「球技大会…。」その言葉の「球技」に反応してしまうほど、他の人より球技に自信のない私。今年は高3のもとでゆっくりと私の持てる力でチームに貢献しよう、そう考えポートボールを希望した。
しかし、そこには高3は誰一人いなかった。高2もまさかの、私を含めて2人だけ。私達はそれぞれのチームのキャプテンに「必然的」に選ばれた。

「どうしよう…。」
この5文字が私の体中を駆け巡った。実は去年、体調不良で球技大会に参加できなかった。実質今年が初めての球技大会。何も分からない。「どうしよう」の波は次第に大きくなってますます私を球技大会嫌いにした。まだ1度も経験していないと言うのに。

そんな不安に今にも打ちのめされそうな状態で「私なんかが…」と申し訳なさと共にメンバーの顔合わせをした。もちろん全て後輩。小学生もいる。そこでいきなり彼女達は、
「何か手伝う事があったら言ってください!」
と私に言ってくれた。中には4年目の大ベテランもいて、初歩的なルールから分かりやすく教えてくれた。
その時私の心に火がついた。この子たちに喜んでもらえる球技大会にしよう!Tシャツ作りも高3には劣ってしまうけど、あるもので精一杯頑張ろう!楽しもう!ーそう思った。

他の競技よりスタートダッシュは遅れてしまったけれど、加速は凄かった。練習を重ねていくうちに運動が大嫌いだった子も、その子が一番輝く特技を見つけ、みんなのやる気もどんどん高まっていった。

ある日の練習後。疲れ果て、グランドに寝転がり、キレイな夕日だね…と言っていたら、
「勝ちたいな。」
そうつぶやいた子がいた。その一言を皮切りに練習の合間合間で「勝ちたい!」「勝とうね!」と聞こえるようになり、チームの結束も強くなっていった。

少ない時間と材料で一生懸命仕上げた暖かみのあるチームTシャツに身を包み、限りある時間で精一杯練習しきった笑顔で本番を迎えた。全員が持てる力を出し切り、一人一人が「私だってやれば出来る!」と自信を持ってプレーした。結果は引き分けだったけど、大切なことはそれだけではなかった。初めは乗り気な子が少なかったこのチームが、ここまで本気になってこんなに達成感に溢れている。そして口々に「楽しかった。」そう言ってくれた。それだけで十分だった。
「キャプテンありがとう。」
その一言で、今までの迷いと苦労はどこかへ行ってしまった。嬉しかった。キャプテンをやって良かった。

真剣に取り組めば、答えてくれる人がいる。そんな環境にいることができるということに改めて感謝の気持ちが湧いた。

(高等部2年生 女子)

基本的に人は意欲のない物事を行う時、どうしてもその速度は落ちてしまう。これまでの人生において、例外には未だ出会っていない。しかしその状態は、まるで考えつくされたかのように、意志とは裏腹に、たびたび僕に襲いかかるのだ。意志、という言葉には少し語弊があるかもしれない。その時点での意志は確実にその物事を拒絶しているが、ここでの意志とは、その時点より前の意志なのだ。

このような自分の中での、立志への逃避行はこれまで様々な形で僕の前に立ちはだかってきた。ないものねだりという言葉にまとめる事さえ可能なこの現象は、例を挙げるとするならば、一つの学期において起こりやすい。部活動が行えて、試合があって、まるで、今は部活動に専念しろと言わんばかりの状況下では、どうしてか勉強への意欲が湧いてくる。これならまだ良いが、ないものねだりと表したように、この現象には相互関係が存在する。

期末考査直前のある日、気がつくとふだんは面倒臭がる部屋掃除をしていた、ということはないだろうか。これはあくまで極端な例ではあるが、いざ勉強をせねばならない時に、他の行動への意欲が湧いてしまうことはきっと誰でもあるだろう。そして期末考査が終わり、返却されたテストを見て、何故だか勉強がしたくなるのも、この現象の一部であることは間違いない。

極々一般的ともいえる一連の感情の移行をわざわざ自分の中で勘考したのは、無論自分がこの「魔物」を取り払いたかったからである。高校二年へと進級して、これからは勉強に更に力を入れる、と心の中で高らかに宣誓した矢先にそれに襲われた僕には、憎くて仕方がない敵であった。まだ春休みではあったが、意気込みは完膚無きまでに潰されて、これまでと同様に、長期休暇をただぼんやりと過ごしてしまったのである。これから少しずつ現実味を増してくる大学受験を前に、まず争うべきは全国の受験生ではなく、この自分の中の魔物なのかもしれない。

(高等部2年生 男子)

私はこの春休み、自分が生まれ育った街について考えてみた。

私の住む広島県福山市という所は、瀬戸内海の中央部に位置し、年間を通じて非常に住みやすい気候にも恵まれている所だ。そして緑も多く、ハッキリ言って田舎だ。

その南部に位置する「鞆の浦」は風情残る城下町で、「日本で最も癒される港町」とも称され、宮崎駿監督の映画「崖の上のポニョ」の舞台にもなっている。映画の中では江戸情緒たっぷりの町並みや風景が鮮明に描かれていた。ここは、380年続く伝統行事「鯛網漁」も行われ、今では全国各地から観光客が集まる名所となった。瀬戸内海で獲れる魚は本当においしく、週末には朝市が開かれ大量の魚がとれたてのまま並んだり、テントの下や路地で魚を捌く姿が見られ、焼いたり煮たりする匂いが漂っている。私も朝早く起きて家族で新鮮な魚を買いに行ったものだ。

幕末に坂本龍馬指揮の舟が「鞆の浦」沖で紀州藩の軍船と衝突、沈没した事件「いろは丸事件」に関わる史跡も多く残っている。それだけではない。室町時代には、将軍・足利義昭が拠点を鞆の浦に移したり、江戸時代に朝鮮通信使が度々寄港し、福禅寺から眺めた風景を「日東第一形勝」と賞賛した。

そして街のシンボルでもある「薔薇」だ。1945年、広島原爆投下後の8月8日、ここ福山も空襲に遭い市街地の約八割を焼失した。荒廃した街の復興を願い、人々の心に安らぎを取り戻そうと、住人の植えた一本の薔薇苗が今では七十七万本となって、街中の至る所に凜と美しく咲いている。

当時を思うと育てるのは大変だったろう。しかし、その花が人と人とをつなぎ、街や人々の心に自信と安らぎを与えてきたのではないかとも思う。

クリスマス前になると、ボランティア活動の一環として千個の折り薔薇を使った「祈りのばらツリー」製作に参加していた。これもまた、市民が考えた幸せを願う祈りのプロジェクトだ。

私は学校に居て見ることはできないが、今年の5月も薔薇の花が咲き誇ることだろう。一本の薔薇から始まった美しい花々を思いだしながら、今年もそっと祈りを捧げたい。

(高等部2年生 女子)

初の乗馬は入学したその週の金曜日に始まった。
イースター直前だったこの日は、ちょっと乗ってみて、まず馬に慣れるようにする。初めは乗り降りひとつひとつがコワゴワだった。
それからの2回のレッスンは雨だったから、屋内の馬場での練習になった。

まずは歩くことから。
馬がポクポク歩くと、背で体がゆれる。
まっすぐ歩くこと、まっすぐ歩かせることは意外にカンタンじゃない。意識しないうちに手綱を曲がって持っていて、馬がどんどん左や右に寄っていってしまったり、ポクポクあるく馬のリズムに合わせてやらないと、荷物(乗っている人のことだ)の揺れが居心地わるくて、止まってしまう。
「Heels Down!」 靴のかかとを下げるよう、インストラクターのおばさんの声が飛ぶ。鐙をしっかり張って、靴のかかとを下げていないと、鐙から足が外れて危ないのだ。この英語は真っ先に覚えてしまう。

「言うことをきかなーい」
見ていると、馬に少しからかわれて戸惑っていたりもする。首を左右に振ったり、前にかたむけたり。
馬は生きものだから、たとえば、自転車のようにはゆかない。乗り手は馬に誠実に、友好的に、そしてシッカリ騎手としてイゲンも示さねばならない。
難しい!
「Tap、Tap!」 おばさんが教えてくれる。
ちゃんとできたら、馬の首筋をたたいてねぎらってあげるのだ。コミュニケーションが大切。

「傘をさしちゃダメよ」 雨の日、馬たちがこわがってしまった。
こうして少しずつ、馬のことも英語の言葉も知ってゆく。

地道な屋内練習のあと、真っ青に晴れた日に外に出て馬と散歩した。久しぶりに晴れた金曜日だった。春のあたたかさ、さわやかさ、新緑が気持ちいい。遠くのマスタードの、レモンイエローに広がる畑もみえた。ちょっとTrotも出来るようになってきた。

来週も晴れるかな?

一方、生鮮の野菜や果物の調査班。
調べたものは…
■みかん&オレンジ        ■トマト
■ぶどう             ■ねぎ
■りんご             ■じゃがいも
□バナナ
など。
日本だと、■は青森や山梨、静岡、埼玉など国産品が多いけれど、□のバナナはフィリピンからの輸入品、と行きの車の中で、すでに教養として入っていた知識を再学習。
で、改めてイギリスの野菜・トマトを見てみると…

意外に輸入品ばかりなのだ。

◇みかんもオレンジもスペインから輸入
◇ぶどうは南アフリカ共和国から輸入
◇バナナはブラジルなど南米から輸入
◇トマトはスペイン、ポルトガル、イタリアなどから輸入
◇ねぎはなんと、エジプトとセネガルから輸入
(思わずセネガルってどこだっけ?と考えてシマッタ)

対して国産品は、りんごやじゃがいも。

面白かったのは、買いやすい価格のりんごはイギリス産ばかりだけれども、
ちょっと「質のいいもの」はフランス産。(えっ!国産品じゃないのか!)
トマトはほとんどスペイン産だけれども
「TASTE THE DIFFERENCE」や「オーガニック」で質や味の良さを売りにするトマトは
ポルトガルかイタリア産。
へぇぇぇ、面白いな。

帰って来てから、KJ法で特徴や理由を学習。
『全体的に輸入品多いんだねえ』
『りんごは日本でも青森でつくるじゃない。涼しい気候でもオッケーだから、イギリスは国産品が多いのかもね』
「日本だとバナナはフィリピン。場所が変わると、近い地域から輸入するのね。なぜだと思う?」
『遠いと運ぶお金がかかりすぎるから?』
「野菜は露地栽培も温室栽培もあるけど、温室栽培がけっこう多いよね。」
『イギリスは全体的に涼しい気候だし、夏・冬で日照時間の差も大きいから、温室栽培って大丈夫なのかな』
いろいろと勉強になります。

他の野菜・果物も調べてみたところ、
どちらもイギリスはスペインからの輸入が多い傾向がありました。
スペインは農産物の生産も輸出も大掛かりな国なのかもしれない。

今度から、夕食のデザートの果物。よく見ると面白いかもしれません。
生徒諸君はいつも、果物についているシールをこっそり誰かに貼って遊ぶけれども、
次はシールをはがして集めてみると?
果物がどこからやってくるようになっているか、「おっ!」と思う発見があるに違いないでしょう。

去年、中2で行った価格調査ワーク。
今年は経済テーマをそのままに、路線をちょっと変えてスーパーマーケットで商品調査をしました。
テーマはずばり
コーラはいくらの商品か?

イギリスの生鮮の野菜・果物はどこからやってくるの?
です。

英国のスーパーでコーラの売り方をよくよく観察すると…?
◇冷蔵品で売っているのは、
ペットボトル500mℓ型だけ。
しかも1本ずつの個別売り。
◇常温で売っているのは
2ℓの大型ペットボトル。
…もあるけれど、
300mℓくらいの小型缶か、小型ペットボトル。必ず6本以上のまとめ売り。
◆冷蔵品はℓ当たり高め。
◆常温売りはℓ当たり安く買える。
ふ~ん、なぜ?
ここが今回の考察のテーマ。

よくよく観察すると、常温売りはスーパーの奥に陳列。
冷蔵500mℓは、スーパーの入口で販売。
近くに小型のチップスやサンドイッチも売っている。
「あっ、そうか。すぐ食べるからちょっとでいい、のがここの売り方。」
ということは常温販売のコーラが、量や数で一度にたくさん買う型になっているのは
「買う目的が違うってこと?」
「すぐ飲まないし、家で飲むんだったら多い方がいいし、そのぶん安いってこと?」
云々。
同じコーラでも量の違い、売り方の違い、スーパーの商品の置き方、
を学習しました。

全校生徒の視線がある一枚の紙に向けられる中、「ビリッ」と音をたててめくられた一枚の紙の裏にあった数字。それを見て、全員が真剣な表情から笑顔になった球技大会の閉会式。そう、それは誰も想像していなかった結果、同点だったのです。

昨年は優勝の組が決まった瞬間、嬉しさのあまり、とても大きい声で同じ仲間と共に喜びあっている先輩の姿もみられました。もちろん優勝したチームがあるのなら負けてしまったチームもあります。それでも、

「皆、がんばってたよ。楽しく試合が出来て良かった。次は勝てるよ。」

などと、周りの後輩をはげましている先輩がいました。私はその先輩の姿がいまだに印象に残っています。

なぜそんなに印象に残ったかというと、それは、「次がある」と、先輩が言った一言でした。優勝したチームは、次もがんばろうと言って翌年の球技大会をやると思いますが、負けてしまったチームは、負けてしまったから次はがんばって優勝しようと、「次がある」という一言で次へのやる気がどんどん増えていきます。もちろん次も絶対に勝つと思う人もいると思いますが、自分のチームが負けても前向きに次がんばろうね、と言える先輩はとてもかっこよくて、そんな先輩がいてくれたからこそ、昨年負けてしまったチームも今回はがんばろうと思え、この同点という結果になったのだと思います。

高校生から小学生までが、ある自分が決めた種目に仲間のためにも自分のためにもがんばろうと思える球技大会は、立教でしかあじわえないとても良いイベントだと感じました。

(中学部1年生 女子)

僕は2年前に日本を離れた。イギリスでの生活が、気付けば2年目も終わり、3年目へと突入した。2年で日本へ帰国する予定だった。しかし、何も起こらない。もし日本へと帰国するなら、年度末にはその旨が伝えられるはず。だが、僕の日常に変化はなかった。これから何が起こるのか、予想すらできない。だから、普通に過ごしていられる春休みは、これが最後かもしれない。そう思い、しばらく見られなくなる近所の町を散歩した。

この時僕は油断していた。日本人ならば、春になると”あれ”の話題が少なからず会話やニュースの中で取り上げられる。けれども僕は、完全にその存在を忘れていた。

「くしゃーん」

人通りの多い商店街の中で、僕は大きなくしゃみを、それも故意に発したとしか思えないくらいふざけたくしゃみをした。まわりにいた人たちが一斉にこちらを向いた。優しそうなおじいさんが、”Bless you” と声をかけてくれたが、続けて襲ってきた鼻のむず痒さにお礼も言えず、2度目のくしゃみをした。僕はこの苦しさが何なのかを、この時になってやっと思い出した。実に2年ぶりの、花粉症だった。

思えば、日本にいたときに在学していた中学は、山の中にあった。そしてすぐそばには、おびただしい数の杉の木があったのだ。日本で最も多い、杉花粉アレルギーの方ならお分かりだろう。そう、僕は毎日通っていたのだ、無限花粉生産包囲網の中に。しかもこれが産地直送だから、もう通常の3倍くらいの量が一度に襲ってくるのである。

英国において、杉の花粉による花粉症はそれほど多くないらしい。しかし花粉症なのは間違いない。すなわち、原因不明なのである。正体不明の花粉は、僕への不意打を図らずも大成功させ、鼻をつまらせたあげく、のど風邪へと至らしめた。数日したら、くしゃみがせきに変わっていたとは、何とも皮肉な話だ。

こうして新年度に入る直前に、見事なまでにこれからの道のりの危険さを教えられたのだった。今回の件で、今年の目標が一つ決まった。地雷を避けるように、慎重に進む。そして、この荒野を無事生きて抜けることだ。

(高等部2年生 男子)

小学1年生から中学3年生まで、僕はずっと野球をやってきた。高校・大学でも野球を続けるつもりでいたし、それしかないとずっと思っていた。だが人生はそう予想通りにはいかない。僕は今イギリスの学校に通い、中学3年生の秋からサッカーを始め、3年の月日が流れ、高校生活最後の試合、そのピッチ上に立っている。全て3年前の自分が予想だにしなかったことだ。事の発端は、この立教英国学院に来たときまでさかのぼる。

どの部活に入ろうか。イギリスに来たばかりの僕の一番の悩みはこれだった。野球がないし、他に得意なスポーツもない。まるで闇の中に突然放り込まれたような気分だった。そんな僕を先輩が誘ってくれたのと、同学年にサッカー部が2人いたという理由で僕はサッカー部に入部した。この選択は、僕のイギリス生活を大きく変えていった。

初心者の僕はもちろんチームで一番下手だった。それでも下手は下手なりに練習に食らいついていった。野球を始めたばかりの頃以来の経験だった。そして、チームにゴールキーパーがいないのと、キーパーっぽい体格をしているという二つの理由から僕はゴールキーパーという重要な役割を任された。日々の練習は上手くいかなくて、つらくて、苦しかった。それでも良いプレーができたときに仲間の笑顔が見られたから、自分の中で何とも変えることのできない達成感があったから、僕はサッカーを続けてこれた。

そして、僕は最後の試合を迎えた。高校生活最後の試合は、勝って笑顔で終えたかった。だからこそ、いつもの倍以上に緊張して足が震えていた。今までの自分を全て出そうと意気込み、試合開始のホイッスルが鳴った。2点リードで前半を折り返し、後半。相手にフリーキックが与えられた。ゴールに向かって弧を描いたボールは僕の手に吸い込まれた、と思った。ボールが手から弾かれたと感じたときにはもう、相手がゴールにボールを押し込んでいた。自分のミスだと地面を見つめたその時、
「気にすんな!ここからだろ。切り換えていこうぜ!」
という仲間の声が聞こえた。その声のおかげで僕は冷静になれた。絶対に後悔したくなかったからその後も全力で声を出し、一生懸命にプレーした。そして僕らは、3対1というスコアで勝つことができた。

自分の想像していた未来とは全く違うけれど、僕はこの3年間を後悔していない。自分が今までやったことのないスポーツを高校生活の中でやり遂げたということ、これ以上はない仲間たちとの最後の試合を勝利で飾れたということ、サッカーを全力で楽しめたということは、僕にとって最高の宝物となった。そして最後に、今まで一緒にサッカーをやってきた仲間に僕は心からの「ありがとう」を伝えたい。

(高等部2年生 男子)

私が立教英国学院のことを知り、入学をしたいと思ったのは1月です。そのことは、二次試験に合格するまでは、誰にも伝えませんでした。

立教から合格通知が来たと母に知らされたときは、とても嬉しかったです。しかし、今の生活が一転するという不安や、大好きな友達、家族と二年間遠く離れて暮らすという寂しさもありました。

それから数日後、私は今までお世話になった方々、クラスや部活動の仲間に伝えました。伝えたときは本当に行くんだと実感が沸いてきて、とても悲しかったです。クラスのみんなに伝える時は涙が流れました。けれども、その私と一緒に泣いて、さびしいけど頑張ってね、と伝えてくれるみんなが私を囲んでくれました。部活のメンバーもとてもショックを受けた様子でした。それから、頑張ってね、と拍手をしてくれました。そんな素晴らしい人たちと別れるのは本当に辛いです。そのことを考えると目に涙がたまります。しかしみんな、頑張れと強く背中を押してくれました。

小学校三年生から続けてきたソフトテニスも地区の室内大会で辞めました。中学生のときからのペアと楽しく最後までプレーができました。だから切り替えをしたいです。

私は今、悲しい気持ちもあるけれど、ホームページを何回も見て期待や希望を持っています。商業高校に通っていたし、二年生からだから少し遅れていると思います。けれども早く遅れを取り戻したいです。勉強もだけれど、クラブ、寮生活を通して規則正しい生活をして、社会での規律を沢山学びたいです。それと、もうすでに分かったけれど、自分の周りの人の優しさや大切さも学びたいです。

そして、こんな機会を作ってくれた両親と、日本に残って暮らす祖母や兄にも感謝の気持ちを持って二年間を有意義に過ごしたいと思います。

生活の中で自分のことは自分でするだけでなく、周りの人や妹のことにも少し気を配って生活できるようになりたいです。

(高等部2年生 女子)

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