卒業式の後、交換留学先のトーマス ハーディ スクールまでミニバスで約3時間の距離を送ってもらった。昨年の11月に5人の生徒が日本の学校生活や文化を学びにやって来たが、今回は僕たちが現地校の学校生活や文化を勉強させてもらう目的のために交換留学生として行った。僕は現地校で彼らの授業に参加し、自分の英語力を試したかった。正直に言えば、英語だけの授業や交換留学生としてのプレッシャーでとても緊張していた。

しかしバディに再会した時、彼とご両親が暖かく迎えてくれたので嬉しくてほっとした。バディとは音楽の趣味が合って、彼の家に着くまでの間、車の中で2人で歌いまくっていた。彼らと一緒にステイ期間中も楽しく過ごせると予感できた。僕たちは毎晩テレビドラマを観たり沢山の事を本音で話し合った。もちろんバディとの友情が深まった。ホストファミリーはとても親切に僕をサポートしてくれた。彼のお母さんは毎朝お弁当を作って持たせてくれ、学校まで車で送ってくれた。おかげでステイ中は実家に居るようにリラックスする事ができた。ステイ最後の夕飯はお礼の気持ちを込めて、お寿司を作り家族で楽しく食べた。お父さんは「美味しいよ。」と言ってくれた割にほとんど箸が進んでいなかったが、僕が一生懸命作った気持ちを解ってもらえていると感じた。日本とイギリスには食文化の違いがあることがよく分かった。次回はお父さんにも沢山食べてもらえる日本食を作ってあげたいと思った。バディとの手作り寿司夕食は今回のステイ中の忘れられない思い出になった。

学校では沢山の事を学んだ。僕はバディと一緒にドイツ語や数学、放課後の日本語クラブに参加した。特にドイツ語が面白かった。とにかく会話が全く解らなかった。僕は数の数え方に挑戦した。バディに数え方と挨拶の言葉を習い、暗記した。やっと1,000まで覚えることができた。ドイツ語は発音が英語やフランス語と違っていて面白かった。ヨーロッパの国々は国境を接しているような近隣国同士だが、それぞれの言語が全く違うというのは興味深く、印象深いものだった。体育の授業ではホッケーを経験した。年下の生徒たちと一緒にプレーしたが、とても上手い生徒もいた。僕もワンゴール決められたのですごく楽しかった。

僕は日本と英国の学校生活の違うところをいくつか見つけた。この学校では、授業中に先生と生徒の間の会話がとても多い。ほとんどの生徒は授業中に気が付いたことを確認することができ、満足のいく理解を得るためにはとてもいいやり方だと思った。また、生徒たちには授業の無い時間に自習したり遊んだりできるフリータイムがある。日本の学校では普通、学校の時間帯に自由時間はほとんど無いので、いつも忙しい。僕はバディと一緒にフリータイムには話したり、スナックタイムを楽しんだ。そのお陰で気持ちにも余裕ができたと思う。

水曜日にはドーチェスターへ市長さんに会うために行った。僕たちは市庁舎で歓迎された。ミーティングルームでは18世紀に使われていた伝統的な衣装を身に付けさせてもらった。市長用を着た友人は市長になりきっていて面白かった。とても貴重な体験をさせてもらったと思う。僕は市長さんに政策について質問した。市長さんは若者の人口を増やすため、若者がこの街で生活するための仕事がもっと必要であると説明してくれた。僕はこの政策は良いと思った。しかし、市長の任期はたった1年しかないので、政策を実行するには全く時間が足りない。僕は市長の任期を延長して政策を実行して欲しいと思った。僕は彼を市長として尊敬できると思った。

最後の日、僕はクラスメートが英国文化について説明してくれるという授業を受けた。そこで僕は質疑応答の機会を得た。説明を理解して、質問することはかなり大変だったけれど、僕にとっては英会話実戦のまたとない場となった。自分の英語力を試す良い機会が得られて嬉しかった。この経験で僕の英語力も少しは上がったと思うけれど、まだまだ未熟であることを思い知った。この機会にトーマスハーディ校の先生や生徒たちから学んだことを忘れないで、皆さんに深く感謝し、もっと頑張って英語力を伸ばしたい。

最後にバディとジムでお世話になった友人と一緒に写真を撮った。彼らはいろんな時に親切に助けてくれて、すっかり仲良くなれた。また会えるだろうか?僕はメールやフェイスブックで連絡を取り続けたいと思っている。僕にとっては、彼らとの友情も今回の交換留学の重要な成果である。

最後にこの機会を作ってくださった先生方にお礼を申し上げます。特に僕に交換留学のスケジュールを立ててくれた月見先生、トーマスハーディ校に付き添って指導してくださった市川先生、立教とトーマスハーディ校の長い道のりを送ってくれた高橋先生には大変お世話になりました。

(高等部1年生 男子)

私は今回ミレースクールとの交換留学に参加しました。1人でホームステイをし、現地校に通う。やる前は本当に不安でした。3学期、私たちの学校にバティーがやってきた時は、いつも立教の生徒が一緒で困ったときは友達や先生を頼ることができました。しかし、今回は1人で英語だけで過ごす時間が多そうで本当に心配でした。私の英語力で通じるだろうか……バディーの家族に失礼なことをしないだろうか……。1人でのホームステイに学期中から悩んでいました。しかし、先生方や 両親の応援もあり、挑戦してみよう、やってみようという気持ちになりホームステイを迎えました。

約一ヶ月ぶりに会ったバディーは変わらず私を迎えてくれて緊張と不安は少し和らぎました。お母様も本当に優しい方でとても安心しました。
次の日、バディーとお母様と一緒にギルフォードのアイススケート場のあるスポーツセンターに行き、その後に街でショッピングをしました。時々道に迷いとても疲れましたが、一気に距離を縮めることができた気がしました。

次の日からミレースクールへ通い、実際に授業を受ける5日間が始まりました。学校へはバスで通っていたバディーですが、実際通学してみると本当に大変でした。家から15分かけて歩いてバス停まで行き、そこからバスで30分。小学生以来の通学に私は興奮と同時に疲労を感じました。こんなにも通学は大変なのだと改めて思いました。ですが、バディーと一緒に通う道は話こそ少ないものの楽しく、かけがいのないものでした。
ミレースクールに着くと、まず人の多さに圧倒されました。私は立教の全寮制の小規模な学校に慣れていたため、1500人ほどいる大きな学校は新鮮でした。休み時間は5分しかないのに移動距離は長く人が多いため、必ず人とぶつかっていました。
カンティーン(食堂)でブレイクとラン チタイムを過ごしましたがかなりの人で席をとるのも一苦労でした。けれど立教とは全く違った形式に私は胸が踊り、心から楽しむことができました。

今回の交換留学は私にとって挑戦でしかありませんでした。英語力の向上、バディーの子との仲の進展……そう思っていましたが、終わって思うことは一つだけです。やってよかった、やることが大事だった、ということです。やる前は不安で辞退することも考えていましたが、交換留学をしてみて、何かを学んだり結果を出すことだけでなく、この交換留学をしたこと、経験そのものが大切なのだと実感しました。私は高校2年生になり学校の中心になっていきます。そんなとき、この挑戦をした自分を誇りに思って頑張っていきたいと思います。

(高等部2年生 女子)

ピーチクパーチクと頼りない鳥の鳴き声を聞きながら、僕は少し早めの昼食を摂っていた。その日に食べたのは、確かうどんだった。近年日本で浸透しはじめた”年明けうどん”というものだ。これに関しては、日本独特のバレンタインデーと同じ類のものだと思っている。女性が想いを抱く男性や仲の良い友人などにチョコレートをプレゼントするという変わったバレンタインを、少なくとも僕は日本以外の国では知らない。つまりは、日本だけで行われている一種の商法だと僕は考える。

僕がその日、口にしていたのは、緑色のカップうどんで、スーパーなどでよく目にするものだ。日本にいたのなら、インスタント麺で所謂”年明けうどん”なる行事は済まさないだろう。(もっとも、この行事自体はあまり知名度のあるものではないが。要するに”年越しそば”をまねて作られたものである。)しかしながら、そう長く日本に留まることができない身としては、カップうどんでも十分にありがたみを感じられる。そうは言っても、僕自身はこの光景に、違和感を感ぜざるを得ない。英国の食卓で、手入れされたばかりの綺麗な庭を見ながらカップうどんを啜り、鳥の声を聞く。まるで間違い探しだ。多くの日本人の英国のイメージはこうではない。

知らず知らずのうちに、日本人は勝手に固定観念をでっち上げる。日本にいる僕の友人に、イタリアの落ち着いたバレンタインについて話をしたところ、友人は最初から話の終わりまで不思議そうな顔をしていた。それもそのはず。多くの人がバレンタインはチョコレートをプレゼントする日と答えるだろう。それが日本人にとってあたり前のことなのだから。このことを英国に住むネイティブの方に聞くと、なんで日本人はそんなことをしているんだ、と大真面目に問われ、返答にとても困った。

違う国の文化を知った時、多くの人は実感が湧かない。見ているものだけが世界、つまりはその人の当たり前になるからだ。英国にはコンビニがない。僕自身も日本にいた時は信じられなかった。想像力が足りないよ、と言われてしまえばそうなのかもしれない。けれど、一度当たり前になってしまったことが間違いだとわかっても信じられないのだ。

もしも英国でカップうどんを啜ることなんてありえないと思う人がいるならば、想像力が足りないよ、などと言ってしまうかもしれない。それが当たり前に思えても、そうじゃなくたって世界は成り立つ。要はなんでもありなのだ。そのことを知るためには、一度自らの当たり前が通じない場所に身を置いてみることが必要なのかもしれない。想像力を縛っているものは間違いなく、”当たり前”だから。

いつだったか、頼りない鳥の声が僕に「想像力が足りないよ」と言っていた気がしたことがある。その鳥は何一つ、行く手を阻むものがないイギリスの広い空へとはばたいて、そしてどこか知らない遠くへ飛んでいった。

(高等部2年生 男子)

私は春休みの初めの一週目にミレーの交換留学に参加した。約1ヶ月ぶりにバディーのエロイスに会ったが相変わらずの美人さんだった。 エロイスの家についたその日は一緒にDVDを見終えたあと、シャワーを浴びたら疲れていたのかすぐに眠ってしまった。

つぎの日は、日曜日で休日だった。私達は海に散歩にいった。散歩で体が冷えた後カフェで飲んだココアは格別に美味しかった。心の底からあたたまった感じがした。その夜、エロイスの一家、いとこ一家、おばあちゃん、おじいちゃんが勢ぞろいして私を出迎えてくれた。いつも聞いている日本語の会話から一転し、英語しか聞こえない。最初は不安しかなかったが、徐々に慣れていきみんなが私に日本に関しての質問を聞いてきた。飛び交うように質問をされ、すこし困惑したが、だれの手も借りずに一人で英語を使って英国人相手に話せてる!という達成感はやはりすごかった。その夜は体力的にも精神的にも疲れたのかすぐ眠りについた。

ミレースクールは日本の学校と変わらず月曜日から学校がある。ミレースクールとはどのような学校なのかワクワクしながら学校にむかった。着いて校舎を見たら、なんだこれ?!と思うほど最新の建物であった。まず校舎への入口は自動ドア、さらに食堂での買い物、コピー機の使用などはすべて指紋認証で行われていた。
私たちがミレースクールで主にやったことは、現地の子に日本語を教えることだ。私はイギリスに住んでいる小さい女の子達が必死に日本語を学んでいる姿をみて驚いた。年齢が大きくなるにつれ、日本語での会話が出来るようになっていった。私はその子たちと日本語でコミュニケーションをとった。さらにその日本語がわからないときは英語でその日本語の意味を伝えたりした。私は日本語、英語どちらも器用に使いこなし頭がパンクしそうだった。さらに英国の子達は、私に日本語を話すときカタコトの日本語なので自分もつられてついついカタコトの日本語で返してしまったという思い出もある。

日本語を教えることのつぎにミレースクールでやったことはシャドウィングだ。シャドウィングとは、バディーの子の授業についていき、いつもどのような授業を受けているのか体験するというものだ。私の場合、シャドウィングは主に数学や科学などが多かった。私のバディーの子は年下で、授業は以前に学校で習ったことのある範囲だったので理解できたが解説の仕方などが日本とは違い驚いた。

今回ミレースクールの授業を受けて日本とイギリスでの授業の様子ではいくつも違う点があったので紹介しようと思う。
一つ目、日本では大半の授業が自分のクラスであり、先生が自分のクラスに来るという仕組みだが、イギリスの学校では生徒達が先生のいる教室に移動するという仕組みだった。そのため休み時間の廊下は移動する生徒で溢れかえっていた。
二つ目、授業中、生徒たちが積極的に発言するということだ。わからないことがあった場合手をあげてその都度質問していた。さらに先生が質問した場合、ちゃんとみんなが答えていた。日本では答えがわかっていても、答えるのが恥ずかしくて答えないひとなどもいるだろう。それと違ってイギリスの学校の生徒たちは自ら積極的に答え、自ら授業に参加するという感じだった。
三つ目は、どうでもよいことかもしれないが、イギリスの学校の生徒は普段ノートを書くときシャーペンなどを使わないことだ。大半の生徒が黒のボールペン、または青のボールペンを使って書いている。さらに1人につき必ず一本マーカーを持っていて、教室に入るときに小さいボードがもらえる。それにパワーポイントで出された問題の答えなどを書いて合図と同時にみんなに見せていた。
やはり日本とイギリスの学校で違うこと、それは授業に取り組む姿勢だと思う。日本人の一部では授業中に寝てしまう人などがいるが、イギリスの学校では一切そういうことがないと聞いた。

ミレーの交換留学、疲れたし辛いこともあったがその分充実していた。英語力も上がり、普段では学ぶことのできないたくさんのことが学べた。自分が掲げている「何事も全力で楽しむ」というモットーも達成できただろう。バディーのエロイス、ミレーの交換留学を一緒にした仲間、ミレーの交換留学のプランを考えてくれた先生方、たくさんの支えてくれた人達に感謝しようと思う。

(高等部1年生 女子)

「こんにちは」
あどけない発音の日本語で、私たちに話しかけてくれるミレーの生徒はたくさんいた。バディーではなくても、学年が離れていても、人種が異なっていても、笑顔で話しかけてくれた。ミレーを訪れ、私はたくさんの思い出を作った。
中でも私にとって一番印象に残っているのは、ボクシングの授業の時だ。私たちはバディーがいない学年と一緒に授業を受けた。私はボクシングを今までしたことがなかったので、ワクワクした気持ちで先生の話を聞いていた。その時私の隣に座っていた子が小声で
「こんにちは」
と日本語で話しかけてくれた。私は誰に言ったか分からなかったけれど、とりあえず
「こんにちは」
と日本語で返した。次に先生が
「日本人とミレーの生 徒でペアになりなさい」
と指示をした。それを聞いて、私の隣に座っていたミレーの子が
「一緒にやろ」
と私に言ってくれた。私はその子とペアになり、一緒にボクシングや縄跳びをした。授業が終わる際に体育の先生が
「みんなで写真を撮ろう」
と言った。みんななんとなく日本人は後ろ、ミレーの生徒は前、という感じに並んだ。さっき私とペアになった子は私の二列前に座っていた。けれどその子はふと後ろを振り返り、私を見て私の隣に来た。嬉しかった。写真撮影が終わり、私は
「じゃあね」
と言って更衣室に入った。その後私が着替えている時に、さっきの子が私のところに来て
「今度電話して。これ私の電話番号」
と言った。私は戸惑った。しかし同時に嬉しかった。私は今 まで日本人以外にこんなことを言われたことがなかった。そのことを父に言うと、
「今度は相手の子のようになれるといいね」
と言った。確かに私は言われて嬉しかった。だから今度は自分がそういう人になろうと思った。

バディーの子とは学校はもちろん、家でもほとんど一緒にいた。一緒にテレビを見たり、ゲームをしたり、お菓子を作った。テレビを見ている時、時々私の英語力ではよく分からない時があった。そんな時、私が質問する前に、バディーの子が
「今言っていること分かった?」
と気を遣ってくれた。そのため、私は家の中でも学校の中でも孤独感はなかった。私はこの子が私のバディーで良かったと思った。
ふと私はバディーにここまでのことをしてあげられたか心配にな った。けれどもバディーの家に行ってバディーの母親から聞いて嬉しかったことがある。それはバディーが立教に来た時の話だ。別れの時お互いに私たちは泣かなかった。しかし私のバディーは家に帰ってから泣いたらしい。私はそれを聞いて嬉しかった。たった一週間で相手に泣いてもらえるくらいの存在になったんだと思ったからである。そう思ったら安心した。

今回のことを通して、自分がされて嬉しいことを進んでできる人間になろうと決心した。けれど、すぐできるものでもないと思う。だから嬉しいことは倍返しするぐらいの気持ちでいく。私はこの交換留学に参加して思ってもみない程の貴重な体験と、思い出を心にしまって飛行機に乗った。

(高等部1年生 女子)

この春休み、私は父の勤めている会社でアルバイトをしました。朝早く起きて会社へ行き、いくつかの雑務をこなして夕方に帰る。そんな生活を二週間、過ごしました。

父が勤めているのは車の部品会社なので、いくつかの工場が隣接しています。アルバイト初日には工場見学もあり、様々な機械がせわしなく動いて部品を加工している様子も見せてくれました。コンピューターが自動で機械をコントロールして、精密にすばやく一つのものを作り上げる。一体どうすればこんなシステムを生み出すことができるのだろうか、と目を輝かせながら見てまわりました。

その途中で、案内してくれている人がふと一つの扉の前で立ち止まりました。そしてこちらを振り返って、顔をしかめながら何かを言ったのです。工場内の音でうまく聞き取ることができませんでしたが、何か良くない事を言ったのだということは伝わってきました。その人が扉を開けると、中からものすごい悪臭がしてきました。聴けば、工場内のゴミを処理する場所だと言うのです。私は一秒でも早くここから出たいと思いました。正直、息もしたくない程でした。

しかし、悪魔はやはりいたのです。私は毎朝、そこの手伝いをしろと命じられました。もうこのまま抜け出して帰ろうかとも思いましたが、命令は命令です。私は重い足どりでその場所へ向かいました。
そこではおじさんが数人働いていました。その内の一人に、何をすればいい?と尋ねました。彼はマイクといい、まっ黒に汚れた作業着を着ていました。そこでの初めての仕事は、工場中にある捨てられたダンボールを回収することとなりました。集めたものはプレス機で一つの塊にして、リサイクルをしやすくするのだと教えられました。そしてこれからは毎日、ダンボールの回収をお前に手伝ってもらうと言われました。

始めの内はまだ、こんな所で働きたくないとか、早く帰りたいとか思っていました。が、毎日マイクの顔や、周りの人達の接し方を見るに連れて、私の考えは変わっていきました。彼は自分の仕事に誇りをもっている。そして様々な人から信頼されている、ということに気付いたのです。普通であれば誰もが嫌がる仕事。ただし、全員のために誰かがやらなければならない。マイク達はそんな仕事を任されていたのです。

私は今までにこういう裏で支えている人達の作文を何枚も書いてきました。しかし、今回の体験でそんな人達の重要性を身をもって感じました。全員が心地よく生活するために、全員が楽しむことができるために、全員が笑うことができるために…。私はその全員のための誰かになりたいと思いました。

(高等部2年生 男子)

クリスマスが終わり、新年を迎える前のなんとなくソワソワした気分のある一日。オランダのデン・ハーグにあるマウリッツハイス美術館へ行きました。この美術館にはフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」という絵があり、たくさんの人がこの絵を見にここへやって来ます。

以前私がアムステルダム日本人学校の校外学習でデン・ハーグを訪れたときには、マウリッツハイス美術館が改修工事のため閉館していたので、「真珠の耳飾りの少女」とは今回が初対面でした。
フェルメールは17世紀オランダの画家で、11人の子供をかかえ、貧しさの中、四十五歳で亡くなっており、生涯で描いた絵画はわずか四十五点です。そのうち現存しているのは三十五点です。彼の絵の特徴は青と黄色の使い方だと言われており、窓から差し込む光を反射して輝く明るさを表現し、「オランダの光の巨匠」とも呼ばれています。
そのフェルメールの代表作の一つが「真珠の耳飾りの少女」です。これは「青いターバンの少女」「北のモナ・リザ」とも呼ばれています。

この絵はかすかに微笑んだ少女の上半身が描かれているだけの作品ですが、少女が頭に巻いているターバンの鮮やかな青色が印象的で、誰かに呼ばれてふりむいたような少女の表情は、見る者を引きつけ、思わず足を止めてしまいます。そしてフェルメールが光の画家と言われているのがわかる耳元の真珠の輝きや、全体を包むやさしい光に目をうばわれます。

「時間があるし、天気もいいから美術館にでも」とふらりとでかけた私でしたが、身近にこんなすばらしい作品があり、気軽に見ることができる環境にいることに初めて気づきました。ヨーロッパにいる間に、いろいろな体験をしたいと思いました。

(高等部2年生 男子)

卒業式の後、交換留学先のトーマス ハーディ スクールまでミニバスで約3時間の距離を送ってもらった。昨年の11月に5人の生徒が日本の学校生活や文化を学びにやって来たが、今回は僕たちが現地校の学校生活や文化を勉強させてもらう目的のために交換留学生として行った。僕は現地校で彼らの授業に参加し、自分の英語力を試したかった。正直に言えば、英語だけの授業や交換留学生としてのプレッシャーでとても緊張していた。

しかしバディに再会した時、彼とご両親が暖かく迎えてくれたので嬉しくてほっとした。バディとは音楽の趣味が合って、彼の家に着くまでの間、車の中で2人で歌いまくっていた。彼らと一緒にステイ期間中も楽しく過ごせると予感できた。僕たちは毎晩テレビドラマを観たり沢山の事を本音で話し合った。もちろんバディとの友情が深まった。ホストファミリーはとても親切に僕をサポートしてくれた。彼のお母さんは毎朝お弁当を作って持たせてくれ、学校まで車で送ってくれた。おかげでステイ中は実家に居るようにリラックスする事ができた。ステイ最後の夕飯はお礼の気持ちを込めて、お寿司を作り家族で楽しく食べた。お父さんは「美味しいよ。」と言ってくれた割にほとんど箸が進んでいなかったが、僕が一生懸命作った気持ちを解ってもらえていると感じた。日本とイギリスには食文化の違いがあることがよく分かった。次回はお父さんにも沢山食べてもらえる日本食を作ってあげたいと思った。バディとの手作り寿司夕食は今回のステイ中の忘れられない思い出になった。

学校では沢山の事を学んだ。僕はバディと一緒にドイツ語や数学、放課後の日本語クラブに参加した。特にドイツ語が面白かった。とにかく会話が全く解らなかった。僕は数の数え方に挑戦した。バディに数え方と挨拶の言葉を習い、暗記した。やっと1,000まで覚えることができた。ドイツ語は発音が英語やフランス語と違っていて面白かった。ヨーロッパの国々は国境を接しているような近隣国同士だが、それぞれの言語が全く違うというのは興味深く、印象深いものだった。体育の授業ではホッケーを経験した。年下の生徒たちと一緒にプレーしたが、とても上手い生徒もいた。僕もワンゴール決められたのですごく楽しかった。

僕は日本と英国の学校生活の違うところをいくつか見つけた。この学校では、授業中に先生と生徒の間の会話がとても多い。ほとんどの生徒は授業中に気が付いたことを確認することができ、満足のいく理解を得るためにはとてもいいやり方だと思った。また、生徒たちには授業の無い時間に自習したり遊んだりできるフリータイムがある。日本の学校では普通、学校の時間帯に自由時間はほとんど無いので、いつも忙しい。僕はバディと一緒にフリータイムには話したり、スナックタイムを楽しんだ。そのお陰で気持ちにも余裕ができたと思う。

水曜日にはドーチェスターへ市長さんに会うために行った。僕たちは市庁舎で歓迎された。ミーティングルームでは18世紀に使われていた伝統的な衣装を身に付けさせてもらった。市長用を着た友人は市長になりきっていて面白かった。とても貴重な体験をさせてもらったと思う。僕は市長さんに政策について質問した。市長さんは若者の人口を増やすため、若者がこの街で生活するための仕事がもっと必要であると説明してくれた。僕はこの政策は良いと思った。しかし、市長の任期はたった1年しかないので、政策を実行するには全く時間が足りない。僕は市長の任期を延長して政策を実行して欲しいと思った。僕は彼を市長として尊敬できると思った。

最後の日、僕はクラスメートが英国文化について説明してくれるという授業を受けた。そこで僕は質疑応答の機会を得た。説明を理解して、質問することはかなり大変だったけれど、僕にとっては英会話実戦のまたとない場となった。自分の英語力を試す良い機会が得られて嬉しかった。この経験で僕の英語力も少しは上がったと思うけれど、まだまだ未熟であることを思い知った。この機会にトーマスハーディ校の先生や生徒たちから学んだことを忘れないで、皆さんに深く感謝し、もっと頑張って英語力を伸ばしたい。

最後にバディとジムでお世話になった友人と一緒に写真を撮った。彼らはいろんな時に親切に助けてくれて、すっかり仲良くなれた。また会えるだろうか?僕はメールやフェイスブックで連絡を取り続けたいと思っている。僕にとっては、彼らとの友情も今回の交換留学の重要な成果である。

最後にこの機会を作ってくださった先生方にお礼を申し上げます。特に僕に交換留学のスケジュールを立ててくれた月見先生、トーマスハーディ校に付き添って指導してくださった市川先生、立教とトーマスハーディ校の長い道のりを送ってくれた高橋先生には大変お世話になりました。

(高等部1年生 男子)

私は高2の1学期のハーフターム後からこの立教英国学院に入って、初めて寮生活が始まった。私は中途半端な時期に入ったから、同じタイミングに入った生徒もいなくて、始めは不安だったり、ドミトリーでなぜ知らない子と同じ部屋で寝ているのだろうと思ったこともあった。
しかし食事の席やフライデースポーツなど、今までいた日本の学校とは異なって、他学年とのかかわりも多く、全校生徒の顔と名前が覚えられるというような、さまざまな面がわかった。
そして、寮生活だとずっと友達と一緒にいるので、家族のように、もっともっと仲良くなれるし、後輩や先輩と部活動などで学年関係なく仲良くなれる。それから先生とも。
長い休暇が来る前には、「家に帰れるのはうれしいけれど、もうちょっとみんなといたい。」と思ってしまう。立教寮生活の魔法にかけられたのかもしれない。

(高等部2年生 女子)

少し肌寒いながらも晴天に恵まれた三月七日、本年度の卒業式が行なわれまました。43名の高校三年生が本学院を旅立ちました。今回で二度目の卒業式礼拝の司式をさせて頂きましたが、その中で印象に残ったのは本学院理事である今井理事(伊藤忠欧州会社社長)の祝辞でした。学生時代にフランス留学をし、長年、仕事を通して世界中を旅し、現在はロンドンを拠点にして仕事しておられる今井理事は、今でも海外での生活における苦しみや日本への望郷の念があるという体験を語りながら、今の苦しみの先にある喜びについて語って下さいました。

遠藤周作の「留学」という三本の短篇が収められた小説があります。カトリック教徒の遠藤氏自身のフランス留学体験が反映されているようですが、理想や希望を胸に抱いて、ヨーロッパに留学した三人の日本人が、言葉の壁、文化・慣習の違いからくる葛藤、その他様々なことに直面し、理想と現実の狭間で苦しみ、挫折していく姿が描かれています。海外で生活する機会を通して何度かこの小説を読み、自分の体験と重ね合わせていました。

私はこれまでに二度留学の機会を頂きました。一度目は大学二年の頃の米国短期留学、二度目は七年前の英国留学です。最初の留学は大学での前期の単位取得のためでしたが、日本からの同級生も多く、さほど寂しさや苦しさを感じることはありませんでした。しかし、二度目の英国留学は聖職志願し、司祭(牧師)になるための準備としての英国留学でした。歴史のある修道会によって創設されたアカデミックな神学校でしたが、周りは英国人ばかりで日本人は自分だけの修道院内にある寮生活、厳しい規律と学問生活は挫折の連続でした。神学用語の嵐に翻弄される日々であり、食事の席でも授業の続きで盛り上がる神学生達の英語やその他、彼らの話すジョークもわからず、溜息を漏らす日々でありました。最初の学期に「はっきり言って、今のあなたにはここでの学問は無理だ」と言われたことは今でも覚えています。留学前に聞いた色々な留学生の成功談とはまったくかけ離れた自分がそこにいて、自分のこの英国での時間は何なのだろうか、意味があるのだろうか、と思い悩みました。日本が恋しいと毎日思っていました。海外に憧れる日本人から見れば、英国留学をする、英国で生活することは、非常に恵まれているように映るでしょう。しかし、留学後、しばらくの間は敗北感しか残っていませんでした。

しかし、今となっては、自分は何に対して敗北感を感じていたのだろうか、と思います。勉強すること、学ぶこととは、自分自身を研鑽させていくためであり、他の人と比べるためではない。親のためでもない。他者の期待に答えるためでもない。これまでの自分から新しい自分に変えられて成熟していくためであり、敗北感を感じる必要など全くない、そう思うようになりました。
自分の挫折を通して自分自身を知りました。自分の脆さや弱さを知りました。素直にありのままの自分を認めて、背伸びして生きることから自由になる機会を得ました。苦しみや挫折の中身は異なっても、それによって失望している人の思いを知ることができるようになりました。また、絶えず学び続けることの大切さを知りました。留学中に読んでいた本を開くと単語の意味の書き込みで真っ黒だらけになっている。でも、今、改めて読みながら知っている単語を消しゴムで消していくとどんどん白くなる。他の人にとっては大したレベルではないかもしれない。だけど、以前よりも少しずつ知っている単語が増えてきている。自分のペースで焦らずにコツコツと学んでいけばいい、そう思えるようになりました。学習は生涯をかけてするものであり、学院の生徒達も今の結果、成績に一喜一憂せず、目的を持って学び続けて欲しいと思います。わたしたちの人生はいつ、どこで本当の花が咲くかはわからないからです。

教会のカレンダーでは今の時期はレント(大斎節)という時期です。十字架の道行きの前に苦悩するイエス・キリストに目を留めます。また、十字架の死によって、イエスという大切な存在を失い、これまでの人生は何だったのだろうかと挫折し、苦悩する弟子たちの姿に目を留めます。そして、その先にあったキリストの復活の恵みを祝い、その恵みに喜ぶ弟子達の姿に目を向けます。

レント(Lent)とはアングロサクソン語の「レンクテン(lencten)」という語から派生したものと言われていますが、その意味は「春」であり、「(草花の芽が)伸びる」という語と同じ語根を持つそうです。わたしたちが体験する様々な苦しみ、挫折の中でも神様は恵みの水、光を注いでいる。人生の中にある苦しみ、挫折には隠された意味があり、苦しみや挫折を通して豊かにされ、成長し、その先にある喜びに与れることを聖書は伝えてくれます。

皆様の上に神様の豊かな恵みと慈しみが注がれますようにお祈りしております。
チャプレン 司祭 林 和広

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