私は団体競技が好きです。というのは、チームの皆で士気を高め合い、一人のミスは皆でカバーし、ファインプレーは喜び合い、皆で支え合う一体感が好きだからです。それに比べて個人競技はミスをしてもファインプレーをしてもコートの中には自分だけ。支えてくれる人も周りにいない、完全に自分だけの闘いです。そのピリピリとしただだっ広いコートの張りつめた空気が好きになれず、あまり興味を持てずにいました。

私がウィンブルドンで見た試合は女性のシングルスでした。「サーブの時は喋らずに」「ほかの場所でも騒がない」散々言われたルールがその空気を更に緊張するものへと変えていました。私たちの席からコートは近くて、選手の息づかいや表情も、しっかりと見ることができました。選手の片方は緊張に飲まれていて、全力の実力を出せていないように感じました。それに比べてもう片方の選手は、緊張などしていないような凛とした姿をしていました。それはまさに私の思う「個人競技」の姿でした。一人でさびしく、勇ましくプレーする姿も、自分自身の誇りをかけて緊張に打ち勝つように独りもがく姿も、緊張などものともせず、一人で攻め続ける姿も。私にはなぜ、そこまで一人で頑張れるのか理解不能でした。そして強く惹かれました。私にはとうていできないことを、ずっと極めて世界レベルにまで行く人達は、プレーだけではなく、精神も他のスポーツ選手よりずっと強い人だと感じました。

続けられるとは思わないけれど、個人競技も良いかもしれない、とふと思いました。このふにゃふにゃの一人じゃ何もできない自分を少しだけ変えられるかもしれない、とも。そんなことを思えた、素敵なウィンブルドン観戦でした。

(高等部3年生 女子)

「今日も夕日がキレイだなぁ」
最近そう自分に確かめるようにつぶやいて夕暮れの空をよく眺めるようになった。思い返せばここで過ごした時間は「3年間」というピリオドを打つその日に刻一刻と近づいている。きっと今までと同じ煉瓦造りの建物と生い茂った木々からのぞく空だけれど。

元気な声で何がおかしいのかわからず笑いあっている高校1年生を見ていると、あんな時もあったなぁ、なんてまるで一気に何十歳も歳をとってしまったように思う。あの頃私はこの「立教」の毎日の忙しなくてきちっとしたサイクルに溶け込むのに必死だった。ここでの一人前の証で、力強い赤ネクタイをした人たちがかっこ良くて仕方なかった。家を離れた寂しさをどうにか握りつぶそうとして、日々蘇る母の味を奥にしまって。いつかあのネクタイを自分がするだなんて考えられなかった。空を見上げてキレイだなんて思う余裕はなかったんだろう。

そんな私も、あの時は思いもしなかった「赤ネクタイ」をしてこの文を書いている。何を学んだのだろう。もちろん日々勉強をしてまた日本へと帰る準備をしている。私はここで何を学んだのか。

確か入学したての頃にここでの生活への期待と目標について作文を書き、ちょっと先生に褒められちゃったりなんかして嬉しかった記憶がある。広い視野を持った国際人になりたいとか、大人になった気がしてしまうような覚えたての言葉を少しドキドキして並べたような気がする。思ってもいない事を書いたって訳ではないけれど、あの頃の私はあと1年と半分くらいすれば「自分って、自分にできることって、結局何がしたいんだ?」というどうも先の見えない小道でウロウロすることなんて知らなかったのだ。ここでの毎日の同じ生活に慣れて学年も上がると、自分が何なのかわからなくなった。皆似たような制服をまとい、同じことを繰り返して…。自分を表現したい、だなんて自分の中の葛藤を鎮めるのに手を焼いたりした。窮屈で仕方なく思い、悩んだこともあった。しかし目の前の「絶対にやることリスト」が埋まっていくうちにそんな葛藤の落とし所なんて考えてあげている暇はなくなった。

何ができるか、なんて考えたところでどうしようもないのかも知れない。この世界をまだほんの一部しか見ていなくてまだまだ知らないこと、それこそ果てしなく。そんな考えに行き着くのに手を差し伸べてくれた人たちの顔を思い浮かべると、何か一所懸命、頑張っていれば見てくれている人がいる、ということ。そして物事には「時期」があるということ。良いことも、悪いことも。焦らずに自分と向き合い、磨いていること。何となくわかるようなことだけれど、やはり難しい。
ある先生が「立教は社会の縮図だ。」なんておっしゃっていた。小さな社会かもしれないけどいろいろな人がいて皆良くも悪くも知り合っていて、今多先生の「ここでやっていける人はどこでも通用する。」という言葉は嘘なんかじゃないんだ。

振り返れば思うことはそれこそ山のようだけれど、前を向いて、大きな世界へ飛び出していく準備をしなくちゃ。
ここでの「思い出」を余すことなく過去から拾い上げてこられるように。そしてあと1学期。高校生活がそろそろ幕を閉じようとしている。やっとこの「赤ネクタイ」が馴染んできたのになぁ。

(高等部3年生 女子)

イギリスで横断歩道を渡る時、車が通りかかろうとしているので過ぎるのを待っていると、向こうが気付いてくれて、ライトを一瞬点滅させてくれる。これは、どうぞ先に渡って下さい、というサインだ。そして渡る私は軽く手をあげて感謝の気持ちを示す。

この日常的な出来事が、日本だとまるで起こらない。横断歩道は歩行者優先、という決まり事を自動車教習所で習っただろうに。運転の手本を見せるべきである警察車両までもが横断歩道を渡ろうとしている私を無視して通り過ぎて行ったのには、流石に憤りを覚えた。

日本人は交通マナーは良く守る方だし、横断歩道を歩行者が渡るのを見た事が無い訳がないのだが、どうして皆が皆、停まってくれないのだろう。大通りの横断歩道に出てみて、初めて分かった。日本の大抵の横断歩道には信号が付いているからである。

赤信号の時は停まれ、青は進め、そう教え込まれたドライバーにとって赤信号の無い所はすべて「進め」を意味するのだと思う。義務的な決まり事はきちんと守るかわりに、そうでないものは無視する。義務でないからだ。

一方イギリスでは自動車は赤信号を一応守るが、制限速度は全く気にしないし、歩行者は赤信号を律儀に守る日本人と違い、平気な顔で渡っていく。だが、道は譲ってくれるのだ。義務は必ずしも守らない。自分の判断と責任でするべきこと、しても良いこと、駄目なことを決めるのである。日英両国の国民性の違いが理解できた瞬間であった。

どちらの国民性が良いとも言えない。そのような物に優劣などつけられないのだ。けれども日本人はこれまでの「決められたことしかしない」主義をそろそろ見直すべきだと思う。優先席というものは、その主義の代表たるものだ。個人の判断責任で物事を行ってこそ、日本人はより良い日本を作れると思う。

(高等部3年生 男子)

私が、初めてホームステイを経験したのは、中学3年の春休みだった。ミレースクールの交換留学で、一週間ステイをした。泊めてもらった部屋の広さに驚いたり、いつお風呂に入ったら良いかと悩んだり、朝ご飯を断り切れずに食べすぎたことなどを覚えている。

そのときは、また同じ家庭にお世話になるなど考えもしなかったのだが、今回で三回目のステイとなった。土曜日の午後、見慣れた車が学校に着き、ステイ先の人とトランクをつめたあと、それに乗り込んだ。初めて乗ったときは、ただただ受け答えすることしかできなかったが、今回は自分から話しかけることができた。

私は人とコミュニケーションを取るのがあまり上手くはないが、三回目にもなれば、さすがに自分も成長したと思う。食事のときにも、自分から質問することができるようになり、なにより”Do you want more?”と聞かれたときに、”No. Thank you, I’m full.”としっかり断れるようになった。自分がどうしたいか、何を思っているかを相手にはっきり伝えることの大事さに気づけた。三年前に比べ、笑ったりすることも増え、初めはずっと英語を使わなければならないことがつらかったが、次第に英語を使うことを楽しむことができるようになった。

正直、今回のホームステイをするまで、英語は得意ではあってもあまり好きではなかったので、自分で自分に驚いた。そのような気持ちの変化が起きたのも、毎回温かく迎えいれてくれたホストファミリーのおかげだ。家族全員で日本語を習ったり、不便がないかと気にかけてくれた。私が来年は立教にいないという話になると、
「あなたがいないと来年ホストファミリーをするか迷うよ」
と言ってくれた。それが私にはとても嬉しかった。

「イギリスに来たときは、ただで泊まりなさいよ」
とも彼らは言ってくれた。いつかまたイギリスに来て、ホームステイをしたい。

(高等部3年生 女子)

夏休みの最初の1週間、私は学校が提供してくれるホームステイを希望した。今回は私にとっての最後のホームステイとなるので、きちんと英国の文化に触れることをベースとし、楽しもうという思いが強くあった。メンバーが全員で3人という事であったので日本語が必然的に出てこないようにして過ごす事を意識した。

初日は燦々と輝く太陽と心地よい風に恵まれ、過ごしやすい天気となった。しかし、翌日は朝から雨が降りピクニックの予定が潰れてしまったのだ。少々悲しく思ったが、ホストファミリーと話せる良い機会だと思い積極的に話す事を心がけた。それ以降も、食事前にはホストファミリーとの会話を独り占めしようとキッチンに向かい、英語をなるべく使うようにした。今回は、電子辞書を使わないで会話する事を目標としていたので、日本語でなら言えるのに英語だと分からない単語を頑張って言い換えて意思を伝える様な事も多かった。しかし、この目標はホストファミリーが親切な方でないと立てられない目標であった。それは会話中に入ってくる分からない英単語を言い換えて説明してもらわなければならないからだ。まだまだ、ボキャブラリーを増やさなくてはならないと痛感した時が多くあった。

ホストファミリーとの会話では、ホストファミリーの娘さんの話やフェスティバルの話、将来の夢の話など沢山した。専業主婦であるホストファミリーのお母さんに「あなたはいつもキッチンで話し相手になってくれるのね」と言われた時は、「あぁ、私もきちんと意思疎通が出来て、会話できているのだな」と感じられて嬉しかった。

立教に戻る前日に、ブライトンに連れて行ってもらった。海の街であるブライトンはここから少し距離があるのでホームステイの度に訪れるような場所ではなく、行けたとしても雨だったり天候が悪い事が多い場所だ。今回は晴れていた事もあり、そこでの風景が本当に綺麗で皆で感動したのを覚えている。東京に住む私にとって、絶対に経験できない場所である。太陽によってキラキラと輝く水面に浮かぶ自分の写った影を見て、海の色から深浅を想像した。なんという幻想的な世界であろう。しばし時を忘れてしまいそうになった。海を見ながら、これが最後のホームステイになるのかと考えると寂しい気持ちが大きくなった。今まで行ってきた10回弱のホームステイと今回のホームステイが走馬灯のように頭に流れてきた。そのどれをとっても楽しい思い出ばかり。自分は幸せだとふと感じた。イギリスの食文化や人々、異文化に触れイギリスの素晴らしさを全身で経験した。今まで行ってきた沢山のホームステイは私に最高の思い出をくれて、よりイギリスが好きになってしまった。

(高等部3年生 女子)

昨日、ウィンブルドンへ行った。テニスやおしゃれにあまり興味のない私は、この行事に行くことに価値を見出せず、前日に服装を考えてうきうきする皆の中で正直憂鬱な気分だった。

朝、コーチに揺られて会場に着くと、長蛇の列が並んでいた。時間が経つにつれ日も高くなり、やっとの思いでチケットを買った時の私には、最早テニスを観戦する気力は残っていなかった。

昼食を食べ、日本人選手の試合が見たいと張り切る友人に連れられるまま、あるコートへ行くと、ちょうど添田豪選手のプレーが始まるところだった。相手選手のランクと背の高さに圧倒されていたが、勝負は思ったよりも互角だった。添田選手は惜しくも負けてしまったけれど、私は楽しんで見ることができた。また、その後に大きなスクリーンで見たシャラポワ選手の試合も、ルールはわからなかったが面白かった。

今回のウィンブルドンでしたことはこれぐらいだったけれど、私は自分の好きではないものへの偏見や先入観を持ち過ぎることの愚かさに気付けた気がする。いつもはつまらないと思っていたテニスも気付けば夢中になって見ていたし、来年のウィンブルドンも今から少し楽しみだ。これから先も自分のやりたくないことに挑戦しなければならない機会が少なからずあると思うけれど、やる前から楽しむことを諦めるのはやめることにしよう。

(中学部3年生 女子)

イギリスの冬ってこんなに長いのかな。

新学期が始まって、イギリスの4月がこんなにも寒いとは思わなかった。沢山の友人から「イギリスの春や夏は暮らしやすいよ。」と聞いていたのにもかかわらず、3学期と同じ格好をしていた。なんだ、全然暖かくないじゃん。ヒートテックを持って来ればよかったとひどく後悔した。

5月。日差しが暖かくなってきた頃に、体育館の近くに植えてある桜が満開になった。日本でも満開の桜を見てきたが、イギリスの桜もまた良かった。高校3年生だけが放課後の時間に桜の前で写真を撮った。少し見慣れてきた赤ネクタイと初めて写真を撮った。

球技大会の日は見事に晴れ。雨が降るだろうと言われていたがその心配は全くいらなかった。

ウィンブルドン当日も信じられないほど暑くなり、前日があんなにも寒かったことが信じられなかった。日焼け止めを塗ったにも関わらず、みんなこんがり肌が焼けた。

期末期間に入るとまた少し涼しくなった。勉強しやすいというのはこういうことか、と思った。暑くなった日もあったが窓を開ければ気持ち良い風が吹いた。

帰宅日。暑すぎず、寒すぎず、気持ち良い風が吹いている。きれいな青空の下、1学期が終わった。
卒業まであと1学期間。

(高等部3年生 女子)

このイギリスに来てからというもの、日本の今について知ることが少なくなった。かつては日本の首相だけでなく大臣の名前も全て覚えていたが、今となっては日本の有名人の名を聞く機会ですらゼロに等しい。それほど日本という国とイギリスが遠いということを実感した。

思えば、日本に住んでいるときにイギリスの情報が頻繁に入ってくるわけではなかった。王室の歴史やロンドンという都市について知るようになったのもイギリスに住んでからだった。

春休みに日本に住む友人と会った際、こんな質問を受けた。「イギリスって食事が美味しくないの?」彼曰く、イギリスのイメージは、ご飯が不味い、お茶ばかり飲んでいる、といったものだった。あながち間違っているわけではないが、もっと知ってほしいイギリスの一面が沢山ある。日本に住む人々はそれを全く知らないのだ。

将来、大学やその他の人生において、イギリスという日本から遠く離れた国を知っていることは大きなアドバンテージになるだろう。イギリスが素晴らしいということを皆に教えられるようになるべく、残り少ないイギリスでの生活を充実したものにして、今後の人生への糧にしていければ幸いである。

(高等部3年生 男子)

立教に入学したとき毎学期スクールコンサートがあると知って、よっしゃ、と思ったことを今でもよく覚えている。音楽学校でもないのにコンサートをする学校なんて、日本ではなかなかないからだ。ピアノを13年間続けてきている私は、自分の音楽を聴いてもらう機会が毎学期あることが、本当に嬉しかった。

そしてそんな大好きなコンサートも今回が最後。ラストに間違いなく最高のものをつくることができたと感じている。私が小6からいつか弾きたいと思い続けてきた “ベートーベン月光ソナタ” をソロで。小野さんのフルートとのデュエットの実現。ブラスグループの初ステージ。そして人生初の4人でのピアノ。私がやりたいと思っていたことを全て叶えたスクールコンサートとなった。特にピアノカルテットは一生忘れない。

高3の4人で最後だから何か一緒に弾こうとポップスなどを想像しながら軽い気持ちでサットン先生に言ったら、渡されたのは、?”サンサーンス 死の舞踏”。

「本気のクラッシックじゃん!!」
と思った始まりから4ヶ月。練習も本番も最高に楽しかった。タイプの違う4人で1曲を作り上げることは難しいけれど、それぞれの持ち味を活かした曲にできたと思う。同学年に、それなりのレベルでピアノを弾く人が4人もいるのは、上にも下にもこの学年だけだ。そのことを誇りに思っているし、私達だからできたと自信になった。またお客さんが、本当に感動した、良かったよ、と言ってくださり、弾いて良かったと心から思った。

スクールコンサートは改めてピアノの楽しさ、音楽の素晴らしさを教えてくれた。これからも一生音楽を続けていこうと思っている。

(高等部3年生 女子)

今年は終戦70年目という節目の年を迎えましたが、終戦から数年後、英国でひとつの名作が誕生しました。それはC.S.ルイス(1898-1963)による「ナルニア国物語」です。第二次世界対戦中、オックスフォード大学モードリン・カレッジの特別研究員として活動していたルイスの家には数名の疎開児童たちが住んでいましたが、子供たちがあまり読書をしないのを見て、本を読む喜びを伝えたいという願いから「ナルニア国物語」の執筆を始めたと言われております。ルイスは聖職であった母方の祖父の影響もあり、クリスチャンとして少年期を過していましたが、宗教に疑問を抱き、無神論者となります。しかし、再び、信仰を取り戻し、キリスト教に関する著作を著し始めた後にこの作品が執筆されます。「ナルニア国物語」は七部に及ぶ大作ですが、これらの中の三部は映画化され、多くの子供達に愛されるファンタジー映画として人気を博しています。この作品には聖書的な思想が多く含まれており、聖書の授業の視覚的教材として用いています。ルイス研究家によれば、この作品にはルイス自身の人生における様々な悲しみ、痛みの体験の中でルイスを支えた目には見えない神様の眼差しというものが反映されていると言います。ルイスは神秘の国「ナルニア国」を描きながら、わたしたち人間が回復しなければならないもの、抱くべき心、生き方というものを示していると言います。
「ナルニア国物語」の第一部「ライオンと魔女」は第二次大戦中の英国で空襲に遭うペペンシー家の四人の兄弟―ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーが、疎開先の屋敷の空き部屋で大きな衣装だんすを発見するところから始まります。そして、その扉を開けた時、神秘の国「ナルニア」に招かれます。「ナルニア」はライオンの姿をした偉大な平和の王アスランが創造した世界でしたが、兄弟たちがナルニアへ入った時、そこは白い魔女の支配によりクリスマスのない百年の冬に閉ざされていました。しかし、ナルニアで言葉を話す不思議な生き物たちからこの国の運命を変えるのは自分たちであると知らされます。四人の兄弟はそれぞれ異なる性格を持っていました。責任感が強く他人にも厳しい長男ピーター、慎重過ぎて臆病になりがちな長女スーザン、自信過剰で、狡猾な次男エドマンド、あどけない純真な末っ子のルーシー。ナルニアでの様々な出来事の中でそれらの性格がますます浮き彫りにされます。弱さ、未熟さを持った兄弟たちのありのままの姿がナルニアで露にされます。トラブルになればお互いに責任をなすりつけ合い喧嘩ばかり……。しかし、こうした経験を通して次第に彼らは自分たちの心の中を見つめ、自分の誤りに気づき始めます。そして、これまでに見たことのない世界を見て、視野が広げられて行きます。一人ひとりに変化が訪れつつある、そんな時に偉大な平和の王アスランとの出会いがあります。
アスランはシンプルでありながらもわたしたちにとって忘れてはならない言葉を語ります。兄弟を裏切る狡猾なエドモンドの振る舞いを断罪しようとする側近に「何か理由があるかもしれない。」と理由を聴くようにと促します。自分は何も出来ないと自分を信じることができない長男ピーターに「自分を信じる」ことの大切さを伝え、励まします。そして、アスラン自身が彼を信じて、支えることを伝えます。第三作では大きくなったルーシーが姉のスーザンの真似事ばかりをして自分を見失う姿を見て、「自分の価値を信じる」ことを伝えます。映画の中でのアスランの言葉に私は何度も心を打たれます。
自分の子供や他者との関わりを通して、しばしばしてしまうことは相手の思い、声を聴かずに一方的に怒ったり、裁いたりしてしまうことです。やってしまったことに対しては注意しなければならないのですが、「何か理由があるかもしれない」と聴く必要があるように思います。それによってその本人が抱えていることに少しでも触れることが出来るかもしれない、その人に変化が生まれるかもしれない、と思うようになりました。これは時間がかかることですし、苛立つこともあるかもしれないですが、「聴く」ことはやはり人間にとって大切なことなのだと思います。「聴く」ことは忍耐がいることですが、このことが「信じる」ということに繋がっていくのだと感じます。
今日の社会において難しいことは「信じる」ことです。利用価値、商品価値で人を査定する現代社会では人間関係のモラルも大きく変容しています。「何が出来るか」「役に立つかどうか」が重要となっていますが、何も出来ない、役に立たなくなれば捨てられる社会です。成績、成果ばかりが重視される社会。他人からの評価に恐れを抱きながら生きている人が溢れている社会です。
中学二年から親元を離れ、今日で言うアスリートコースに進学した私は文武両道を義務付けられていましたが、「結果が全て」の生活を送ってきました。寮生活から脱走したり、辞める人は後を絶ちませんでした。辞めずに残れたものの、テニスも勉強も中途半端に終わったように思っていた私は結果を出せなかった自分を責めました。しかし、幸いにも自分のこうした思いを聴き、アスランのような言葉をかけてくれる人々に助けられ、自分を信じることができるようになりました。その後、「神学」という学問をする喜びが与えられました。そこでは出来ない自分が責められることはなく、学問が持つ楽しさ、学ぶことの喜び、生きていることの素晴らしさを教えてくれるチューターたちとの出会いがありました。学問が苦手であった私の学習法や思考法がどのようなものかをゆっくりと見て、聴き、適切なアドバイスを与えてくれました。出来ないお前が悪いと頭ごなしに言われたことはありませんでした。「聴いてくれた」ことで私は救われたのです。これは勉強だけでなく人を育てること、人間関係を構築することに通ずることです。人は「聴く」ことで心が開かれます。他者に「聴く」ことで自分自身の視野が広げられます。お互いに「聴く」心を大切にすることでよりよい空間へと変容されていくのです。

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