6月19日日曜日、ギター部のコンサートがありました。
高校2年生のメンバーが初めて単独で開くコンサート。

先学期先輩達と一緒に行ったコンサートとはまたひと味違った初々しいコンサートとなりました。
今学期は例年に増して学校行事が続き、練習時間も侭ならないまま本番を迎えましたが、コンサート会場になったニューホールには開演前から続々と生徒たちが集まり始めました。
「まずはオープニングの曲から始めます。」と挨拶した部長自らギターの巧みな演奏を披露。

その後、今学期から加わった女子バンドも含め、合計10曲以上の演奏が続きました。日曜日の午後、受験勉強で忙しい高校3年生も、勉強の合間を縫って後輩の初めての単独コンサートの応援に駆けつけ、約1時間半のコンサートは、小学生から高校生まで沢山の人達と一緒に大いに盛り上がりました。
最後は「来学期のコンサートはもっとすごい曲を披露します。また聴きに来てください!」という部長の挨拶で締めくくられ、次のステージへの意欲を見せてくれました。

                                              

6月17日金曜日。
朝起きると、今にも泣き出しそうな空模様。
「せっかくのアウティング(遠足)なのに。」
やや残念な思いはするものの、「今日はほとんど室内だから。」と気を取り直して出発し、向かったところは、ロンドンはBATTERSEA近くの漱石記念館です。
今から約100年前、私たちと同じようにイギリスに住まって「おお!」「こんちくしょう!」「なんだろう、あれは!」などと喜怒哀楽のもとに毎日を送っていた人物です。
H2
の今日のアウティングは、午前中は漱石記念館、午後はイングランド銀行。今までにない新しい取り合わせでした。

漱石記念館は、春に裏千家ロンドン出張所から特別行事のご案内をいただいたところ。2学期の国語の授業で『こころ』を学ぶこともあって、「これはチャンス」と予定に組み込まれました。
このため、H2では6月から漱石の『自転車日記』を毎日ホームルームで、朗読当番の生徒と共に全員で少しずつ読んでいました。
実は金曜日は開館日でなかったのですが、快く訪問を承諾して下さいました。
案内して下さったのは、記念館を創設された恒松氏のご夫人。
漱石がなぜイギリス留学することになったのか、この記念館は5つ目の下宿の真向かいに位置していることや、
彼がなぜ2年の留学生活で5回も下宿をかわったのか、どんな思いで毎日を送ったのか、なぜ帰国したのか。
漱石の気持や息づかいが感じられるような、面白いお話をうかがい、見学しました。
 
何よりも、
 漱石は文部省の留学生だったけれども、十分な資金が提供されず、大学に入ることが不可能だったこと
 そのために、本を買って独学し、また大学教授や知識人に附いて個人教授で学んだこと
 少ない資金を勉学に費やすために、安い下宿を求めて何度もかわることになったこと
 社交が十分できるほど経済的余裕がなかったので、下宿の食事を摂る時間が英語を使う貴重な機会だったこと
 そのために、きちんとした英語を求めて教養のある階級のお宅を求めたこと
漱石その人の苦悩や前を向いて歩む姿に、感銘を受ける思いでした。
単身赴任だった彼が、何度手紙を送っても妻から届く手紙は少なくて、寂しい思いもしていたそうです。周辺散策中、彼が使ったに違いないビクトリア朝の郵便ポストを見て生徒がぽつり。
「なんて書いた手紙を投函したんだろうねぇ。」
「奥さんに『もっと手紙頂戴』って書いたんじゃないかなあ。」
インターネットや電話がある今でも、両親のもとを遠く離れて寮生活を送る生徒にとって家族との対話は欠かせないものです。彼らの心に響いたのでしょう。
 
さらに
 漱石の作家としての活動は、イギリス留学後、亡くなるまでのたった10年間だったこと。(意外です!)
 近代化のすすむ時代、東京帝国大学で英文学を学んだ2人目の学生で、期待の星であったこと。
 イギリス留学時代に同居していた化学者・池田菊苗氏の影響で、文学を科学的見地からも解き明かそうとしたこと。
 とにかく本をたくさん買いあさり、帰国時には300冊にもなっていたこと。
なかなか面白い話をたくさん耳にすることができました。
膨大な本の一部は、同じ物が買い集められ、今、漱石記念館に収められています。
 
昼食をピカデリー・サーカス付近の繁華街でとると、午後はイングランド銀行の博物館へ。
ふだんなかなか訪れない『ロンドンのシティー(ビジネス街)』の様子は、車窓から物珍しく目に映りました。イングランド銀行は、日本では日本銀行にあたるところ。ドルが基軸通貨となるよりも以前に、世界に大きな影響を与えた1694年設立の銀行です。入ってすぐの、インフレーションのバランス取りや、クイズを解き明かしつつ金庫開けなど、子供の心をぐっと掴む展示の数々に、立教生は大興奮でした。もちろん紙幣の歴史や、コイン刻印の機械、第一次世界大戦後の1000ポンド札、金塊を持つ体験コーナーなど、学術性の高い展示にも目を奪われている様子でした。一番人気があったのは、様々な歴史的紙幣の展示室だったでしょうか。
 
勉強色の強い遠足だったとはいえ、思わぬ面白さに、恒例のアウティングワークシートをちょこっと忘れてしまうほど、大満足して帰って来ました。
もう5年しますと、夏目漱石没後100年の年がやって来ます。

                                 

家に戻ってから、資料のDVDを拝見させていただき、在学中はなんとも思っていなかった先生方のご苦労などが今の私の年代になってひしひしと伝わってくるものがありました。
問題児ばかりの学年でしたし(13期の上下含む)、先生方を煙たがっているような感もあった私たちでしたが、立教英国を訪れた卒業生は口を揃えて「それでも笑顔で迎えてくれ、どこにも負けない、いい学校」と言います。

今の私たちがあるのは、あの厳しかった指導と生活だったと思っております。(今は甘いのでは?)
学校経営も会社経営と同じように大変でしょうが、私たち卒業生はいつまでも存続していてほしいと願っており、また現在も卒業生の子供たちが入学しているように自分たちの子をできれば入学させたいと思っているのが皆の正直な気持ちなのではないでしょうか。
私もまたできれば自分の子を入学させたいとは思っておりますがそれは私の努力次第ですので、入学させることができるように頑張りたいと思っております。

                        

今年のハーフタームはホームステイをする、と1年前から決めていました。

だらだらと過ごして後悔した去年の失敗をまた繰り返さないようにするためです。
ステイをする上で一番心配だったのは自分の思っていることをちゃんと伝えることができるかどうか、でした。

普段から英人との授業があるので、ある程度英語を理解することはできるけれど、自分の思っていることを十分には伝えきれないということがよくありました。

一緒に生活をしていくのに全く意思表示が出来なかったらあまり良くない雰囲気を出してしまうかも知れませんでした。
しかし、そんな心配は必要ありませんでした。

ステイ先の方が分かりやすい英語を使ってゆっくりと話してくださり、私が話すつたない英語を聞こうとしてくださったためです。

幸いなことに、同じステイ先だった他の2人が英語を話せたので、どうやって言ったらいいのか分からない時は助けてもらい、自分で話すことができました。

また、ステイ先のご夫婦の仲がとても良く、優しい方だったので、話しかけやすかったというのもありました。
ある時、「近くにスポーツセンターがあるから行ってみたら?」と言われ、丁度そこは次の日に近くのステイ先が近い同学年同士で遊びに行く予定の所だったので、下見をしに行くことにしました。

聞きとれたのは、「家を出てまっすぐ歩き、ホテルがある方へ十字路を曲がる。」ということでした。

言われた通りに行ってみたけれど、いくら探してもホテルが見当たりません。

変に違う道を行って迷子になるのは嫌だったので、その日はそのままギルフォードへ向かいました。
次の日、待ち合わせをしているので迷うわけにはいきません。

よく話を聞いて、もう一度その場所へ向かいました。

やはりホテルは見当たりません。

一か八か、ホテルらしき建物があったので、とりあえず曲がってみました。

だいぶ歩き進むと、目的地らしき建物が見え、それが本当だと分かったときの嬉しさは大きかったです。

そしてその時、ホテルらしき建物にはマークがあったので、特徴を聞いておけば良かったと反省しました。
毎日英語に触れて、話すことができたので、去年のハーフタームより断然良い時間を過ごすことができました。

来年も良いハーフタームに出来るよう自分なりに努力したいと思います。
(高等部2年生 女子)

 

                               

今学期も日本英語検定協会の実用英語技能検定試験が準会場である本校で行なわれました。

15名の生徒が2級を受験した他、準2級、4級を受験した生徒もいました。
また10名の高校3年生がその前日611日にロンドンの本会場で準1級試験を受験しました。
本校では日本人教員による英語の授業の他にネイティブスピーカーによる少人数制の英会話授業を設定したり、英語のプライベートレッスンを気軽に受講できる環境を整えたりしているので、イギリスならではの英語学習環境に恵まれています。

自ずと生徒たちの英語学習への意識も高まり、各種英語試験を積極的に受ける生徒が増えています。

この実用英語技能検定試験の他にも今月はケンブリッジ大学の英語資格試験があり、本校を会場にしてPETKET合わせて51名の生徒が受験する他、更に上級のFirst Certificate in Englishの試験に高校3年生8名が挑戦、ロンドンやギルフォードの会場でこの試験を受験してきました。
長い夏休みを前に、英語学習意欲が更に高まる良いきっかけになればと思います。

 

 

 

                             

主日礼拝で、高野チャプレンから生徒たちに、先週ロンドンのウェストミンスター寺院で行われ、ご自身も司式者をつとめた東日本大震災追悼式についてのお話がありました。
 
式の中で、サザーク大聖堂のIpgrave大執事が松尾芭蕉の「奥の細道」から、立派な日本語で俳句を引用し、素晴らしいお説教をなさいましたが、その全文を本校のホームページに掲載する許可を頂きましたので、以下にご紹介致します。

   *   *   *   *   *

 

 

Great East Japan Earthquake Memorial Service

A bit over three hundred years ago, the poet 松尾芭蕉, Matsuo Bashō, reached the bay of 松島, Matsushima, in what we now call 東北, Tōhoku as he travelled along his 奥の細道, Oku no hosomichi: ‘narrow road to the far north’. He wrote of Matsushima:

島々の数を尽くして, そばだつものは天をゆびさし, 伏すものは波にはらばふ。

There are an inexhaustible number of islands, some steeply rising, pointing at heaven, some lying, prostrating themselves on the waves … There are some that carry others on their backs, some that hug others in their arms, as if loving their children, their grandchildren. The green of the pines comes in delicate shades … Matsushima is ineffable, made up like a beauty’s face. The Creator’s heavenly handiwork – who can use his brush or exhaust words to his satisfaction?

造化の天工, いづれの人か筆をふるひ, ことばを尽くさむ。

Bashō’s words are a lyrical description of the humanity of the Japanese landscape; utterly entranced, he wrote that night, ‘mouth shut, I tried to sleep, and could not.’

Matsushima is in the heart of the Great East Japan Earthquake zone. In the space of a few minutes on 11th March this year, the landscape of that region turned from cradling humanity to utter horror. I will not rehearse the facts now; they are summarised on the service sheet. Matsushima itself was spared the worst effects of the tsunami, but were Bashō to revisit, the region he would surely once more find himself ‘mouth shut, trying to sleep but I could not': yet this time not for entrancement, but with dumb horror. The very landscape which had mirrored and cradled humanity had turned against its people.

How can faith respond to a situation like this? The Japanese theologian Kosuke Koyama describes how he felt in August 1945 at the end of the war in a Tokyo virtually destroyed by air raids: ‘Physically and mentally exhausted from the lack of food and sleep from the fear of death … I stood like a ghost an once again and saw the city. As far as my eyes could survey it had become a wilderness. Familiar landmarks were gone; rice shops, temples and shrines at which people had prayed … even railway stations had disappeared … The land, it seemed ‘had vomited out its inhabitants’. And the words which came to Koyama were those of Jeremiah 4:

見よ, 大地は混沌とし空には光がなかった。...山は揺れ動きすべての丘は震えていた。

I looked on the earth, and lo, it was waste and void; and to the heavens, and they had no light. I looked on the mountains, and lo, they were quaking, and all the hills moved to and fro.

Faith must speak into the devastation of both physical landscape and human society. Unlike for Koyama in 1945, for us in 2011 this devastation comes not from human actions but natural forces; that makes it all the more challenging for faith. How can faith respond to a situation like this? There are three kinds of words which faith gives us – though each can only be spoken after a proper reserve, a reverent silence.

Firstly, faith gives words to express grief, pain, sorrow, maybe even anger. Jeremiah, whose words came naturally to Koyama, is the prophet of grief and sorrow par excellence. For humans confronted with individual stories of loss, with the multiplication of those stories into an immensity of suffering and pain, there is need to express sorrow in the deepest language of our hearts; and faith provides that language. Some of the most poignant images of the earthquake have been of rescue workers, their hands joined in prayer to comfort the souls of those whose bodies they have found; the dignity, courage and patience of the Japanese people in expressing their sorrow has humbled us all.

Secondly, faith challenges us with words of love, the love we owe to our brothers and sisters in adversity. This impulse of love is known to every human being; it is an imperative of faith for those who believe. It has been evident in the selflessness of so many caught up in the calamity, their first thought the safety of family, friends, neighbours; in the perseverance and bravery of rescue workers; in the generosity of those who provided shelter, food and comfort; in the readiness of volunteers to risk their health and life safeguarding the damaged nuclear plant; in the ongoing commitment of tens of thousands to rebuilding devastated communities; in the response of people worldwide to appeals like that of the Red Cross Tsunami Appeal. Christians, Buddhists, followers of Shintō, members of newer Japanese religions have all committed together to this loving response of faith. The task has been even more challenging because of the damage and loss their own buildings and people have suffered; I know that is so for the 日本聖公会, Nippon Seikōkai, and it must be true for others also. But they have kept going; as it says on the badge I have worn for the last ten weeks: がんばれ日本! がんばれ東北! Gambare Nihon! Gambare Tōhoku!

Lastly, faith comforts us with words of reassurance and of hope, words we need after a trauma like this. We need to know that the vision of Bashō is not misplaced: that the world in which we live is truly a place where we belong, a landscape in which we can trace our familiar humanity. Of this all the world’s religions speak with assurance: that there is a secure place for us in the cosmos, a place we find through reverence, humility, the limitation of our desires. However we explain it, the natural world, ‘the Creator’s heavenly handiwork, 造化の天工, is our home. And our second reading this evening goes further still, for it speaks not only of natural landscape restored but of human community renewed. The Book of Revelation shows a city transfigured and enlarged through the inclusion of all the peoples and languages of the world. Those who have died and those who are yet to die, all have a place in God’s purposes for his people. In this transitory world, with all its pain and all its beauty, our human vocation is to live life fully with our God:

He will guide us to springs of the water of life, and God will wipe away every tear from our eyes.

命の水の泉へ導き, 神は我らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。

 

 

⇒「ウエストミンスター寺院 東日本大震災追悼式 報告〈本校チャプレン 高野晃一〉」

 

「私の古い友人たちに日本の茶道を見せてあげられませんか」

4月が始まってまだ日が浅い頃、こんな問い合わせが舞い込みました。

差出人は、数年前まで立教でG.C.S.E.物理の教鞭を執っていらっしゃったミセス・ギンバー。ご自分の学生時代、共にアメリカに留学してサイエンスを学んだ仲間と同窓会を開くことになり、その折りに古巣の立教を訪問して友人たちに日本文化を楽しんでもらうことを思いついたのです。

 立教茶道部は、海外というなかなか思うようにゆかない環境ながらも、道具を揃え、JAPANESE EVENING やオープンデイなどのイベントを中心に、忙しい合間を縫って活動を楽しんでいます。今回の依頼は、良い機会の一つとなりました。

 茶道部が考えた当日のプランは、

1.茶席の流れを披露(デモンストレーション)

2.お客様に茶菓と抹茶を味わってもらう(点て出し)

でした。デモンストレーションでは、4月入学の中1生徒が点前を担当し一大イベントを盛り上げてくれることになり、さらに主客として、経験豊かな高2生徒がしっかりと場を引き締めることになりました。お客様の設定は2名。もう1名(次客)は、来校する英国人の方々から参加をお願いしました。約20名の方々が見ていらっしゃる中での披露は緊張を強いられるものでしたが、ちょっとした手違いもありながら、デモンストレーションは滞りなく終了しました。

 点て出しには、茶道部員ほぼ全員が参加しました。衝立の向こうできれいに抹茶を点てる生徒、お客様にお菓子を配る生徒、できあがった抹茶を配る生徒……抹茶を点てるのも、お菓子や抹茶を配るのにも、私たちが普段知る日本文化のマナーが自然に茶道の世界に生きています。たとえば、相手にお茶碗やお菓子の正面が向くように渡すこと。本やハサミを渡すときにも、相手に使いやすいように渡します。それが「正面」です。また挨拶として一礼すること、これも普段自然に実行しているマナーの一つです。「茶道」という言葉で表現するものの、作法を通して、私達の中に根付いている日本らしい振る舞いというものを改めて考える機会になっているのではないでしょうか。抹茶の点て方や配り方の練習を通して、生徒の心にそういった発見があったのではと思います。練習の甲斐もあって、スムースに点て出しは行われ、抹茶とお菓子を楽しんでもらうことが出来ました。

会の終わりには、ミセス・ギンバーから感謝の言葉をいただきました。

帰られる英国人の方の中には、会場となった広間の隅にある剣道具に興味を示され、「あれは何?」「君たちは剣道できる?」「次は剣道をぜひ見たいな。」と仰ってゆかれた方もありました。

部活動は練習を通じて鍛錬の場所となりますが、試合やイベントはより一層向上してゆく良い機会となります。ミセス・ギンバー、お友だちの英国人の皆様、すばらしい機会を有り難うございました。また立教にいらして下さい。

Mrs.Gimber and friends, thank you very much for coming to Rikkyo School.  We had an enjoyable time with you.  We look forward to seeing you again. 

 

G.C.S.E.についてはこちら

JAPANESE EVENINGについてはこちらへ。

*当日の様子についてはこちらで写真をご覧になれます。

                    

「イギリスの家庭を体験して」

私が立教生として初めてホームステイをしたのは、イーストグリンステッドに住む家族のお家ででした。

そちらの母親というのは、20年間日本で働いていらっしゃった方であり、また2人の娘さんがいたのですが、どちらも日本人とのハーフでありました。

つまりイギリス、日本のどちらからの目線でも話せるという、とても恵まれた環境であったと思います。
義理の父親と兄を含め、7人で住んでいたので、毎日がとてもにぎやかでした。

ホームステイの初日には、ブリティッシュワイルドライフセンターというところに連れて行ってもらい、たくさんのイギリスの野生動物を見たり、イギリスの歴史や環境問題を学んだりしました。

小さな町ですが、イーストグリンステッドもとても歴史がある町で、第二次世界大戦中の負傷者のための施設としてできた病院が、今でもプラスティックサジェリーの専門病院として在るのは有名です。

母親のエリザベスさんは、その病院で現在働かれているそうです。他にもたくさんの国で働いたり住んでいた経験のあるご家族だったので、いろんな視点からたくさんのことを話してくれました。

娘さん2人とは日本の学校とイギリスの学校の違いや勉強の仕方の違い、カルチャーの違いなど一週間を通してずいぶんと話し合いました。
イギリスの家庭と日本の家庭を比べた時に、ライフスタイルの違いというのがまず大きいと思いますが、イギリスの方が家族で過ごす時間というのは長いように思います。

それぞれの家族によって違ってくると思いますが、私が今までに知り合った欧米人の話を聞く限り、日本人の家庭はある程度の年になると、家族と過ごす時間はとても少なくなるけれど、欧米ではホリデーを必ず一緒に過ごしたり、両親の仕事も子どもの習い事などもきちんと夕方で終わるようなので、夜の時間を家族で過ごすことができるんだと思います。

不思議なことに、イギリスと日本のティーンエイジャーを比べた時に、イギリスの若者の方が大人だとよく言われますが、イギリスの家庭も十八歳になるまで、つまり成人するまでは、きちんとした家庭教育がなされるのであり、それゆえの自立があるのだなと思います。

欧米では、ファミリーを大切にすること、そしてその気持ちを表すことがごく自然にできることが良いなと私は感じていますが、日本の文化や精神を考えると、その良さも改めて感じることができ、やっぱりどっちが良いということはできないなと思います。
ホームステイ最後の日には、義理の兄のバンドのコンサートを見に、ブライトンへ行きました。

本当に楽しい時間でした。

このホストファミリーは偶然だけでなく出会うべくして出会ったように思えることがたくさんありました。

エリザベスさんが言っていた「私が若い頃日本のホストファミリーにお世話になったから恩返しのつもり」という言葉を、いつか私も言えるようにしたいと思います。

(高等部2年 女子生徒)

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