どこまでも続く青い空と果てしなく続く広い海。

水平線がかすかに曲線で地球はやっぱり丸いんだと教えてくれた。

夜には数えきれない星が瞬いていた。

 

そんな景色があるのがイースター島。

 

太平洋に浮かぶ、その絶海の孤島にはたくさんの守り神がいる。

それがモアイ。

 

私はイースター島にいくまで、そこにはモアイしかないと思っていた。

しかし、あの景色にもモアイと同じくらいの価値があると思った。

田舎育ちの私でも驚くほど海が透明で、星が多い。

 

もちろんモアイもすごいけれど私には

自然の広大さの方が印象に残っている。

 

イースター島の自然は、私の中の「広い」という概念をぶち壊してくれた。

     

進路を決めるということはどうしてここまでややこしいのだろうか。

私には多くの選択肢が与えられている。

ここが一つの問題点である。

両親は私の好きな道を選ばせてくれようとする上、今まで国立の勉強をしてきたため、国立、私立両方に道がある。

これは贅沢な話だが、親に強制されでもすれば、進路の選択にこれほど時間はかからないだろうとつくづく感じてしまう。

しかし、どちらを選ぶにしても何らかの犠牲は払わなければならないようである。

 例えば、選択は簡単だが、親に強制されるとする。

この場合の犠牲は「自分の希望」である。

大学は自分の好きな勉強が思いきりできる格好の場所であるから自分の好きなことをしないのは損である。

何がしたい、将来こんな職業に就きたい。

このような希望が叶わずに後悔をしてしまう人も少なくはないだろう。

      

  では逆に、進路の決定権が全て自分に委ねられたとする。

私はこちらに当てはまるのだが、こちらは、自分の人生に全面的に責任を持たなければならない上、決定するのに多大な時間が必要である。

しかし、こちらのほうが恵まれていると思う。

長い時間をかけて自分の将来をじっくり見据えることは、一生のうちに何度もあるものではないから、自分を見つめなおすいい機会である。

どちらにしても最終的に決めるのは自分なのである。

もうすぐ大学生となると、人に頼ってばかりいられなくなる。

自分のことは自分で責任を負わなければならないというプレッシャーにも迫られることだろう。

避けては通れぬ受験は、自分をいかにうまくコントロールするかにかかっていると思う。

難しい課題ではあるが、受験は焦った時点でもう負けである。

もちろんある程度の焦りは必要であるが。

      

   受験までの残りの時間、「焦りは禁物」「時は金なり」「やるしかない」という三つのフレーズを頭の中に刻み込んでしっかりと取り組んでいきたいと思う。

自分の人生は人に決められるものではないから「最後は自分」である。

時間の限り考えて、自分にとってのベストな答えを見つけたいと思う。

 

(高等部3年生 女子)

 

         

鎌倉で桜が咲きました。満開に近い桜を見るたびに、自然と唇が弧を描きます。私は桜が好きです。桜のどこが好きなのか、桜のどんな時が好きなのかと訊かれれば、色、香り、あと満開の時や、桜が散る時に花弁がひらひらと舞っているように見えるのとか、激しく桜吹雪のよう散って見えるのが好きだと答えます。それらが好きだと感じると同時に、そこが綺麗だと私は感じます。

そうやって、自分の好きな桜の様子を見ると、私は疲れとか苛立ちが吹き飛んで、穏やかな気持ちになります。そうやって、穏やかな気持ちになった後には、今年は出来なかったけど、来年は家族と京都に行って、お茶を飲んだりお団子を食べたりしながら、花見をしたいなぁと思うのです。そう思った後には、地震の被害にあった人も、桜を見て少しでも幸せな気持ちになってくれたらいいなぁと思うのです。

今までは桜を見て、「あ、綺麗だな」と思うだけでしたが、自分が何故桜を綺麗だと思うのか、桜の何処が好きなのか、改めて考えてみると、もっと桜が綺麗に見えて、好きになりましたし、もっと桜が見たいと思いました。嬉しい事に、私の家の近くには桜が沢山咲いているので、立教に行くまでの間、見ようと思えばすぐに見ることが出来ます。

皆さんも、桜を見た時に「綺麗だ」で片付けないで、どうして綺麗だと思うのか、考えてみながら見てみてください。きっと、もっと綺麗に見えて、もっと好きになると思います。

 

添付の写真ですが、この日は鶴岡八幡宮で、東日本大震災 追善供養 復興祈願祭があり、それに向かって歩いている人も写っています。神道、仏教、キリスト教の各宗派の代表の宗教者が、一同に会してお祈りし、海岸まで歩いたそうです。

私は参加しませんでしたが、同じ時間に家族でお祈りしました。この美しい桜がこれからも毎年美しく咲いて、この日の祈りを思い出させてくれるといいなと思いました。

学校に行っても、お祈りは続けたいと思います。

 

(中学部3年生 女子)

 

2011年度 学校説明会日程 (4月5日更新)

 

海外子女教育財団主催「海外学校説明会・相談会」

5月31日(火)  マニラ日本人学校
6月 2日(木)  シンガポール日本人学校
6月 4日(土)  バンコク日本人学校
6月 6日(月)  ホーチミン日本人学校
6月24日(金)  パリ日本人学校

 

海外子女教育財団主催「帰国生のための学校説明会・相談会」

7月21日(木)  大阪 毎日ビル オーバルホール
7月22日(金)  名古屋 名古屋国際会議場
7月29日(金)  東京 国立オリンピック記念青少年センター

 

 

汗ばむほどの陽気、そして雲一つない快晴に恵まれた4月9日(土)、地元Horsham(ホーシャム)の町で、東日本大震災のチャリティーイベントが行われました。

英国ではロンドンのほか各地で、在住する日本人達が立ち上がり、震災直後から義援金が集められています。

英国人の方々だけでなく、世界でも活動は行われており、企業へ物資の提供を依頼するメールを送る方や、赤ちゃんへ常温保存が可能なミルクを送る署名活動など、今も余震が続く日本へ援助活動が続けられています。

 

 今回のホーシャム市のチャリティーイベントは、立教教員を含む、近隣に在住する4人の日本人を中心に立ち上げられました。

英国赤十字社の支援のもと、大震災や津波の被害の大きさを訴えて募金を呼びかけるだけではなく、日本文化を体験できるワークショップを通じて義援金が集められる工夫もなされました。

ヨーヨー釣り、独楽や剣玉遊び、お箸ゲーム、日本語入りのしおり作り、折り紙、浴衣体験といったコーナーが設けられ、20名以上の日本の人々がスタッフとして協力し、本校教員数名も各コーナーで活動しました。

教員家族の子供たちもスタッフとして活躍し、箸の使い方や剣玉、独楽の遊び方などを教え、予想以上の人気企画に。

両親に甘えてコインを貰って何度も挑戦する子供や、なかなか浴衣を脱ぎたがらない子供もあったほど、イギリス人の子供たちも夢中になってくれました。

春の日差しがまぶしい広場には音楽も流れました。これも企画の一つ、お子様ミュージシャンによる演奏です。

子供たちがそれぞれ得意の楽器演奏を披露すると、自然と会場に人々の足が向けられました。

人々の注目を特に集めたのは、2度にわたって行われた剣道と茶道のデモンストレーション。

本イベントでは立教のJapanese Eveningの指導にあたる教員らが協力しました。

剣道は地元の日本人剣道家と共に、茶道は近くに住む生徒らと共に、それぞれ剣道型や掛り稽古、お点前を披露した後、地元の子供たちに面を打たせたり、試飲してもらうなどして、イベントを大いに盛り上げました。デモンストレーションや各コーナーの活動だけでなく、机や椅子などの備品提供や朝早くから運搬を行うなど、校長や他スタッフも蔭ながら協力しました。

 

 今回のイベントのメインの一つは、実際に救援活動に従事した消防隊員のお話をうかがえることです。

英国では震災が起こると各地の消防局で救援チームが組まれ、すぐに日本へ向かって下さいました。

立教のある地区でも5名の隊員が被災地で活動されました。

当日は震災被害の様子を伝えるディスプレイボードの前で、被災地で実際に見てきたこと・体験してきたことを語り、質問一つ一つに丁寧に答えて下さいました。

ディスプレイボードはクランレー村での募金活動に作製したものをさらに拡充し、隊の方々が提供して下さった貴重な写真や、日本での地震対策、日本からのお礼のメッセージも掲示されました。

これらを通じて隊員の方々自身がその体験を語ることにより、被災地の深刻な状況がより直接に伝わったことでしょう。

終わりには彼らへ花束が贈られ、日本人として、在外邦人の私達から感謝の気持ちも伝えられました。

日本からのメッセージに答えるように、日本への励ましのメッセージを書いて下さる方もいらっしゃいました。

このメッセージは日本語へ訳し、被災地へ送る方法を模索しています。

 

 このチャリティーイベントでは、英国の方々が惜しみない協力を申し出て下さいました。

ケーキやお寿司を寄付として提供して下さった地元のベーカリーや日本食レストラン、またスタッフに無料休憩所を提供し、店内にも募金箱を置いて下さったパン屋さん、その他数多くの方々の協力を得てこのチャリティーイベントは行われました。

イベントの最後を飾ったプロのジャズ演奏もそのうちの一つ。

多くの聴衆が演奏を楽しみながら募金に協力して下さいました。

ホーシャムのうららかな土曜の午後、町に響き渡る心地よいジャズの演奏が終わり、午後4時、企画者の代表が挨拶をすると、広場に集まっていた沢山の方々から温かい拍手が起こりました。

 

 このイベントでは3,000ポンド以上の義援金が集まりました。

集まった義援金は英国赤十字社を通して日本に届けられることになっています。

震災から1ヶ月が経った今、これほどの気持ちを提供して下さった英国の皆さんに心から感謝を申し上げたいと思います。

 

 

私は今から3年前にパリという異国の地に足を踏み入れた。

そこは、その地を芸術で満たしており、少し歩けば彫刻や絵に出会う事ができる。

今日はその中の一つについて書きたい。

 

私の家からバスに乗って数十分。

ルーブルの正門を通ってもっと進むと、正面に有名な建物が見えてくる。

オペラ座、実名ガルニエ宮はその美しい柱と彫刻のお陰で、見えた側が正面だと誤解している者が多いが、本当の正面はあまりぱっとしない所にある。

私もそれを知った時に大いに驚いた。

さて、その驚きを隠そうと平常を装いながら中に入った私を待っていたのは、大理石でできた階段と、美しい彫刻の数々だった。大階段だ。

そして、私はその美しさに唖然としてしまい、必死に塞いでいたはずの口が開いてしまった。

所々でほのかに灯る蝋燭達にその美しさをよりいっそう高められた彫刻達は、薄暗い中確かに存在する、形、色がまるで緩やかに流れるバラードのように私の中に残った。

そうして上を眺めてみると、美しい天井画がそこにあった。

その天井画は四つに分かれていて、その柔らかい色彩で、この場所をうっとりとした気分にしてくれた。

そして、オペラ座の中を進んでいくと、二階のボックス席がある扉まできた。

そこで私は心臓が高鳴るのを自分で感じた。

オペラ座のボックス席に入った事がないのも、テレビの中でしか見たことの無い大きなシャンデリアもその理由の中にあるのだろうが、一番の要因はそのオペラ座の中にあるシャガールの天井画だった。

実物も見たことがなく、ただ有名だという事しか知らなかった私にとって、その絵をいち早く見たいという感情ばかりが高鳴っていった。

私が入ったボックス席はすべてが赤紫色で染められていた。

フワフワとしたカーペットを進むと、そこには、壮大な美しさが広がっていた。

中央にある大きく、美しいシャンデリアがまず目に入り、天井を見上げると、そこには大階段に負けないくらい淡く、柔らかい色彩と美しさを持った絵があった。

私はその絵の軽やかさと柔らかさに感嘆した。

そして、オペラ座の中心にあるこの二つは、まるでモンティのチャルダッシュのように淡いのに激しさを含むような雰囲気を作り出していた。

ボックス席を後にして、他に見ものはないかとぶらぶらしているところ、私は金色に輝く何かを見つけた。

不思議に思い近づいてみると、それは思いもよらぬものだった。

アヴァン・フォワイエと呼ばれるその廊下は息を飲むほどの美しさであった。

もしかすると、シャガール天井画よりも脳裏に残っているかもしれない。

すべての装飾は金色で満ちていて、さまざまな美しい天井画があり、左右にはシャンデリアが一列に(して)並んでいる。そこだけを見ればまるでベルサイユ宮殿の鏡の間のようであったが、明らかに違う点は所々に存在するシンボルマークである。よく見てみると、ハープのような弦楽器のようなそれは、お供のガイドブックによると竪琴をモチーフにしたものだった。他にもそれによれば、一見バラバラに見える天井画も音楽史をテーマにしたものであったりした。

今までガイドブックをさほど読んでいなかったが、もっとさかのぼって読んでみると、なんと大階段にあった四つの絵も音楽の寓意をイメージしているものだという。

私はそれを読んだ後、もう一度その廊下をぐるっと見渡し、大いに感動した。

このガルニエ宮は音楽を他の芸術を使って、いがみ合うことなく美しく表現しているのだ。

それに気づいた私はただただ、ため息をつくことしかできなかった。

 

(高等部2年生 女子)

3月12日に行われた卒業終業礼拝で、冬期休暇中に全校生徒が書いた読書感想文の表彰がありました。

その中から金賞、銀賞の作品を3回に分けてご紹介致します。

3回は銀賞、高等部2年女子生徒の作品です。

 

   *   *   *   *   *   *

 

「太陽の子」を読んで

 

 私の祖父は、戦争中に兵士として戦った人の1人です。

祖父は私が3歳の時に既に亡くなっているので私には一緒に過ごした記憶がありません。

これらは現在88歳になる祖母から聞いた話です。

 ある時、私はふと思い立って祖母に戦争について尋ねたことがあります。

少しの贅沢も許されなかった時代を生きてきた祖母は今でも感謝をする気持ちを忘れず、どんな些細なことにも「ありがとう」と言って手を合わせます。

今少し忘れっぽくなり私の顔も認識できるかもわからないという状態の中でも、戦争時代の頃のことは鮮明に記憶しているようです。

当時の食べ物、衣服、空襲警報、そして防空壕など、祖母の覚えている限りのことを詳しく教えてくれました。

大分前のことになります。この時、戦争中に祖父の足に鉄砲の弾が貫通したという話を聞きました。

その話を聞いて、私は初めて戦争の恐ろしさを知りました。

 この『太陽の子』という本は、私の母が子供だったころから家にあった本です。

先日この本の表紙を開いた時、1枚の紙が挟まっているのを見つけました。

それは私の母が中学生の時に書いたものでした。

内容は、『もし、私がたった1つ、あなたに語りかける言葉を持つとするなら、あなたの悩みや苦しみは、あなたの父や母、そして、あなたの「生」につながるたくさんの「死」が、同じように悩み苦しんできたということを忘れないように―。灰谷健次郎』という文章でした。

これはこの『太陽の子』のカバーに書いてあった文章です。

それが母の手によって清書されていたのです。

これを見て、私は複雑な気持ちになりました。

どの世代であっても戦争のことを心の片隅に置いておかなければいけない、それほど大切なことなのだと、これを見てまた実感させられました。

そして私も母に倣って、新しい紙に母に負けないような字で、同じ文章を清書し同じところに挟みました。

これが今の私と母の関係のように、私の子供、孫と受け継いでいき、戦争とはどんなものなのか、この本を通じて知ってもらえたらいいと思います。

 

ご存じのとおり、今の世の中では戦争をじかに体験した人が少なくなってきています。

朝日小学生新聞に戦争の被災者インタビューが掲載されていました。

やはりどれも息を呑み、目をそらしたくなるような内容ばかりでした。

戦争の様子や被災者の辛さはこの新聞を読んだ人か、周りに戦争体験者がいて話を聞いた人にしかわからないことではないかと思います。

だからこの話をしっかりと心の中に刻み付けると同時に、後の時代で同じことを再び繰り返さないように語り継いでいかなければならないのだということを強く感じました。

 

(高等部2年 女子生徒)

 

 

豊かな自然に囲まれた理想の教育環境。そしてそこで毎日を過ごす元気一杯の生徒たち。

生き生きした生活の様子、本場イギリスでの英語学習体験 …etc. ありとあらゆる情報をお伝えします。

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