2学期の終業式の前日。英国の午後4時、外は真っ暗。その中にきらきら輝くイルミネーションで装飾されたElmbridgeの施設。そこはお年寄りの方が住むコミュニティーです。そのコミュニティーにはホールがあり、そのホールで毎年立教の生徒がクリスマスキャロルを披露することになっています。

「こ・ん・に・ち・は!」
生徒達が入場すると、観客の皆さんが日本語で挨拶をしてくれました。
そして練習通り、パートごとにステージに並び、前奏は小学生のハンドベル。タイミングを合わせるのが難しいハンドベルですが、とても上手に演奏しました。次に全体の合唱に移りました。どの学年も男女共に素晴らしい歌声を会場に鳴り響かせることができました。今年は英語の曲だけでなく、日本語の曲も含まれており、観客の方にすべての意味を伝えることができたかはわかりませんが、どの曲もイギリスの人たちにおなじみの曲ばかりで、とても楽しんでくださいました。

歌い終わった後には生徒達にチョコレートをプレゼントしてくれました。
「よ・い・お・と・し・を」
最後に観客の皆さんが片言の日本語で私たちに温かい挨拶をくださいました。

今年も良い締めくくりとなり、来学期に向けていいスタートが切れそうな予感がします。

今回のスクールコンサートも、ここ数年恒例となったバグパイプ演奏でスタートしました。

いつもは先生方による演奏でしたが、このクリスマスのスクールコンサートでは、生徒バグパイパーがデビュー! 2人の生徒が先生方に連なって、演奏を披露しました。

一時は秋のOPEN DAYのコンサートのオープニングともなっていたバグパイプ演奏ですが、ここ数年ぱったりと生徒が途絶えてしまっていました。
今から2年前の春、一人の高3男子が意欲的にレッスンをスタートしたのをきっかけに再開したバグパイプ。その生徒は卒業してしまいましたが、今も2人の女生徒が楽器の主となって演奏をつづけています。

久しぶりに誕生した立教生バグパイパー。
バグパイプはキルトをまとった勇壮なスコットランド兵のイメージですが、今度の立教バグパイパーは元気な女生徒です。ドローンを朗々と響かせて、高らかに曲を吹きあげると、ホールからは盛大な拍手が贈られました。

2学期のスクールコンサートは、クリスマスツリーが飾られたホールで、地域のお年寄りの方々や保護者の方を招いて行われ、年末のチャリティ・コンサートを兼ねていますが、最後の学期となった高3生徒を送る気持ちもこめられています。

オープニング演奏に続いてコンサート・バンドの演奏、ピアノのソロ演奏やデュエット、バイオリン、各クラスのアンサンブル、クワイヤーのコーラスなどが奏でられ、クリスマスツリーのイルミネーションと共に美しくホールに響きました。寒い12月の夜でしたが、生徒たちの奏でるひとつひとつの演奏は心をあたたかくしてくれました。

ただでさえ忙しい帰宅日直前ですが、この「2学期」はそれに輪をかけて忙しない学期末です。というのも、帰宅日前日に生徒会が高校3年生のために毎年お別れ会を主催してくれるからです。教室を整理したり部屋を片付けて帰宅のためのパッキングをしながら、時間を見つけてはそれぞれの学年から高校3年生に贈る歌や寸劇の練習をします。
「全員がちゃんと帰宅準備ができ次第始めますので皆さん協力して下さい!」
生徒会長から声がかかると皆必死で片付け&パッキング。そして今年もほぼ予定通りにお別れ会が始まりました。

まずは高校3年生を中心に歌や演奏、ダンスなどの出し物。短い練習時間でも伝わるものはしっかり伝わるようで、パフォーマンスが終わる度に大きな拍手がおこりました。ちょうど去年の今頃、同じように最後のパフォーマンスをして下さった先輩達の姿が一瞬脳裏をかすめ、そして「今度は自分たちが後輩達にお別れを告げている」という気持が込みあげてくると思わず目頭が熱くなります。 元気な演奏、生き生きとしたダンス、しんみりと聞かせる引き語り…そしてそれに続いて各学年から高校3年生へお別れのメッセージが贈られました。それぞれの学年カラーを活かした歌や出し物に大声で笑ってくれたり、一生懸命声援を送ってくれる先輩達。日本での大学受験のため3学期は帰ってこないので、これが一緒に過ごす最後の時です。
「よぉっ!」とまた戻ってきそうなのに、お別れのメッセージが繰り返されるたびに、立教を去る先輩達の姿が少しずつ現実味をましてきました。そして最後はその高校3年生がステージに上がり、全員で歌を歌ってくれました。3年生を代表して元生徒会長から最後のメッセージが送られると「お別れ会」は終了。またひとつ、キラキラと輝く大切な思い出ができました。

緊張の毎日が続いた期末試験期間が終わると立教は一挙にクリスマスの雰囲気に包まれます。
生徒会がコモンスペースの入口にクリスマスカードを交換し合うためのボックスを設置すると、お世話になった先輩に、共に学期を乗り切った同輩に、食事の席でたくさん話した可愛い後輩達に、そしてお世話になった先生方に思い思いのメッセージを添えてカードを書きます。
高校3年生は庭師のピーターさんが毎年プレゼントしてくれる大きなモミの木をホールのステージ上に運び、小一時間かけて飾り付けをします。それぞれの年の高校3年生の個性が光る美しいクリスマスツリーの出来上がりです。今年は例年より1日早くお目見えしたツリーのお陰で期末試験が終わったとたんにクリスマスがやって来たかのようでした。
この他にも、英会話の授業で頑張ってクレジットをたくさん獲得した生徒達がイギリス人の先生とディナーをとったり、帰宅日前日に近くのご老人達の住む村を訪れて歌うクリスマスキャロルの練習をしたり、キッチンスタッフが腕によりをかけて作って下さるクリスマスディナーを満喫したり… と、様々なイベントがぎっしりと詰まった最後の1週間はあっと言う間に過ぎていきます。来学期は大学受験で学校には戻らない高校3年生と過ごす最後の時がとても愛おしく思えてくる1週間です。

10年ぶりに訪問させて頂きました。当時こちらで約7年間学ばせて頂きました。

卒業式の日の夕方から次の日の昼までお世話になりました。
生徒の皆さんにはお会い出来ませんでしたが、校舎をゆっくりと見学させて頂き、大変懐かしく思いました。
生徒の皆さんには「今でしか出来ないこと」を全力でやって頂けたらと思います。
今回は妻との新婚旅行で伺いましたが、できればまた訪問させて下さい。
ありがとうございました。

 2学期は1学期と比べて体験や経験が多く積めた学期だったなと思いました。

1つ目は、フィールドワークです。今学期は、外国人に質問する形で授業を進めました。最初の方は緊張してしまい、先生に顔がかたいよ、とよく言われ、笑顔でいこうと思うと無視されたり、「急いでいるから」のような形でことわられてしまい、難しいなと感じる場面が多かったです。無視されたらしかたがないからとりあえず聞いてくれる人だけでも聞こうと思うと、こちら側が質問するだけならいいのですが、相手からもたまに質問されると何も答えられずもうし訳ないなと思い、悲しくなってきます。でも最後の方は、なんとなく聞かれた質問に単語だけでも答えられるようになると相手も笑ってくれるし、質問に答えられた自分によかったなと感じました。この調子で来学期も積極的に質問して経験を積みたいです。

今学期は、部活動でも大きな体験ができました。サッカー部の人数が11人しかいなかったのもありますが、立教でも初めての試合ができました。相手は外人で190cm以上ある人が5人くらいいてびっくりしました。試合が始まる前だけで「大きいな」と5回以上言いました。結果0対2で負けてしまいましたが、学ぶことが多い試合になったなと思いました。

今学期一番成長した事は、リーディングマラソンに取り組み、第一通過点のセブンシスターズを通り、やって良かったなと感じました。この調子で来学期も最低でも第2通過地点は越えたいです。

このように冬休みは何事にも挑戦し、家だからとだらだらせず来学期の漢字コンクールや英検に向けての勉強もしっかりやり、来学期は二学期よりもいっぱい体験して、スポーツして、勉強もしっかりして充実した三学期を過ごしたいです。

(中学部1年生 男子)

森鷗外の作品を読むのはこれで三度目だった。有名かつ偉大な作家なだけに、彼の作品の中でも高く評価を受ける、「高瀬舟」は授業でも取り扱った。他には「青年」を読んだが、今作品はそれら二作とは大きく異なる印象を受けた。雁には高瀬舟にみられる思想的葛藤も、青年で登場するような哲学者や知識人もいない。しかし最後だけは森鷗外らしい希望を全て打ち砕かれたような遣る瀬無い終わり方をしている。

話の舞台は明治十三年、主人公の「僕」によって話は語られる。そして中心となるのは僕と同じ大学に通う岡田と、二人の散歩道に住む高利貸しの妾、お玉だ。お玉は妾という立場で自由は拘束されているが、家を通りかかる岡田に惹かれていく。しかしその思いは届かぬまま物語は終わる。岡田はドイツへ留学することになり、それを知らないお玉は何気なくすれ違うのを最後に儚き別れを遂げる。

この本において森鷗外が最も描きたかったのは、一女性の自我の目覚めとその挫折であろう。つまり若き男女の恋愛などには端から興味がない。岡田の心境など描写が成されていないのが何よりの証拠だろう。しかしそう考えるならば、「雁」というタイトルに違和感が生まれる。雁が実際に登場するのはまさに物語の終盤、岡田が投げた石が偶然にも雁に当たり命を落としてしまう。そしてその雁を持って帰って食べることになり、そのせいでお玉は岡田に会えず終いとなった。

確かに物語を動かしてはいるがこの一羽の雁が話の中心にいたとは考えられない。ならばなぜ作者は雁を、本の顔とも言える、タイトルに選んだのか。それは、雁の一生がいわばこの本の象徴であるからだと考えた。
雁は渡り鳥である。渡り鳥は秋に、冬の寒さから避けるため日本や周辺の温暖な地帯へ海を渡って移動する。そして気温が暖かくなるとまた北の寒冷な地域へ飛んでいく。本文中に明確な季節の描写は無いが、雁が登場したのが岡田の留学前夜だということから、春だと考えられる。つまり命を落とした時雁は新しい住処へ飛び立とうとしていたのだ。

そう考えるとお玉と雁の人生はどこか似ているように思えるのだ。お玉もまた新しい、岡田という、心の居場所を求めて飛び立とうとしていたのだ。そして結果、雁もお玉も突然の終わりを迎えるのだった。石が当たり落下する雁のうな垂れた首は正にお玉を象徴していた。この辺りが、森鷗外が雁をタイトルとした理由であろう。

お玉と岡田の別れにより物語は終わる。これだけを見ると救いようの無い話のように思えるが、そうとも感じられないのだ。確かにお玉の想いは届かず、雁のように彼女の恋心は殺された。しかしあくまで恋心というのはその時の気持ちであり、お玉自体が死んだわけではない。つまりそこに、冒頭で言った、「他の作品と大きく異なる印象」があるのだ。

例えば、高瀬舟は読み終えたあと、どうあがいても這い上がれない闇に落とされたような感覚を受けたが、雁はあくまで一つの恋の話、またはその恋により自我が芽生える、要は成長する女性の話だ。いくら妾という立場でもそこに死が待っている訳ではない。お玉はこの物語が終わっても生きていくし、また新しい恋をすることもできるのだ。

そして作者も最後に読者に想像を煽らせる一文を残している。
「お玉とはその後相識となったが、それはなぜかと問われても、これに対する答は物語の範囲外にあるため読者は無用の憶測をせぬが好い」
こんなことを書いておいて想像をするな、という方が無理がある。どういった経緯でこれが書かれていようとも、お玉はそれなりに岡田が居なくなった後も、正常に生活を送れているということだ。

雁は森鷗外の作品の中では読みやすいという印象だったが、淡々とした、しかし切ない文章は余韻を残した。そして読み終えた後、考えをめぐらすのも彼の作品特有だ。本の中の解説部分にも、作中での出来事や解説はあるが、心の中のもやもやは消えない。作者自身の狙いがこのもやもやなのならば、彼の手の上で踊らされる読者の一人なのだが、それすらも知ることはできない。こうして彼に興味を持った自分は他の作品も読むことになるだろう。しかしそれもまた森鷗外の狙いなのかもしれない。

(高等部1年生 男子)

「想像」

小学生の時、学校の先生から「題名は、読む人が読みたくなるように付けましょう」と教わりました。それを聞いてから、自分で書く作文の題名にも気をつけています。本を読む時にも、とても題名が気になります。

本の題名「神様」から、人間と神様が、仲良くなる物語が書かれている本だと思いました。短編9話からなる物語でした。1話の「神様」を読み始めてみると、クマが人間と同じような生活をしている話で、人間の女性と散歩に出かけるという絵本の中のクマがするような物語でした。絵本は絵で、その様子を見ることができますが、活字だけの世界では自分が想像した情景を自分だけしか知らない世界で読むことになると思います。読者が、それぞれに自分の空想の世界で物語を読むのだと思います。私は童謡の「森のくまさん」を思い出しながら、優しくて温かいクマを想像しました。でも、「森のくまさん」を知らない人は、違うことを考えると思います。

1話目は「クマにも神様がいるの?」と、最後の方で「神様」という文字が出てきただけでした。作者は、どうして題名を「神様」としたのかと不思議に感じていました。

2話目の話は、梨農園で夏休みに、お手伝いする青年の話でした。青年は、そこで白いフワフワしたウサギくらいの生き物3匹に出会うのです。梨の収穫の時だけ出てくる、梨だけを食べる生き物という設定です。生き物は、動物として書かれていなくて、得体の知れないものとして書かれています。出会った青年も何者なのか?と考えているうちに、梨の収穫時期も終わり、その生き物たちも梨の木のそばで消えていなくなりました。

たぶんこの生き物は「梨の豊作を願う神様が、収穫の時期だけ変身して出てきて、普段は梨の木に宿っているのではないか」と考えました。読者は、みんなこのように感じるでしょうか。やはり2話目でも、その生き物を、読んだ人がその人自身で空想しています。私が思っている空想の生き物自体も、神様だと思うことも、豊作を願っていることも、読者によって考えることは異なるのではないかと思いました。

このように考えると、この本に出てくる人間以外の生き物や得体の知れないものが「神様」だと思って読みました。
短編中でこの神様は何をしたいのか、何を言いたいのかと、いろいろ考えました。そのように読むことは楽しかったです。「神様」が姿を変えていると、出会った人間の本性がよく見えるような気がしました。

いろいろと読者に考えて欲しいと思い、作者がこの本を「神様」と名付けたのではないかと思います。読者それぞれが考えたり、感じたりする心を大切にしたいから名付けたのかもしれません。

(中学部1年生 女子)

未知の世界へと続く扉の前で、期待に目を輝かせる魔法使いの卵たち。この地球上で最も有名な丸眼鏡の少年も、その列の中にいた。
学都Oxfordで英国ならではのHigh teaを存分に楽しんだあと、わたしたちの班の好奇心をくすぐったのは、眺望の良い教会ではなく、アインシュタインの黒板でもなく、Christ Church Collegeだった。5.5poundsの入場料を払って入った先は本の中の学校にそっくりで、どこぞの怪物(トロル)が出没しそうな石の回廊や、箒が風を切って飛んでいってもおかしくない緑の中庭が、目に眩しかった。けれどその中でも一番わたしの心を動かしたのは、荘厳な食堂だった。

重々しい木調の長いテーブルにひっそりと置かれていたメニューには”Freshers”の文字。それを見て思い出すのは、キャンパス内を案内して頂いてるときにすれ違った人々のことだ。自分と大して年の変わらないだろう若い人から、その保護者か、或いは第二の人生を歩み始めるつもりなのか、髪に白いものが多く交じった人まで。皆一様に、喜びと希望に満ちた顔で、寒空の下に立っていた。新入生のためのイベントに、参加するためだ。彼らが今夜、あの魔法使いの卵たちのように、石の階段を登り、大きな扉の向こうへと入ってゆくのだ。そう思うと、不思議な感情が湧いた。

尊敬。今和やかに談笑している彼らがここに辿り着くまでには、一体どれだけの努力があったのだろう。

憧れ。名門Oxfordの学生の一人であるというのは、どのようなものなのだろうか。

感動。ここに居る人々が、やがては様々な学術の権威として、世界中に広がってゆくのだ。

そんな純粋な思いの中に、今の自分自身を見つめている冷静な目があった。日本を飛び出して英国にやってきて、国の垣根を越える新時代の大人になるための視野は広がったと思っていた。けれども目前にある試験、日本の大学への進学のことを考えているうちに、それは再び、少しずつ霞んできた気がする。自分の能力を高めるために海外へ出たとして、今見ているトップクラスの学都へ進学したとしても、その場所でさえ、まだ世界のほんの一部なのだ。秋の高い空に、それを気付かされた。

Christ Church Collegeの食堂へと続く扉は、確かに新しい世界へとつながっているだろう。だが、そこで終わりではない。日本の大学を出てから取り敢えず海外へ出ようと漠然と考えていたわたしには、当たり前のことのはずなのに、少なからず衝撃だった。井の中の蛙は、話には聞いていた大海を見た。さて、わたしはこの後、何枚の扉を開けることが出来るのだろうか?

大家族生活――この立教で生活する時の重要なテーマである。生徒や先生が寝食を共にするという貴重な環境の中で、様々な人にお世話になった。その中でも忘れてはならない人たちがいる。英国人のスタッフたちだ。
彼らは僕たちと言語や習慣が違うにも関わらず僕たちに勉強や音楽を教え、教室やドミトリーを綺麗にし、安心して立教生活を送れるようにしてくれている大事な人たちだ。

まず、ECの先生方。当たり前のことだが、僕が普段話すのは日本語で、彼らは英語だ。僕の、お世辞にも上手いとは言えない英語の発音を、彼らは聞きとってくれ、僕にもわかるように易しい英語で会話をしてくれる。コミュニケーションをとるのが苦手だった僕も、昔と比べてずいぶん話せるようになったと実感している。2年ほど前、EFLからECになったのも、人種や言語を超えて”人”としてコミュニケーションをとることが重要だという意味だったのかもしれないと、今の僕は思う。

次に、音楽を教えてくれたプライベートレッスンの先生。僕はサクソフォンのレッスンを取っているが、それと同時にトランペットでコンサートバンドに入っていた。元々父に勧められてやり始めたサックスは、右も左もわからない本当の初心者だった。そんな僕を、25分の間だけだが、毎週付き添いで手取り足取り教えてくれた先生には、本当に感謝の念を示したい。学期末のコンサートに出なくて父にひどく怒られた時もあった。練習曲のリズムが取りづらくてなかなかうまく吹けない時も、僕の舌足らずな英語にも、先生はいつも優しく接してくれた。この立教を卒業しても、きっと僕はサックスを吹き続けるだろう。

最後に、クリーニングレディースのみなさん。就寝前や起床後は僕らのせいで汚れた部屋を見ることになるのだが、昼食後に行くとまるで新しくなったように綺麗になっている。ドミトリー内は小さなゴミさえなくなり、脱ぎ散らかした服がベッドの上に畳まれていたりする。1週間に1度洗濯をしてくれ、2週間に1度ベッドのシーツが皺一つない状態で整えてある。全て彼女たちのおかげだ。僕は自分の部屋の掃除は苦手でよく先生方に注意されるのだが、ドミトリーに帰ってみると、大きな掃除機と雑巾を持った彼女たちが掃除をしてくれているを見る。

僕たちが午前の授業を受けている間、彼女たちは毎日丁寧にドミトリーやトイレを綺麗にする。そして僕らがドミトリーに帰ると、まるで魔法を使ったかのように綺麗になっているのだ。もし自分たちで掃除をしなければならないことになったらと思うと、とても真似できないだろう。
他にも教室等やニューホールを掃除してくれるおじさんや、蛍光灯などを交換してくれているおじさんたちが、僕たちの立教生活のために日々縁の下の力持ちの役を買っている。

僕たちは様々な先生方から将来のために学ばせてもらっていると同時に、勉強以外のことについても周りに支えられている。彼らの誰か一人が欠けても立教生活は成り立たないだろう。それほどまでに僕たちは、知らないうちに彼らの助けを借りているのだ。
さっきも言ったが、僕はこの感謝の意を全て英語に出来る自信はない。それでも、僕のこの5年間の立教生活をすぐ近くで支えてくれた彼らに、卒業する前に一言、「ありがとう」と伝えたい。

(高等部3年生 男子)

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