「イギリスの家庭を体験して」

私が立教生として初めてホームステイをしたのは、イーストグリンステッドに住む家族のお家ででした。

そちらの母親というのは、20年間日本で働いていらっしゃった方であり、また2人の娘さんがいたのですが、どちらも日本人とのハーフでありました。

つまりイギリス、日本のどちらからの目線でも話せるという、とても恵まれた環境であったと思います。
義理の父親と兄を含め、7人で住んでいたので、毎日がとてもにぎやかでした。

ホームステイの初日には、ブリティッシュワイルドライフセンターというところに連れて行ってもらい、たくさんのイギリスの野生動物を見たり、イギリスの歴史や環境問題を学んだりしました。

小さな町ですが、イーストグリンステッドもとても歴史がある町で、第二次世界大戦中の負傷者のための施設としてできた病院が、今でもプラスティックサジェリーの専門病院として在るのは有名です。

母親のエリザベスさんは、その病院で現在働かれているそうです。他にもたくさんの国で働いたり住んでいた経験のあるご家族だったので、いろんな視点からたくさんのことを話してくれました。

娘さん2人とは日本の学校とイギリスの学校の違いや勉強の仕方の違い、カルチャーの違いなど一週間を通してずいぶんと話し合いました。
イギリスの家庭と日本の家庭を比べた時に、ライフスタイルの違いというのがまず大きいと思いますが、イギリスの方が家族で過ごす時間というのは長いように思います。

それぞれの家族によって違ってくると思いますが、私が今までに知り合った欧米人の話を聞く限り、日本人の家庭はある程度の年になると、家族と過ごす時間はとても少なくなるけれど、欧米ではホリデーを必ず一緒に過ごしたり、両親の仕事も子どもの習い事などもきちんと夕方で終わるようなので、夜の時間を家族で過ごすことができるんだと思います。

不思議なことに、イギリスと日本のティーンエイジャーを比べた時に、イギリスの若者の方が大人だとよく言われますが、イギリスの家庭も十八歳になるまで、つまり成人するまでは、きちんとした家庭教育がなされるのであり、それゆえの自立があるのだなと思います。

欧米では、ファミリーを大切にすること、そしてその気持ちを表すことがごく自然にできることが良いなと私は感じていますが、日本の文化や精神を考えると、その良さも改めて感じることができ、やっぱりどっちが良いということはできないなと思います。
ホームステイ最後の日には、義理の兄のバンドのコンサートを見に、ブライトンへ行きました。

本当に楽しい時間でした。

このホストファミリーは偶然だけでなく出会うべくして出会ったように思えることがたくさんありました。

エリザベスさんが言っていた「私が若い頃日本のホストファミリーにお世話になったから恩返しのつもり」という言葉を、いつか私も言えるようにしたいと思います。

(高等部2年 女子生徒)

                               

                        

ウエストミンスター寺院  東日本大震災追悼式

 平成23(2011)6月5日()午後630分-8時、ロンドンのウエストミンスター寺院に約2000人の人々が集まり「東日本大震災追悼式」が行われました。こちらでは4月以来ほとんど雨が降らず、草原も茶色に変わり野菜や果物、麦やトウモロコシなどの生育にも心配がなされていましたが、なぜかこの日は大雨の日でした。礼拝堂内は半数が英国人や各国の人々、半数が日本人の人々で満席、まさに会衆席は埋め尽くされました。当然の事ですが、つい先日行われたウイリアム王子とケイトさんの「ロイヤル ウエディング」の司式者団のうち、カンタベリー大主教を除いた、ほとんど同じ寺院のキャノンたちが司式して行われました。これに私も司式者の一人として招かれ加わりました。会場に備えられた礼拝式文のパンフレットの表紙には、墨で記された「絆」の文字がありました。礼拝堂の中は充実した緊張の雰囲気が感じ取れました。

 1995年阪神淡路大震災が起こり大坂川口の主教座聖堂も塔が壊され礼拝堂も傾きました。私はその礼拝堂の床から鉄の棒を拾い、それで主教の十字架と指輪を作り身に着けて復興を誓いました。この礼拝にもその十字架と指輪を着けて司式に加われたのは、日本では縁と云うのでしょうか。

 聖歌と共に十字架を先頭にしたプロセッションで式は始まりました。開会のお祈りに続き現在ロンドン大学の大沼教授が震災、津波、原発,避難などの経過と現状について報告されました。ここで朗読された旧約聖書の日課「エレミヤ書42326節、31章1-6節」には、震災と全く同じ様子が記されているようで驚きを覚えました。続いて英国赤十字社の代表がその活動について話され,今までに義援金14億円が集まり現在も続けられています。今回の礼拝の前後にも募金が行われ義援金に加えられます。

 続いて追悼の式として、約30名の日本人の子供が手に灯したロウソクを持って並び行列、司式のキャノンと在英日本大使が花束を供えました。それと同時に日本山妙法寺の僧侶数名による「南無妙法蓮華経」の朗々たる読経、また数人による大太鼓の奉納の音が礼拝堂内に大きく勇壮に響き渡りました。さらに岩手花巻の宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」の朗読が続きました。私が中学三年生のとき花巻に賢治さんの両親と弟さんを訪ね、仏壇の前でこの詩が記されている手帳を自分の手に取って読んだことがあるので、これもまた胸に深く響くものがありました。この詩の心こそ復興を願う私たちの願いそのものでしょう。

 ロンドン橋の南サザーク大聖堂の大執事の説教は、松尾芭蕉の「奥の細道」から、立派な日本語で俳句を引用し朗読した深くもまた素晴らしいものでした。礼拝後に私が「私も芭蕉が好きで何度も跡を訪ねましたが、今回は本当に驚きました。」と話すと、彼は「芭蕉は大きくて深く大好きです。東京の隅田川近くの芭蕉庵にも行きました。」などと話していました。

 日本人女性合唱団のスコットランド民謡「埴生の宿」の英語と日本語の合唱の後、私と他の日本人二人で日本語と英語で、亡くなった方やその家族のため、避難している多くの方々のため、放射能汚染に苦しむ人々のため、また政治や地域の指導者、復興に向けて努力している様々な分野の人々のため、こうした人々に主の恵み励まし希望が与えられるようお祈りしました。最後は主の祈りと祝祷です。

 再び十字架を先頭にプロセッションで退場の後、司式者団は出入口に立ち挨拶を受けました。私も何十人という人々から「今回の礼拝は本当に素晴らしかった。深く胸を打たれた。思わず目に涙が溢れた。イギリスや世界の人たちがこんなにも日本を応援してくれているのか良く分かって感動した。」などと次々に感謝の言葉を掛けられました。私も心から感謝の気持ちに満たされ、この礼拝を計画し実現に協力して頂いた英国聖公会とウエストミンスター寺院の沢山の人々に深く感謝し、「この礼拝を通しても分かるように、英国や世界の人びとが日本の人々のことをこんなにも心に留めお祈りし支援して下さっていることを必ず日本の教会や人々に伝えます。」と話しました。実際に今までもこちらで会う英国や各国の人々は会うと必ず声をかけて下さいます。

 翌日の朝学校に来たら、立教の先生から「JSTV(日本衛星放送テレビ)のニュースで、昨夜の礼拝の様子を放送していて、高野先生の姿もきちんと映っていましたよ!」と言われました。ここに海外でも多くの人びとが日本の復興を心から願い祈っているということをお伝えしたいと思います。  

 これらの様子はここ立教英国学院の生徒たちにも伝え、礼拝式文の表紙に記されていた「絆」の文字の意味と、イエス様が教える「共に生き愛することの大切さ」を話し学びたいと考えております。

 

 

 

 

 

 

⇒「ウェストミンスター寺院で行われた東日本大震災追悼式のサザーク大聖堂Ipgrave大執事によるお説教を掲載。」

      
                              

正直、自分がもうこの学校を卒業することが信じられない。

春休みが終わったらまたここに帰ってくる気がするくらいだ。

休みが終わったらまたイギリスに行く、この5年間でこれは僕にとってもはや当たり前のことになっていた。

しかし僕は卒業式を最後にここを去る。

学校にいる間はいつも早くこの学校を卒業して、大学生になりたいと思っていた。

だが、今の自分の気持ちを正直に書くと、ここを去ることが本当に悲しい。

そして、憧れていたはずの大学生になることが不安なのだ。

もし叶うならば僕はこのクラスでずっといつもみたいに馬鹿をやったり、時にはまじめな話をしたりして楽しく過ごしていたい。

しかし、それは無理な話であって、これからは各々の道を進まなければいけない。

僕も楽しかった思い出にばかり浸るのをやめて進まなければならない。
それでもやはり今までとは全く違う生活を送ることに不安を覚える。

しかし、この学校で経験し、培ってきたたくさんのことがあるので僕はなんとかやっていける気がする。

例えば、協調性。

これは全寮制のこの学校だからこそ学べたことである。

もしここに来てなかったら周りを気遣うという大切なことがあまりできなかっただろう。

他にも常に友人と一緒にいたからこそ日本の学校以上の人とのつながりを手に入れることができた。

書き始めると自分が本当にたくさんのことを得てきたことを実感する。
今まで一緒に過ごしてきたクラスの皆、後輩、先生方には本当に感謝しています。

5年間、本当にお世話になりました。

また皆さんにお会いできる日を楽しみにしています。

 

 

 

 

           

5月末、高校3年生の引退試合が相次いで行われました。
20
日(金)は女子バスケットボール部vs教員。
21
日(土)は男女バレー部がEpsom collegeにてEpsom Cup争奪リーグ戦。
22
日(日)は卒業生が所属するロンドン社会人サッカーチームとの対戦。
翌週には男子バスケットボール部とバドミントン部が高3vs後輩との試合を行い、これらの試合を最後に高校3年生は部活動を引退しました。
 
女子バスケットボール部の試合には、現役時代、球技大会でMVPを獲得したこともある卒業生の塚田さんが、急遽教員チームに参加。また、サッカー部はこの日のためにわざわざ日本から卒業生の忠政さんが、ドイツからは吉田さんが駆け付けて下さいました。結果は3-3の引き分け。あと少しという惜しい試合でした。
男子バスケットボール部は後輩に圧勝。男女バレー部も今まで以上に良い試合をし、高校3年生の意地を見せてくれました。
 
これからは大学受験に切り替えていく高校3年生。彼らが部活動に対して熱心に取り組んできた姿勢を見て、後輩たちもこれからますます真剣に取り組んでいくことでしょう。

                                          

立教のHPを拝見させていただきました。相変わらずの恵まれた環境で学生さん達が生活できるのは、うらやましいです。僕が中2のときに入学した時はまだプレハブ時代でしたから、建物など随分と立派になったと感じました。
また、写真でお世話になった多くの先生方がまだいらっしゃるのを見て、思わず嬉しくなりました。当時反抗ばかりしていた自分が恥ずかしいですけど、まだ皆さんがいらっしゃる間に立教にお邪魔したいものです。
Science Workshop
は素晴らしい企画ですね。うらやましい!自分も30代半ばとなり随分と頭が固くなってきたことを嘆いていますけど、柔軟な10代からそのような経験ができることは、本当に恵まれていますね。
人間は自分のもった夢の大きさ以上の人間にはなれないと思っていますので、生徒の皆さんには大きく夢を持ってほしいものです。

被災地で思ったことのレポートと写真を添付しました。今後も、僕にできることがあれば何なりとおっしゃってください。

 

   *   *   *   *   *

 

【未来への切符被災地での2週間】

 

18期生 渡瀬剛人

2011年3月11日。テレビの津波映像から目を離せなかった。オレゴンにいた自分は、その現実を実感できないでいた。しかし何回もその映像を見せられるうちに、それが現実であることを無理矢理押し付けられた。すぐに被災地に飛び立ちたいという衝動と仕事と家族に対する責任の狭間で、心は揺れ動いていた。二週間後、自分は被災地、本吉(気仙沼市近郊)にいた。

被災地に向かう車の中からみる景観には驚かされた。大地震が起こったはずなのに、何事もなかったかのように建物は整然と立っており、道路は滑らかで、畑には農作物が植わっている。しかし、ある点を過ぎたら全てが変わった。建物はおろか秩序そのものがなくなっている。変わりに、ゴミの山と混沌が辺りを支配していた。

着いたのは本吉市にある市民病院。30床ほどの小さな2階建ての病院。倒壊は免れたが、津波時には1階は水没。1階にあったCT、検査機器、カルテ、エレベーターなど全てが使い物にならない。電気のスイッチを入れても、スイッチの音だけが悲しく響く。水道の蛇口をひねっても、出てくるのは水数滴のみ。寝食と診察をする2階に荷物をおろし、自給自足の生活が始まるのだと自分に言い聞かせ、寝心地の悪い床で眠をとる。

患者さんは、避難所や自宅などから来院する。一日に200人以上の患者さんが様々な訴えをかかえて来院する。単なる風邪や関節痛から、命に関わる呼吸器疾患、心臓発作、脳梗塞と色々だ。 まず大変だったのは、エレベーターが壊れて使えないので、自力で2階に上がれない患者さんは、担ぎ上げないといけない。また、まともな検査もできないため、医療の原点である問診と診察が大切となる。薬も例に漏れず不足しているために、数日分しか処方できない。こういった状況では最高の医療を求めていてはダメだ。最善の医療を求めようと心に決めた。

東北の人たちは気丈だ。患者さんの中には家を流された人、家族を亡くした人が多くいる。しかし、皆、決して取り乱すこともなく、礼儀正しい。また、それぞれの訴えが氷山の一角であることも知る。ある中年女性が「肩が痛い」という訴えで来院した。肩の痛みに対して痛み止めを処方して帰そうとし、何気なくどうしたのかと聞いたところ、聞き入らずにいられなかった。その女性は津波に流され必死で家の屋根にしがみついていたところ、流れてきたタンスがぶつかってきて肩を痛めたとのこと。その衝撃でまた更に津波にのまれ、どうして自分が助かったのか分からないと小声で言っていた。被災地では、単なる「肩の痛み」が、とてつもない重さをもつのだ。

被災地での活動が終盤に差し掛かってきた頃に、ふと疑問がわいてきた。自分は多くの患者さんを診てきたが、果たしてどれほど役に立ったのか分からなかったのだ。自己満足に浸っているだけかもしれないという不安がよぎった。そんな時に出会った、ある患者さんのことが忘れられない。この患者さんは初老の女性であり、コレステロールの薬を処方してもらうために来院していた。

女性:(薬を胸に抱きしめ)先生、本当にありがとうございます。これで助かりました。ホッとしました。

自分:薬ぐらいでそんなに感謝しないでください。こっちが恐縮するじゃないですか。

女性:(しばらくの沈黙の後に)私は、赤子の孫以外の家族全員を津波に奪われました。孫にとって唯一の肉親が私です。孫が成人するまでは私は頑張らなきゃならんのです。病気にはなれんのです。この薬は他の人にとっては単なる薬かもしれんけど、私にとってはかけがえのないものなのです。この薬は私にとって未来への切符みたいなものです(そう言って彼女は大切そうにその薬をしまい、お辞儀をしながら部屋を出ていった)。

被災地で医者として何ができたか?正直、大きなことは何もできなかった。 しかし、薬を処方すること、手を握ること、話を聞くことは何十回、何百回としてきた。そういった行為が、患者さんにとって未来への切符ともなればいいかと、少しだけ安堵の表情を浮かべながら自分は被災地をあとにした。

 

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渡瀬さんが現在勤めているOHSU-Oregon Health and Science University

救急科のHP

http://www.ohsu.edu/emergency/news/

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