「桐壺」「夕顔」「若紫」「葵」「夕霧」「浮舟」の5つの座に別れ、クラス対抗で行われた今回のかるた大会。今年は全部で3回戦が行われ、全校生徒が一人一回ずつの出場。下は小学5年生から上は高校2年生まで、年齢関係なく真剣な勝負を行う。

誰もが真剣な顔で、読み手の先生の百人一首に耳を傾ける。札が取れれば歓喜の声が各座からあがる。札を取る際に、勢いよく「はいっ!」と声があがると、彼らの勢いのよさに周囲から笑みがこぼれ、会場が和やかな雰囲気に包まれる。

読み手の先生が全40枚の札を読み終えると、審判の先生に自分が獲得した枚数を申告する。結果をきいて「やっぱり!」「そんなにとったの?」「悔しい」と様々な声があがる。

高校2年生にとっては最後のかるた大会、今回まったく取れなかった下級生は来年、再チャレンジ。それぞれの思いが詰まったかるた大会だった。

ついにこの日が来た。目を覚ますなり僕はとんでもない興奮に襲われた。4年に1度、小学校の時に6年間ずっと一緒にプレーをしてきた仲間達と又サッカーが一緒に出来るという素直な興奮やよろこびに浸っていた。

いざみんなと会ってみると、僕の興奮はMAXに達した。4年ぶりに会う人もいれば、1年ぶり、半年ぶりの人もいた。面影のある人もいれば、誰だこいつ?という人もいた。身長も伸びてすっかり大人っぽくなっている人もいれば、まだまだ子供っぽい人もいた。僕もまだまだ子供っぽい方だと思った。
でもひとつだけ変わっていない所があった。それは、このチームならではのバカげた所と、仲間のことを本気で思いやる気持ち、心配する気持ち、そういうみんなで6年かけて築いた「絆」は何一つ変わっていなかった。それがすごく懐かしくて、とても嬉しかった。正直涙が目にたまるのが分かった。
その後はみんなでホテルのバイキングに行き、どうでもいい話や冗談を言ってバカ騒ぎして、すごく楽しい時を過ごした。夜は4人ずつ4部屋に分かれて一晩中みんなで語り合った。

次の日はいよいよみんなが待ちに待ったフットサル大会当日。みんなの顔がキリッと引き締まった。ものすごい緊張感が漂った。全部で4チームに分かれて総当たり戦。いよいよチーム分けが発表された。みんなそのチームで優勝しようという意思が伝わってきた。
キックオフ、先制ゴールを上げたのは僕のシュートだった。僕はそのとき感じた。どんなに離れ離れでも、何年経ってもチームワークは全然昔と変わらない、そう感じた。それと同時に、ただただサッカーを心から楽しんでやっていた頃の自分を思い出した。学年が上がるにつれてサッカーを楽しむという気持ちは徐々に消えていった。でも、やっぱりそんなサッカーよりも、心から楽しんでやった方が良いプレーが出来ることに気づいた。

結果、僕のチームは3試合とも全ての試合に勝ち見事に優勝することが出来た。しかも僕は得点王とMVPの両方をもらうことができた。
僕は今でもその時の嬉しさを覚えている。
今でも僕たちはずっと心がつながってしっかりとした絆が、強い絆がある。そう思った。
次は又4年後。

(高等部1年生 男子)

クリスマス。それは家族全員でクリスマスツリーの前に集まって、主イエス・キリストの誕生を祝う、愛と幸せに溢れている、ドイツでは大切なイベントです。そんな聖なる夜の心が温かくなる話をこの冬休みにひとつ聞き、とても感動しました。

その話は1914年の出来事でした。1914年と言えば、7月にオーストリアの皇位継承者がセルビア人に暗殺されたことによって、第一次世界大戦が勃発した年です。今では「第一次世界大戦」と聞けば、とても残酷で恐ろしい印象がありますが、当時戦争が始まって、ロシアとフランス、また、フランスのサポートをしているイギリスに宣戦布告したドイツは、戦争があんなに醜いことになるとは夢にも想像していませんでした。誰もがすぐ終わる戦争だと思っていて、戦場に向かう男性は「クリスマスにはまた帰ってくるから。」と笑顔で別れを告げていました。
そんなドイツはロシアには見事勝ちましたが、一番勝ちたい相手でポイントとなるフランスとイギリスには勝利を収めることが出来ず、負ける前に撤退し、結果を出せないままクリスマスを迎えることになってしまいました。

本当は家族で温かい家でプレゼント交換をするはずだったクリスマスを兵士達は寒くて汚い戦場で送っていました。キリスト教を信じているドイツ、イギリス、フランスはクリスマスの間休戦することにしました。その時、30カ所以上で、不思議であると同時に素敵なことが起きました。その内のひとつの所では、ドイツが「サイレント・ナイト」を歌っていたら敵の方から拍手が聞こえてきて、イギリス人も歌うようになりました。お互い「メリークリスマス!」と伝えるようになり、ロウソクをいっぱい立てたと言われています。そして、兵士達が隠れ場から出て行き、戦場の真ん中に向かいました。敵と会い、一緒にタバコを吸って、楽しく話していたと色々な日記でこの頃の記憶が残されています。当時のイギリスとドイツの兵士が仲良く隣に立っている写真も実際に残っています。そんな平和な日々が1月まで続いていたという話もあります。

私がこの話を聞いて感動した理由は、これによって本当は戦争なんかしたくないという兵士の気持ちが伝わってくるからです。軍の指揮官に人を殺せと言われているからやっているだけで、自分の意志ではなくて、一回平和の日々が続いたら、もう戦争を始めたくないという人間性が感じられるからです。
第一次世界大戦で唯一人間は悪者ではないと思える瞬間でした。残念ながら、こういう出来事はそれ以上戦争では一回も起きませんでした。

1914年のクリスマスは、人間が人間らしく戻れた素敵な日だと思いました。

(高等部1年生 女子)


ニューヨークの中心には、人、車、物があふれかえっていた。高層ビルは絶え間なく続き、ビルとビルの隙間により出来たとしか思えない道路には、老若男女、様々な人種の人々が行き交っていた。ヨーロッパ系、アフリカ系、ヒスパニック、アジア系… そして多くの人が共通語として英語を話していた。

私がニューヨークで印象づけられたのが、彼らがそれぞれ人種ごとに別々のエリアに住みわけて暮らしている事である。
例えば2日目、私達は中華を食べに行こうと中華街に行った。地下鉄で数駅と、それ程離れてはいなかった。しかし、駅から地上に出ると、そこは中国であった。まず見えたのは、あの有名なハンバーガーショップのマーク。その下の文章は全て中国語で書かれていた。携帯電話の広告も中国語、シティーバンクも中国語。遠方に見えるワン・ワールドトレードセンター(ワールドトレードセンターの跡地付近に建てられたビル)が唯一、アメリカに自分がいる事の目印に思えてきた。そして、この中華街がどこまでも続く。本当に一つの「街」なのであった。そして突然ある通りを境に中華街は一大金融中心地、ウォール街へ移り、中国語も突如姿を消す。さらには4日目に行ったやや外れにあるスペイン人街はそこへ向かう地下鉄の広告までスペイン語で、英語は書いていなかった。他にもリトル・イタリアやコリアンタウン、日本人街など、様々な個性あふれるエリアがニューヨークにはたくさんある。この国が、人種のるつぼであると実感する事ができた。

今まで住んできた国は単一民族の国ばかりであった。しかしアメリカはそれらの国々とは正反対だった。多民族が広い国土に住み、純粋なアメリカ人なしで建国し、これまで200年以上の間成長してきた。たくさんの人々が、アメリカという国を作る流れを作り、私はこの中に生まれた。
私はアメリカ国籍を選択する気はない。だが、このような環境で生まれ、その後様々な地域で暮らしてきた事はアドバンテージとなる。国際人になるためのバネになるはずだ。バネを上手に活用し、「真の国際人」になりたい。

(高等部1年生 男子)

ぼくの、この長い冬休みはとても充実した休みでした。その中で、ぼくのこの休みで一番の思い出となったことは、旅行へ行ったことです。

冬休み中の一週間程を使い、ドイツとベルギーへ行きました。ドイツのボンでは、ベートーベンが最後に使っていたピアノやバイオリン、遺言書、髪の毛や、デスマスクなどを見たり、ドイツから特急電車で行ったベルギーのブリュッセルでは、クリスマスマーケットへ行ったりして、初めての物を見る事ができてとても楽しかったです。

特にぼくの心に残ったのは、ドイツのケルンにある世界遺産のケルン大聖堂です。その大聖堂は、ゴシック様式の建築物としては世界最大であり、高さ150メートル、奥行き144メートル、幅86メートルもあり、ものすごい迫力です。入り口に入ると、高さ43.5メートルの身廊の広さに驚き、更に前へ進むと、大聖堂の壁のいたる所に色鮮やかなステンドグラスがあり、ガラスに光が反射してとてもきれいでした。通路の中心には東方の三博士(イエスの誕生時にやってきて拝んだとされている人物)の頭蓋骨が入っているらしいです。遠くから見た時は、巨大な塊にしか見えなかったけれど、棺と知った時は驚きました。その後近くで見ても棺には見えないほど豪華な金の箱でした。

大聖堂の中はとても広く、大きなクリスマスツリーがとても小さく見えました。今までに数え切れない程の大聖堂へ行きましたが、こんなに美しい大聖堂は初めて見ました。

次に心に残ったのがドイツのソーセージです。ドイツでもベルギーでもクリスマスマーケットへ行ったところ、どこのマーケットでもソーセージがあり、すごくおいしかったです。ドイツのソーセージがおいしいというのは聞いた事があったけれども、ここまでおいしいとは思っていなかったです。実際に食べてみて、イギリスのよりジューシーで食感も良く最高でした。

ぼくは、この休みに色々と新しい事を知りました。ベルギーのワッフル、チョコレートがおいしいということ。ヨーロッパの国々が近くて電車で簡単に行き来できること。大聖堂には色々な建築様式があることなど。

この旅行を通して、実際に自分の目で見て、舌で味わい、体験することで新たな発見があり、自分の世界観が広がるということを改めて感じました。ヨーロッパには大小数多くの国々が隣接しているので、これからも、色々な国を訪れて、見聞を広めたいと思います。

(中学部1年生 男子)

2014年の新年は、モアイの謎に包まれるイースター島で迎えた。サンパウロから飛行機で約4時間半、アンデス山脈を越えチリの首都サンティアゴに到着、そこから飛行機を乗り継ぎ、さらに5時間。周囲にはほとんど島らしい島がない南太平洋に浮かんだ孤島。地図上で、ハワイ、ニュージーランド、イースター島を結ぶ三角形の間をポリネシアという。イースター島は国としてはチリになっているが、住んでいる人々はポリネシアンだ。イースター島の名前の由来は、1722年、オランダ人によって島が発見された日がたまたまイースターの復活祭の日だったので、「イースター島」と名付けられた。

西暦800年くらいから作り始められたモアイ像。今まだ解明されていない謎が多い。先祖を奉るために神聖な祭壇の上にモアイを建てたことは分かっているが、どのように作ったか、どうやってこの大きなモアイを運んだか、ということは、色々な説があり、未だ分かっていない。1700年代半ば、島に人口が増えたことによる食糧難から部族間の戦争が激しくなり、モアイ倒し戦争が始まり、イースター島のモアイはすべて倒されてしまった。島のあちこちに倒されたモアイがあった。現在、イースター島で立っているモアイは全て復元されたものと聞き、驚いた。イースター島にある約900体のモアイの中で、復元されて立っているものはわずか40体。モアイが製造されていた石切り場に397体、運搬途中で放置されたもの92体、倒されているものが288体だそうで、立っているモアイがとても少ない。

クレーンも車も何もない時代に、切り出し、運搬、建て込みをすべて人力で行い、何年もかけて作った神聖なモアイを、人間の手で倒し壊してしまった戦争は悲しいものだ。イースター島で一番大きな15体の復元は、日本の企業が手伝ったことを聞いて日本人として誇りに思う。1995年に世界遺産に登録されたため、それ以降はモアイに触れることは許されず、倒れたモアイをもう復元することが出来なくなってしまった。

イースター島に沈む夕日を眺めながら、このような歴史的遺産が、これ以上無駄な戦いで傷つくことがないよう、僕は願った。

(高等部1年生 男子)

1月11日午前6時、空港送迎を担当する先生方がヒースロー空港に向かった。この日は帰寮日。大学受験のため日本に残る高校3年生を除いて生徒全員が世界各地から戻ってくる。
久しく雨の続いていたキャンパスはまだ夜露に湿ってはいるものの、西の空には夜明け前の最後の輝きを放つ星々が澄み切った空に静かに輝いていたーー快晴の予感。長い休みを経て久しぶりに大家族が集うにはまさに絶好の日になりそうだった。

空港の先生方から生徒出迎え完了の連絡が入り始める頃、キャンパスにはイギリス国内生が保護者の運転する車で続々と到着する。静寂が支配していた早朝のキャンパスがまるで別世界のように活気を帯びて来る。

「お帰り!どうだった冬休みは?勉強もしっかりしたかい?」
「スキーに行ってたんですよ、宿題はちゃんとやりましたよ。」
「ずっと家でした、この冬は。周りにほとんど日本人はいないんですよ。Facebookで立教生とはいつも連絡とってましたけどね。」

様々な国に住む生徒達はそれぞれの環境で思い思いの休みを過ごしていたようだが、この日からまた全員で同じ生活を始める。第2の家庭だ。

翌12日、午前10時から始業礼拝が始まった。
いつもと何かが違う。もちろん今学期も緊張した面持ちの新入生の姿はあるが、他にも笑顔の後ろに緊張感を隠しきれない生徒達がいた。始業礼拝で十字架やトーチを持って先生方のプロセッションの先頭を歩いて入堂するアコライトの生徒達だ。教員の代わりに食事のテーブルマスターを務める生徒達もいる。どちらも最高学年の証だ。高2の生徒達が立派に先輩の後を継いでいた。

高3が戻ってこない3学期は、立教生にとっては新たな学年の序章でもある。2月の生徒会選挙が終わると、委員会・部活動の中心は高2から高1にバトンタッチ。それぞれの学年が新たな役割の担い手として動き始めた緊張感が、まだまだ寒いイギリスのキャンパスに少し早い春の予感を感じさせるような学期初めだった。

立冬が過ぎて、凍えるような季節がやってきました。2013年の秋はおだやかで過ごしやすい気温だったせいか、冬に入っても日中気温は7℃程度をマークしています。本来だったら、5℃に届くか届かないかの冬。乗馬に出て行く身にはありがたい冬です。

けれども立教の乗馬メンバーは、フライデースポーツのたびに元気いっぱい。7℃程度といっても、寒いですし、赤や黄色に色づいた紅葉の名残りももうわずかな風景なので、山野は見渡す限り、枯れた寒々しい色。でも、いつもの相棒(馬)と散歩に出かけるのが、週に1回の楽しみなのです。
セーターやフリースを重ね、マフラーも巻いて、ウィンドブレーカーを着たら、防寒は万全。

冬至を約1ヶ月後に控えた11月22日は、2学期最後の乗馬デーでした。
最後を記念するかのように晴れ渡った午後でしたが、帰ってくると、ちょうど日没。日が暮れて、野山も、はだかになった立木の林も夕陽を斜めに浴びて、あかね色。

ややうす暗くなったところを帰ってくると、羊の群れる草原の向こうに、真っ赤な夕陽が見えました。その上にどこまでもつづく、夕陽に色づく広い空。

薄青い空に、ピンクや紅色がにじんでいるかと思ったら、小さな雲があちこちに散っていて、夕陽の光に染まって輝いていました。

「綺麗だね…」
あまりに美しくて、ただただ綺麗な空を言葉もなく、じっと眺めてポクポクポク。
写真にうつすと、陰になって暗めですが、実際はもっと明るく見え、夕方の闇が紗のようにかかって、たそがれが微妙な陰影を放ちます。

サンセットの乗馬なんてラッキーだったな。
新年の初乗りも、今から楽しみです。
1月なら、乗馬でサンセットがまだ何度か見られそう。

「期末考査が終わったー!!」開放感溢れる校内の雰囲気の中、それに完全には浸れない学年があります。それは、2週間後に高等部入試を控える中学部3年生です。期末考査が終わるとともに、担任から入試の過去問が渡され、気持を入試へと切り替えました。

7日(土)で高等部3年を送りだし、8日(日)から中学部三年だけの補習期間が始まりました。初めての同学年だけの学校生活、食事の席。なんだか合宿のような雰囲気で、少し緊張した表情やわくわくした様子が見られました。

一日のスケジュールは午前中は90分×2授業、午後は90分×1授業。放課後はシャワーとそして自習、夜も就寝前までは自習という充実したスケジュール。一つ一つの授業も入試のための対策など今までの授業内容とは違い、応用力をつけるために特化した授業であり、授業を受ける生徒の顔も真剣そのもの。この補習期間に十分な力をつけて、今まで中学で学んだ学習の集大成として、高等部入試に臨んでほしいものです。

12月7日(土)、立教英国学院は2学期終業の日を迎えました。

2学期は、1学期や3学期よりも心的な面で、生徒たちそれぞれにとって特別な日。それは、高校3年生が実質的に学校を去る日だからです。

全8学年の学校、そして24時間共に生活する全寮制生活の中で、つねに先輩として、後輩7学年を見守ってきてくれた大先輩方。高3生にとっては、入学年度はそれぞれだけれども、長い寮生活の中で、つねに傍にいることが自然だった友人たちと、もう共に生活することはありません。終業礼拝で、高3担任の先生のスピーチに学校生活の様々な局面を思い出しながら、後輩たち、高3生たちそれぞれは、胸に何を思っていたでしょうか。

2学期終業礼拝は思い出と別れの日ですが、一方で、決意の日でもあります。
『大家族生活』の中で直接的であれ、間接的であれ、面倒をみてくれていた先輩方が学校をはなれ、次の学年へのステップまで残すところたった1学期……一人一人の生徒はこれからの学校生活をどのように送ろうと考えたでしょうか。
特に高2生は3学期から早くも最高学年。アコライト、テーブルマスターなど、学校を引っ張る役目を本当に務める日々がやってきます。生徒会や部長、委員長を務めつつ「学校の中心」の自覚を持って過ごした1年から、いよいよ「もう上の学年はない」生活へ。彼らの胸に去来するものはなんでしょう?

12月7日(土)は別れの日。決意の日。
3学期にむかえる生徒たちの様々な表情はどんなものになっているでしょうか。
そしてこの日学校をはなれた高3生たちに次に会う時、彼らはどんな人生を顔にきざんでいるでしょうか。
別れと決意の日は、「スタートの日」。

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