お久しぶりです。
先日22日に久しぶりに立教にお邪魔させていただきました。
以前と変わらず懐かしい雰囲気を存分に味わうことができました。
お昼御飯中にもかかわらずご対応いただいた添田先生、ありがとうございました。
また近いうちにお邪魔できればよいかと思います。
その際は、よろしくお願いいたします。
お久しぶりです。
先日22日に久しぶりに立教にお邪魔させていただきました。
以前と変わらず懐かしい雰囲気を存分に味わうことができました。
お昼御飯中にもかかわらずご対応いただいた添田先生、ありがとうございました。
また近いうちにお邪魔できればよいかと思います。
その際は、よろしくお願いいたします。
boxという英単語にはボクシングをすると言う動詞の意味がある。
僕にとってボクシングとは人がお互いに顔や腹を殴り合って、額や体から血を流す残酷なイメージのスポーツ...いや、スポーツとも正直言い難いものだった。
試合を見に行きたいとも思ったことがない。
しかしこの本を読んでいくと次第に自分がボクシングに興奮していくのに気がついた。
なんて熱いスポーツなのだろうと思った。試合の前には自らの限界まで減量し、自分のフォームが身に染みつくまで練習し、相手のパンチを恐れないよう精神力を高め、そして死を覚悟して試合に臨むのだ。
相当の肝が据わっていて根性のある奴しか出来ないのだろうと思った。
情けないが自分は絶対やっていける気がしない。
練習の場面では部員を応援し成長を喜ぶ自分がいて、試合では実際に会場にいるかのように手に汗を握るような思いでこの本を読んでいる自分がいた。
自然にその本の中に溶け込めた。部員の勝利を自分のことのように喜んだ。
この本を読んで改めてスポーツの素晴らしさを痛感した。
スポーツを通して学ぶことは技術だけではない。
僕は中学の時サッカー部に入っていたが、今でも仲が続いている人はクラスメイトより部活のメンバーの方が多いことに気づいた。
高3になって最初の行事に球技大会がある。
この球技大会でもスポーツを通して何か学べたらいいなと思った。
そのためにも準備や練習をしっかりやっていきたい。
(高等部3年生 男子)
僕は父親の仕事の都合で、人生のおよそ3分の1を海外で過ごしてきた。
そんな中で僕が出会ってきたものは色々とあるが、その中でも小さい頃から僕にとって一番すごいことのように思えたのは、日本と違う国の人たちが、日本語ではない言葉を話す光景だった。
自分には全くわからないのに、他の人にとってはその言葉を話すことが普通。
その人達の「当たり前」の中に僕も入っていけたらな、と小さい頃からぼんやり思っていた。
日本語を話す外国人を見たときなんかは、僕は宇宙人に遭遇したかのような衝撃を受けたような記憶がある。「違う言葉を僕も話せるようになりたい!」という気持ちは昔から幼くても僕の中のどこかにあった気がする。
しかし、昔の僕はやはり、違う人達の中に飛び込むのが怖かったのだろう。
その国にいた時、僕は現地校やインターナショナルスクールへ行きたいと親に頼んだりすることはなく、日本人学校に通っていた。
そうして今も立教に通っているが、今も英語を一生懸命自分なりに学んでいるつもりだし、大学に行けたら、自分の触れた外国語をもう一度真剣に学びたいという気持ちが立教にいて固まった。
言葉への興味がより大きくなってから、僕は語学や言語学に関する本を自分で探しては読むようになった。
この本は25年前に1人の言語学者によって書かれたもので、以前僕が読んだ別の言語学者の本に紹介されていた推薦図書の1つだ。
この本は、外国語を学ぶ上での土台として、語彙、文法、発音や辞書など様々な観点からの、言語を学習する人間として大切な意識や考え方、心構えを僕に教えてくれた。
しかし、それらの様々な指南もさることながら、僕の頭により強く残ったのは、本のあとがきの部分に引用されていたあるチェコ語の諺だった。
「いくつもの言語を知れば知るほど、その分だけ人間は大きくなる。」
最初にこの言葉を読んだ時、僕は少し驚いた。
語学というものと、人間的な成長というものを結びつけて考えたことがなかったからだ。
なので、僕はその諺の意味を考えてみる必要があった。
僕のたどり着いた結論は、もし人間として成熟していることの1つの要素として「他者の価値観を理解して受け止めること」が挙げられるとすれば、なるほどこの諺の言っている事にもうなずけるのではないか、というものだった。
ある言語を学ぶということは、その言語やその話者たちの持つ価値観を学ぶということでもある。
もし多くの人達の価値観を「言語」というものを通して理解することができるなら、多くの言語を理解しているということは、その人がそれだけ多くの人達の価値観を理解できる、大きな人間であることを意味するのではないかと僕は思うのだ。
もちろん、言葉を1つしか話せない人の人間的価値はどうか、という話をしたいのではない。
しかし、このように言語を通した他者の理解の仕方もあるのではないだろうか。
古代ギリシャ人は、自分たちの民族を「ヘレネス」、他の民族の人間を「バルバロイ」と呼んでいた。
「バルバロイ」は今でも形を変えて、英語の中で「野蛮な、未開の」という意味で残っているが、その言葉の元の意味は「どもる者」だったそうだ。
つまり、言葉を話すのは自分達だけで、他の者が話すのは言葉ではないという認識が古代ギリシャ人にはあったという。
しかし今は、違う言語があるという認識は僕達の中にあり、それを学ぶことができる環境にある。
外の世界に目を向け、その中に飛び込んでいく時に、言葉は必要不可欠なものだ。
言語を学ぶことで、自分の世界が広がり、他者をもっと理解できる。
そのことを忘れることなく、これから語学をたくさん学んでいきたいと思う。
(高等部3年生 男子)
この本は短編集だったので、その中で1番自分が考えさせられた作品について書こうと思います。
その物語の主人公は、妻と子供を2人持つ、会社勤めのお父さんです。
彼は会社でも家でも「器が大きい」とか「大人だ」とか「強くて余裕がある」と言われ、一目置かれているような存在でした。
彼自身も、「間違ったことだけはしたくない。正しい、理想の自分になるために頑張って生きているのだ。」という考え方を持っていました。
しかしそれ故、何もかも合理的に考えてしまって、弱い人の気持ちを上手に理解してあげることが出来なかったり、他人に気を遣って、少しでも良い雰囲気にしようとして、どんなに怒っている時でも、どんなに悲しい時でも、無理矢理自分をコントロールして感情を抑制してしまうような人なのでした。
彼のお話を読んで、「自分にもこういう所があるな。」と、少し共感した所があります。
それは、「自分をコントロールしようとする所」です。
私が何かと関わる時、その何かについて、知りたいとか楽しみたいとかもっと深く関わりたいという気持ちがあるのに、心のどこかで、「深入りしてはだめだ。とらわれすぎてはだめだ。」と思って、自分の本心とは裏腹に、あらゆる物と心の距離をとってしまう癖があります。
何かにとらわれすぎたり、感情移入してしまうと、本当の自分を見失ってしまうようで怖くて、それなら自分の好奇心を抑えてでも、百パーセントの自分を確立させておこうと思ってしまうのです。
この考え方で今まで生きてきて、望み通りあまり人に流される事なく、自分の信念や目標を見失う事なく生きることができていたような気がします。しかしそんな事をしているうちに、何かに夢中になったり、本気になったり、他人に優しくしてあげたり、誰かと協力したりする事ができなくなってしまった気がします。
自分の本音を、理想とか信念とかでうまい具合にあしらいすぎて、自分や他人やその他のあらゆる物と真剣に向き合う事が出来なくなってしまった事に気付かされました。
理想や、合理的な事は、確かに一番正しい事かも知れないけれど、そうでない事から学べる事だってたくさんあるのだから、不必要だと決めつけないで、面倒だろうと、ひとつひとつしっかり向き合って、色々な考え方をして、強くて人間らしい人間になりたいなと思いました。
(高等部3年生 女子)
Wolverhampton Girls High Schoolでの5日間は、私にとって学んだ事や感じた事がたくさんあり、とても貴重な体験となりました。
最初はホームステイも一人で、初めての短期留学だったので不安でいっぱいでした。初日もちゃんと話せるかずっと心配していましたが、どの子もすごく気を遣ってくれて一つ一つ丁寧に説明しながら接してくれました。
私のステイ先の子は、すごく日本語を学びたいという気持ちがある子で、いつも「こういう時は日本語では何て言うの?」と聞いてきて、教えてあげるとすごく喜んでくれました。でも自分で英語を考えながら説明するのも、ちゃんとそれが伝わった時は私にも達成感があってすごく嬉しかったです。
留学期間が終わりに近づくに連れて、他の友達との接し方も分かってきてgirls’ talkで話している事も理解できるようになり、すごく楽しく過ごせました。
そして立教に帰る時には、立教生がステイさせてもらった子はもちろん、他の友達も見送りに来てくれて涙の別れとなりました。こんな短い間で、お互い言葉があやふやな中こんなに仲良くなれた友達が出来たのは私にとって初めてでした。
私は友達というのは言葉だけでコミュニケーションをとるのではなく、心で通じ合うものだなというのを感じました。
それでも英語がもっと分かればもっと楽しくなるだろう、自分で英語が話せるようにならなきゃいけないと、改めて考えさせられました。
3学期には向こうから立教の方に来てくれることになっているらしいので、その時はこの5日間よりもっと友情を深められるように英語を頑張りたいと思います。
(高等部2年生 女子)
「日本人だから、外国人だから、関係ないから。」
そう思っては何度もイギリスの街を通り過ぎていた私に、外国人の友達なんてゼロだった。
言語も違えば習慣だって違う。そんな事を言い訳にして、コミュニケーションの取り方の術を分かっていても引っ込んでしまう。そんな繰り返しの私に訪れたのはこの短期留学だった。
最初はあまりのる気ではなかった。もしも、その外国人に迷惑かけたらどうしようとか、気が合う相手じゃなかったらどうしようとか、そんな理由で。
しかし、決めたことなのだからと、私はいつもよりも少し重い足取りでバスに乗り込んだ。
私のパートナーはエマという。他の情報は一切なかったので、私は不安でいっぱいだったのだが、会ってみると優しそうな美人な方だった。お母さんも笑顔を絶やさない方で、私の不安は和らいでいった。
車の中で、色々と話をふってくれるエマに対して、なんとか自分の持っている単語と文法を使って話すが、あまりに緊張しすぎて流暢に話せない。
とうとう私は「ごめんなさい。緊張してるの」と言ってしまった。すると、何故かエマとエマのお母さんは笑い始めた。「そりゃあ、私たちも緊張してるわよ」とエマのお母さんに言われて、それもそうかと思った私はなんだか安心したような気持になって、そこからは普通に話すことができた。
エマの家族は4人家族で、全員音楽をしていたので、私はその演奏を聴いて毎日を過ごしていた。ピアノやベース、サックスフォーンやバイオリンの音が絶えないこの家はとても居心地がよかったし、勉強にもなる。エマのバイオリンのレッスンについて行ったりもして、私の耳は前よりも肥えていったのを今になって感じている。
そうした家族に囲まれて、さっそく学校の通学が始まる。私が受けた授業は主に3つ。バイオロジーとケミストリー、それにスペイン語だった。
バイオロジーとケミストリーは立教で英語で行っていたので理解できたのだが、スペイン語には多少の不安を抱えていた。
しかし、授業が始まってみると、スペイン語を英語で行い、それを日本語訳にする作業はなにか不思議な感覚がしたが面白いものだった。
このスペイン語の授業では「ベルナダ・アルバの家」というスペインの戯曲を訳していくもので、その話も面白いので、それを理解していくたびに面白さと嬉しさが広がっていった。
理解できる、その瞬間が奇跡のようだから、当然理解できないこともある。そういう時は気にしないでと言われるが、私にとっては大きな痛手となる。せっかくこうして出会えたのに、エマが伝えたいことを理解できないというのは、私にとって、何とも言えない消失感に襲われる。もっと英語を勉強しておけば、こうならなかったかもしれないと、留学中何度も思った。
他のクラスメートとも話したが、彼女たちの会話についていくのにも苦労した。途中から電子辞書を使って話したぐらいだ。その面では、エマに大変苦労させてしまったと、私は思っている。
そうして過ごした留学生活も、すぐに終わりをむかえてしまった。私は、感謝とお詫びを兼ねて、家族とエマにサンキューカードとお店で買ったものを渡した。すると、エマのお母さんが私にこう言った。「あなたと初めて会ったとき、あなたは緊張しているのと言ったわね。とても綺麗な英語を使うと思ったわ。あなたはとても英語を上手に話すわね」
その言葉は今になっても私の心の中で響いている。今の英語力の自信にも繋がっているし、これからの勉強も、もっとしなきゃと思わせてくれる。
今回の留学生活は色んな事を私に教えてくれた。それは、勉強面でも、精神面でもあるし、貴重な体験をし、異文化を知ることができたというのも確かだが、何よりも私に英国人の友人ができたということが一番大きかったと思う。
(高等部2年生 女子)
「先生!どーやってヒエログリフは解読されたんですか?」
古代エジプトの授業中になされた質問です。
この質問への答えが、高校一年生の大英博物館見学のテーマの一つでした。
「ロゼッタ・ストーンの発見が、ヒエログリフの解読につながった」というのは、もちろん教科書に載っています。
さらに、資料集には、カラー写真でロゼッタ・ストーンが載っています。
しかし、ここ立教英国学院は、本物のロゼッタ・ストーンまで、バスで2時間のところに位置しています。
「では、大英博物館へ本物を見に行きましょう!」
世界史教員として、この台詞をさらっと実現できる環境にあるというのは、とても素晴らしいことです。
6月17日、曇り空のなか高校一年生は大英博物館へミニアウティングに行って来ました。
約250年の歴史を持つ大英博物館は、収蔵品1200万点に及ぶ、いわずと知れたイギリス最大の博物館です。観光名所でもありますから、一度見学に行ったことがある立教生も何名かいました。
しかし、今回は世界史の授業の一環です。遊びに来たわけではないのです。
膨大な展示品から世界史を体感してもらうべく、授業に即した以下4つのテーマを設定しました。
テーマ1 どのようにしてヒエログリフは解読されたのか?
テーマ2 ミイラを観察しよう!
テーマ3 アッシリア王のライオン狩り壁画から王様を見つけ出そう!
テーマ4 エルギン・マーブルはどこにあったものか?
3人ずつのグループを作り 、それぞれ展示室へ向かいました。
テーマ1と3は、こちらから10分ほどの説明をしたのち、課題をこなしていくものです。
ロゼッタ・ストーン前に集合し、説明を受けた立教生は、二つの課題に取り組みました。
一つ目は、ロゼッタ・ストーンの中から5箇所、「あるもの」を探し、書き写すことです。二つ目は、膨大なエジプトの展示品のなかから同様に「あるもの」を4つ書き写すことです。このため、立教生は再びグループごとに分かれて行動を開始しました。
「あるもの」とは、カルトゥーシュと呼ばれる、エジプトの王の名を記す時に用いられる枠のことです。カルトゥーシュに書かれているヒエログリフは、すべて王様の名前です。そのため、ロゼッタ・ストーンのなかのカルトゥーシュが、ヒエログリフの解読の鍵になりました。
ロゼッタ・ストーンから5箇所のカルトゥーシュを見つけ出すのは、目を凝らして見ないとできません。
「他のお客さんの迷惑になっちゃう。」
と言いながら、しっかり最前列をキープし、ガラスにへばりついて展示品を観察していました。
さて、再びグループ行動を開始した立教生は、様々な展示品の中から目を凝らしてカルトゥーシュを探し回っていました。
ワークシートの補足資料から王の名を推察する生徒、より美しく書き写そうと真剣な顔つきの生徒、歩き回って疲れてしまった生徒、など予想以上に真剣に取り組んでいる姿を目撃することができました。
彼らの奮闘ぶりを、ぜひ写真とワークシートの記述から、感じてください。
「来学期、また大英博物館にいきたいです!」という感想がポロッと出てきました。
本物から学ぶことの面白さを、少しでも感じることができたのではないでしょうか。
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