

(高等部3年生 女子)

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長い長い2学期が終わった。
立教最大のイベントであるオープンデイが終了したと思った途端に期末試験モードに入り、勉強に集中していたらあっという間に12月、いつの間にか期末試験も終了、クリスマスコンサートやキャロリングも既に夢のような思い出になり、この日は第2学期終業礼拝。

立教の第2学期終業礼拝は他の学校とは少し違う。高校3年生はよくこの終業礼拝を「卒業式」と呼ぶ。年明けの大学受験に向けて3学期は日本で過ごす為、もうイギリスには戻ってこない高3生にとってはまさに今日が「最後」の日だ。

部活動の後輩、食事の席で隣になった後輩、委員会や係の後輩、色々なところで高校3年生にお世話になった生徒たちが赤ネクタイの高校3年生を見送る。来学期はもうもどってこない先輩たちのことを思うと自然涙が溢れる。
学校を去る高校3年生たちも、人生の大きな岐路を目前に控えて緊張の日々をこれから日本で迎えるわけだが、兄弟のような仲間と毎日を過ごした立教生活もこの日で終わり。明日からはたった一人の受験勉強が始まる。これまでここで鍛えた根性と集中力、そして先生方や後輩たちとの沢山の思い出を胸に頑張って欲しい。

終業礼拝ではこれまで3年間お世話になった担任の先生方からはなむけの言葉があった。走馬灯のように次々と蘇る思い出に、「今日は絶対泣かない!」と宣言していた男子生徒達だって涙をじっと堪えていた。
高校3年生の為に用意されたスペシャルディナー、ランチョンが終わるといよいよ帰宅が始まる。1年で一番ドラマチックな帰宅日だ。インターネットでいつでも連絡が取れる時代にはなったが、目の前で微笑んでくれる友達との別れはやはり辛い。先輩達を見送る後輩達は勿論、一足先に帰宅する高3生同士でも涙のお別れになる。ヒースロー空港行きの3台の大型コーチが出発する頃には雨を含んだ強い風が吹くあいにくの天気となったが、出発の時間が15分も遅れるほど別れを惜しんだ。何度も何度も握手をして、声を掛け合って、また会おうねと約束してコーチに乗り込んだ。思い切り手を振って見送る小学生、頑張れよ!と優しい笑顔で見送る先生方、それぞれの車でこの後帰宅する国内生徒、みんなが見送る中、3台のコーチが次々と校門を出て行った。
急にひっそりと静まり返ったキャンパスには高校3年生が飾り付けをしたクリスマスツリーが静かに輝いていた。

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