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昨年本校を卒業した畑田さんから、クリスマスカードと一緒にメッセージが届きました。現在慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスで学んでいる畑田さん。立教で培った英語力とバイタリティーを活かして多方面に渡ってご活躍の様子です。以下に頂いたお手紙をご紹介します。

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主の平安
クリスマスのご挨拶には少し早いですが、学校が開いているうちにお届けしたく、近況の報告も兼ねてお便りしています。
日本も本格的な冬が近づいてきていますが、この時期の英国はもっと寒いでしょうね。先生方におかれましてはお変わりありませんでしょうか?後輩たちも元気で過ごしていますでしょうか?
わたしのFreshman生活も2/3を過ぎようとしていますが、こちらはお陰様で元気にやっております。進学先の慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)での生活は、毎日が新しい発見の連続で、自分の小ささを日々実感しています。同級生も先輩方も皆フットワークが軽く、行動力にあふれている人たちばかりで良い刺激を受けています。思えば中3の夏、立教英国学院への進学を決めたとき、あの決断が無ければ、今こうやってSFCでの生活を充実したものに出来なかったでしょう。初めて海外に一人で渡航する勇気、自立・自律しなければならないこと(SFCにもチャイムはありません。自分の好みに合わせ授業を履修するので、知り合いが一人もいない中課題をこなすことも多々あります)、様々なバックグラウンドを持つ同輩たちとの交わりやそれによって広がる視野……。どれも立教での生活で得たものです。今はそれに加えて、世界で活躍する方々に直接自分のプロジェクトをプレゼンできるような機会などもたくさん頂いています。また、在学中には当直や聖歌指導など務めさせて頂き、表彰もしていただきましたが、学校の中心軸になって働くことは、今でも続けています。SFCには2つのお祭りがありますが、その内の一つ、周辺地域の皆様と一緒に作る七夕祭の実行委員をやらせて頂いています。これらも立教で頑張って活動し、それを先生方に認めて頂けた経験があったからこそです。
このように、今のわたしが主体的に活動していけるのは、立教の環境と、たくさん相談に乗って下さり応援して下さった先生方のお蔭です。これからの世の中で “本当の意味での”グローバルな人材の需要は高まってきます。そして立教は、そういう人たちを輩出する教育機関として、先頭を切ってゆけると思います。ここには素晴らしい力と心を持つ後輩たちがたくさんいます。彼らがのびのびと、活き活きと、世界で活躍できる人材へと成長してゆけるよう、先生方には温かく見守り、導いて下さればと思います。
だらだらと中身の薄いことを書いてしまいました。来年の秋を目処に、英国に、また立教に伺えればと思います。先生方や後輩たちに会えるのを楽しみにしております。それまでどうぞ、お元気で。

Merry Christmas & Happy New Year.

02.12.2015
37期生 畑田

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立教では毎年恒例になっているセンター英語試験ですが、今回も本番同様80分、時間を計り全校で取り組みました。

小学生から高校生、さらには教員も問題を解きましたが、集中して問題を解いていると80分はあっという間。試験終了を告げると生徒からは
「時間が足りなかった。」
という声がちらほら。
「今回受験している先輩は大変だな。」
と先輩のことを考える生徒もいれば、
「次は自分の番かと思うと緊張するな。」
と、自分自身の受験を意識している生徒も多く見られました。前年度の点数と今年度分の点数が結果に記載されているので、一年間でどれだけ点数が伸びたかがわかります。成績優秀者は点数と順位が掲示されるので生徒は結果が知らされるまでそわそわしている様子。今年の生徒の最高得点は195点となりましたが、それぞれが今回の結果を踏まえて、さらなる英語力アップのために努めてほしいと思います。

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今日は一月二日。私は初詣に出かけた。人が混み合っている中での参拝は大変だが、神前で二礼二拍手一礼して気分一新するのは悪くない。毎年お賽銭もつい多めに放り込んでしまう。

「お賽銭」この言葉を聞いて私は一つ疑問に思ったことがある。それは何故お賽銭は投げるのか、ということだ。誰でも小さい頃からお金の扱いにはきびしく注意されてきたはずだ。私はそう思い、「なぜ日本人は賽銭を投げるのか一民俗信仰を読み解く」という少し宗教的だが、私たちの身の回りの慣習を民俗学という学問を通して考察してあるという本を読んでみた。

この本によると、お金が人の身代わりとして「ケガレ」を引き取る風習が残っているという。お金はケガレの吸引装置という事になり、神社は「ケガレ」の浄化装置であるという。賽銭を投げ入れる行為は、「ケガレ」がまとわりついた貨幣を投げ捨て、それを祓い清めるという意味があるらしい。

自分達が教えられたお金教育の次元とは全く違う儀式的行為の世界。貨幣の本質的部分に死の「ケガレ」を内在させているから、これがお賽銭を何故投げて入れるのかという理由だとこの本の作者は言う。意味を知ってやるのと意味を知らないでやるのはずいぶん違うだろう。特に宗教という物にはあまり興味の無かった私だが、ふと自分が感じた小さな疑問がその「宗教」という物とつながっていて、皆が皆、同じ考えをしているのではなく、その宗教ではこの考え方、というように一つの物事に関して色々な考え方があるということに私は少し面白いなと感じた。

(中学部2年生 女子)

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冬休みの思い出は初めてバスツアーに3回も行ったことです。最初はサンタトレインに乗った後にウィンチェスターに行くツアーでした。サンタトレインに乗る駅までバスで移動しながら「どうなるのかな。」と楽しみにしていました。そしたらガイドさんが私たちのところにサンタトレインのサンタさんが来ると言うのです。ぼくはますますドキドキわくわくしました。でも少し不安になる所がありました。名前と年齢を言わないといけないらしいのです。緊張してガチガチにならないか不安でした。そうしたらいつのまにかサンタトレインに乗る駅に着いていました。そしてバスから降りて、トイレに行った後汽車に乗りました。そしてドキドキしながら待っていると前の車両から「メリークリスマス。」という声が聞こえました。気がつけばいつのまにかサンタさんが目の前に現れました。無事に質問に答えられプレゼントをもらいました。とてもうれしかったです。

その後バスでウィンチェスターへ向かいました。ウィンチェスターは立教でも一回行ったことがあるので、お母さんを案内してあげました。そこでぼくのおすすめでお母さんはチョコクレープを食べました。お母さんもおいしいと言ってくれました。サンタさんに会えたすてきなクリスマスでした。次はストーンヘンジとバースに行くバスツアーでした。ストーンヘンジまでものすごく時間がかかりました。とても長くてたいくつでした。そしていよいよ着きました。しかも外に出るととても寒かったです。凍りそうな天気でした。ストーンヘンジは紀元前に廃墟になっていたという話を聞いたことがあります。風は強く雨ははげしかったです。そのせいで歩くのが大変でした。でもストーンヘンジを見られてとてもよかったです。ものすごい雨だったので次に行く場所、バースもちゃんと見られるか心配でした。

私たちはバースミュージアムに行きました。とても有名な大浴場がありました。なんとその水が飲める場所があって、飲んでみたら血の味がしておいしいのかおいしくないのか全くわかりませんでした。ぼくにはあんまり口に合わなかったです。そして2回目のバスツアーも無事に終わりました。

最後のバスツアーは、バーフォード・バイブリー・ボートソオンザウォーター・ブロードウェイという小さな所です。全てコッツウォルズに入っていてとても自然ゆたかな場所です。ぼくも見た時ものすごく感動しました。一番感動したところは「バイブリー」でした。ものすごく気持ちよくて空気もおいしかったです。昔の感じがしました。

初めてイギリスでのツアー。とても楽しかったです。ツアーを通してイギリスってこんな広いんだと感じました。また行きたいです。

(小学部5年生 男子)

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1月10日(日)、立教英国学院では3学期の始業礼拝がおこなわれました。

立教英国学院では高校3年生は受験のため3学期初めには学校に帰ってきません。そのため、高校2年生が最高学年として学校を引っ張っていくことになります。始業礼拝の際に、十字架とトーチをもって教員たちを先導するのも、新しく任命された高校2年生の生徒たちです。
また、今学期は生徒会選挙も行われ、高校1年生のなかからも生徒の代表としての責任を担う者たちが現れ始めます。
学校が、来年度、どのような姿で新入生を迎えていくのかを決める大切な学期ともいえるでしょう。

そんな3学期の始業礼拝には、立教大学の吉岡知哉総長が参列してくださいました。
吉岡総長は式辞のなかで、
「勝つことを目指して生きることは、他の人と出会うときに、その人をどう負けさせるかという目で見ることであり、それは他人を手段として扱うことである。そのような生き方をするものは自分自身をも手段として扱うようになってしまう。」
と、勝つことにこだわる生き方に対する批判的な視点を示してくださいました。
そして、
「現代社会で大切なのは、人を手段として扱う生き方ではなく、自己と他者を尊重して生きる生き方であり、毎日仲間達と生活を共にする立教英国学院で求められているのは、そのような生き方である。だからこそ、立教英国学院の生徒であることに誇りをもって、毎日を送ってほしい。」
と、生徒たちにメッセージを送ってくださいました。
立教英国学院での生活をまた新たな気持ちではじめるための、とても大切な言葉をいただいたと思います。

今学期は短い期間ですが、かるた大会や合唱コンクールといった行事も盛りだくさんです。
健康に気をつけながら、充実した学期を過ごしていきたいと思います

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冬休みというと年越しを挟んだ休みとなる。正月は毎年親戚が家に集まって過ごすのだが今年はそれだけではなかった。近所の神社のご奉仕に参加したのである。

三箇日の三日間、私は御礼場といって御礼や御守り、縁起物などを頒布するご奉仕をした。一言で言うと疲れるし忙しい。初日である一月一日なんかは、慣れていないこともあって、やめたくて仕方なかった。

たくさんの人とふれあうというのは私の想像以上に大変だった。初日は余裕がなくて気にしていなかったが、訪れて来る人はあたりまえだが様々な人がいた。ほとんど話さず、早く帰りたがる人、楽しそうに御守りを見ている人、笑顔であいさつしてくれる人、なぜだか偉そうな態度の人など、それは様々であった。やはり相手が笑顔だとうれしくなるものである。威張っている人だと、なんだこの人はと思っていた。お客様でも神様じゃないのだぞ。神様はここ(神社)にいるんだぞ。と、どこかで聞いたことを心の中で言っていたのだった。

そんなこんなでご奉仕を終え、普段の生活に戻った私はすぐに本屋に行った。買う本は予め決めていたのでレジカウンターへすぐに向かった。
「ブックカバーをお付けしますか。」
「こちらの本はキャンペーンの対象ですが・・・。」
とか何とか色々店員が聞いてくるのをうっとうしく感じながら首を縦や横に振ってお金を払い、さっさと店から出て家に帰った。

本屋からの帰り道に思った。私の態度はひどいものだった。私が店員をやっていて、私のような客が来たら、確実に嫌に思うだろうな、と考えた。なぜ今まで身近で働いている人に気を配れなかったのだろう。ああ、これは後悔というやつだ。いくら嘆いてもしかたない。これからは、気を配れるようにしよう。忘れてしまってはいけない。だからここに書いておく。

(高等部1年生 男子)

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時間、それは、人間が人間らしく、豊かに生きることを可能にしてくれる、人生というものの、原料であると思いました。

私が、今回読んだ「モモ」は、年齢もどこからやって来たのかもわからない、不思議な才能を持った女の子が、人々から時間を盗んで生きている集団、灰色の男たちから、大人たちの盗まれた時間を、愛と勇気の力で取り戻すお話でした。

私が、この本を読んで感動したのは、女の子が時間をつかさどる人物に会い、時間そのものについて考え、出した答でした。「さわることはできない。つかまえられもしない。時間とは、一種の音楽でいつもひびいているものなのよ。とおくから聞こえてくるけれど、心のふかいところでひびきあっているものなのよ。」

私はこの四文で、今まで心の中で靄の様に漂っていた時間というものの答が、明確になったような気がしました。と同時に、現代の時間と戦いながら生きる社会に生まれた私たちは、本当の意味での時間というものがどれだけ素晴らしいか、気づかないで過ごしている人が、実はとても多いのではないかと思いました。

立教は、確かに朝の準備は二十分しかなくて、夜は遅いときもあり、時間があまりないと思っていたけれど、自然豊かな英国という地に囲まれて生きることができるのは、同じ時間の中で、とても良い人生の一部と将来なるのだろうと思いました。また、人生で大事なことは、なにかで成功することでも、たくさんのものや、権利を握りしめることでもなく、生きることのほんとうの素晴らしさを考え、素直な心で人生という道を見て、真っすぐに歩んでいくことだと、本書を通じて、学ぶことができました。そして、本というものは、人生を豊かにしてくれるスパイスだと思いました。

(中学部1年生 女子)

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「人間という生き物は、どうしてこんなに単純で、自分勝手なのだろう。」

時は天漢二年、現在の中国が漢だった頃のこと。騎都尉・李陵が当時度々漢に侵略していた匈奴を征伐しに行くところから話は始まる。李陵は自分の率いる兵の数百倍も規模が大きい匈奴軍相手に善戦するが、最後は兵力、さらには自分の矢さえ尽きてしまい、結局相手に捕らえられてしまう。その後、漢では、「李陵が匈奴の兵の訓練をしている。」というデマが流れ、漢の武帝は激怒。周りの役人たちも、たった数か月前には李陵のことを褒め、そして共に杯を交わしていたというのに、手のひらを返したように、今では李陵のことを非難するばかり。李陵は匈奴の大軍相手にも善戦し、その結果匈奴に破れたのにも関わらず、だ。そもそもこんな大きな兵力の差で戦に臨むことになったのも、李陵の下に付くことを不愉快に思っていた老将・路博徳のたくらみによるものなのだ。唯一、このような周りの態度に疑問を感じていたもう一人の登場人物、司馬遷は李陵を擁護するが、最終的には宮刑に処されてしまい、そして李陵の一族もまた、全員殺されてしまう。

僕が冒頭に書いたような思いを抱いたのは、このシーンである。人間というのはなぜここまで単純かつ自分勝手なのか。これでは戦略とかそういうもの以前の問題ではないか。いかに人間社会が、嫉妬心や信ぴょう性の低い情報に流されやすく、そのようなものが人間社会に大きな影響を与えているかがよく分かる。人間社会の根本的な部分は、今も昔も全く変わっていないな、と思った。僕は冒頭部分のような思いを現代の世の中に対しても持ったことがある。ネット社会がその分かりやすい例の一つではないか。今、様々な人々がネットに書き込み、それを多くの人々が見ている。ネットは非常に多くの情報であふれているが、中には偽の情報も多数存在するのが現実だ。だがそんな情報に一喜一憂し、それを拡散させて他人からの同感を得ようとする人、またそれを求めている人達がいる。勝手な妄想を広げては他人を何の根拠もなしに批判する人もいる。でたらめな自論を展開してはそれを他人に押し付け、受け入れない人に対しては「人ではない」みたいなことを書く人だっている。そして、「ネットに書き込む人なんて、一部の限られた人達だけだ」とは思いつつも、結局ネットの意見を「全ての人の共通認識」のように扱い、参考にし、自分の常識として身につけてしまう僕のような人間が世間には大勢いる。所詮人間は、ネットのような本当かどうかも分からない情報に大きく左右されているのだ。

スポーツの世界だって残酷。どんなに有名な選手だって、衰える日は必ず来る。かつては自国を代表するような選手で、周りからちやほやされていたとしても、衰えて勝てなくなれば、とたんにバッシングをされ、叩かれる。またその逆もしかりだ。「実力主義」と言えば聞こえは良いが、人間と接する時は、必ず「情」を持って接するべきだと思っていた自分にとって、その行為はあまりに冷たすぎると思っていた。李陵や司馬遷は、そんなスポーツ選手に似ている。運命とは残酷なもので、自分が思っているほど上手くはいかない。天は人々の見方になってくれるが、時にはむごいことだってするのだ。彼らは勇気を出して運命に立ち向かったが、結果が伴わず、彼らの評価は地に落ちた。僕なら耐えきれず、「死にたい」と思うかもしれないが、死ぬ勇気もなく、ただ黙って残りの人生が過ぎるのを待っていたであろう。

だが彼らは違った。彼らの心は最後まで死ななかった。司馬遷は一時は死への思いがよぎることもあったが、大作「史記」を完成させることへの執念が、司馬遷を生き延びさせ、そして「史記」を完成させた。また、李陵と同じように匈奴に捕らえられていた蘇武は匈奴に捕らえられた後も匈奴の前に屈することなく、奥地でひっそり暮らしていた。冬はねずみを掘り起こして飢えをしのがなければならないほどの食料不足に陥ったが、そんな時でも祖国漢のことを忘れたことはなかった。李陵はその後も匈奴に残り、漢に戻る事はなかったが、だからといって李陵は意志が弱かったかといえばそういう訳ではないと思う。地位も家族も奪われ、漢には様々な思いがあっただろうが、そのような苦しみも乗り越えての決断だったと思う。

李陵も司馬遷も蘇武も、皆孤独だった。だけどいつでも自分の信念、意志を持ち続けていた。それが彼らの人生を支えていた。これこそ生き物としてあるべき、本当の美しい生き方ではないだろうか。自分は自分らしく存在すれば良いのであって、それが社会にどんな影響を与えるかなんて、僕たちに分かるはずはないのだから。

(高等部2年生 男子)

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芥川龍之介の『トロッコ』では、主人公の良平が鉄道建設のためのトロッコを通じて冒険を繰り広げ、短編でありながら密度の濃い物語となっている。私はこれを読んで、人生の縮図を見出した。

最初、良平は連れと共に以前から興味のあったトロッコに乗って遊んでいて、土工に怒鳴られてしまい、それがある種のトラウマのようになって、トロッコに乗ることを諦めかけたが、十日余り経ってから再びトロッコの通る工事現場に足を運んでいる。私にはこれが、自分の意志を否定されて断念しかけても、諦めずに挑戦するという、人が生きる上で何度も体験することを示しているように思えた。

また、良平がもう一度トロッコに乗ったときには、二人の土工—-良平曰く優しい人たち—-と共に、トロッコが自走しない所では一緒になって押すといった場面があり、人が—-特に子供が—-生きていく上で、たとえどんな道のりであっても、他の人の支えがあってこそ生きてゆくことができ、学び、成長していけるのだというメッセージを感じた。その場面とは対照的に、道中土工が茶店でくつろいでいて、良平がかまってもらえず退屈しているとき、良平は一人でトロッコを押してみるのだが、トロッコは進まない、という場面がある。一人では生きてゆけないということも物語は教えてくれているのだ。

物語が終わりに近づくと、良平はいつの間にか遥か遠くまで来てしまい、二人の土工に帰ることを促がされ、来た道を戻るのだが、帰り道は行きと違って孤独で、良平はそれに耐えながらも家に帰り、家に着いた途端号泣する。その後、良平は二十六で妻子と一緒に東京に出て職に就くのだが、塵労に疲れたときにはあのときのことを思い出す。人は一人で生きてはゆけないとはいえ、いつか孤独を感じることもあるだろう。しかし、そのときに自分を受け入れてくれる人間がこの世に決して皆無でないこと、そしてそれを自覚する経験が、人が生きていて辛いと感じたときの支えとなることを、芥川龍之介は『トロッコ』を通じて教えてくれていると私は思うのだ。

この物語で主人公の良平が歩んだ道のりは、あらゆる人の人生そのものの比喩であるといえる。トロッコに乗って行く道が建設途中の鉄道路線であるのは、「人生とは既に出来あがっている道の上を行くことではなく、自ら道をつくりあげてその上を歩んでいくことである」というメッセージであると思った。だから私は、今生きてゆく上で何をしたら良いかわからない人、生きることに絶望している人、その他人生で行き詰っているすべての人々に、この『トロッコ』という、約二十ページという短さに反比例した長い長い物語を捧げたい。

(高等部2年生 男子)

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ぼくは、「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」という本を選びました。ぼくはなぜこの本を選んだかというと、大統領がなぜ貧しいかが不思議だったからです。ぼくのイメージでは、ふつうは大統領はお金持ちだと思ったからです。だから「貧しい」という意味を調べてみました。調べてみたら、生活が苦しいや心が満たされていないなどが書いてありました。ぼくは経験したことがないことです。だから興味をもって読みました。本を見たときは、すぐに読めると思ったけれど、中身の内容はすごくむずかしかったです。だからけっこう読むのに時間がかかりました。

この本は、大統領がブラジルで開かれた国際会議でスピーチをした話が書いてあります。この大統領は南米の国ウルグアイからやってきた、ムヒカという名前です。どの大統領よりも質素で、給料の大半を貧しい人のために寄付したり、農場で奥さんとくらしています。古い車を自分で運転して、仕事に行っています。ぼくは、まずここまで読んで、大統領はやさしい人だなぁと思いました。日本と比べて、すごい差があると思いました。悪くなった地球のかんきょうを話し合う会議でした。色んな国の代表者が貧しさをなくすのにはどうしたらよいのかをスピーチしました。でもよい意見が出ません。ムヒカ大統領は、意見をする前にみんなに質問するように話し出しました。物をたくさん作って、売ってお金をもうけて、そのもうけたお金でほしい物を買うことはよいことなのか。今の文明はこのようにずっと続いています。みんなはいつも「心をひとつに、みんないっしょに」と言っているけれど、それを忘れて、自分だけのことを考えています。他人を思いやる気持ちを忘れてきています。

ぼくは、シンガポールに住んでいた時、ヘイズという大気おせんを体験しました。インドネシアで畑を焼くことです。これはインドネシアでは生活するには、とても大切だとお友達から聞きました。でもそのけむりでマレーシアの人とシンガポールの人はとても苦しみました。インドネシアはわざとやってはいないのに、みんなからいやがられました。でもどうしたらいいのかは、まだ解決していません。

ぼくは初めて気が付きました。貧しいは少ししか持っていないのがはずかしいことではなく、なんでもほしがる心があって、それでもいくらあっても満足しないことが本当の貧しいことだと初めて知りました。そして、他人を思いやる気持ち、みんながしあわせになることが一番大切なことも初めて知りました。どうしたら人にめいわくをかけないで、生きていけるのか、どうしたらしあわせが最も大切だということを知ってもらえるのか。ぼくたちが生き方や物のみかたを考えたほうがいいと思います。例えば、火薬は戦争に使う物ではなく、花火や色んな物に使う物で、みんなを喜ばせるために使ってほしい物と考えてほしいです。これはテレビで誰かが話していたのでよく分かりました。

この本は、ぼくに色んなことを気づかせてくれた本でした。ぼくは言われないと気がつかないので、こういう本がどんどんでたらいいなぁと思います。そして、ムヒカ大統領が言ったことをぜったいにわすれないようにしていたいと思います。

(小学部5年生 男子)

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