中3国語では1か月近い期間を使い、「コロナ禍と社会について考える」という単元を行いました。生徒個々人の頑張りは勿論、月曜のオンライン学習で課題文を読んだ後Googleフォームで振り返り・質問への回答、木曜のインタラクティブ授業で読解内容の確認と交流という形で進められたからこそ出来た学習です。今回は、学びをまとめるために各自で問いを立てて文章を書くということをしてもらいました。今後も彼らは答えの明確に出せない問いと格闘しながら考え続けてくれることでしょう。授業担当として大いに期待しています。

生徒の書き上げた文章を3回に分けてご紹介します。今回は下記3点です。

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コロナ禍の社会とペストについてのまとめ

私が今回のまとめの文章の中でとりあげようとしている問いは、「物語の主要な登場人物は最終的に何を目指しているのか」ということである。『ペスト』の小説自体が難しかったので自分なりの解釈で話をまとめようと思う。私が説明するのは、リウー、コタール、ランベールの三人で、それぞれの立場から考える。まず、コタールは、犯罪歴のある男で逮捕されることに恐怖心を抱いていたが、ペストによる混乱の中で人々が恐怖しているのを見て、おびえているのは自分だけでないと感じている。そのためペストの混乱に安心感をいだいておりこの混乱がおさまることを望んではいない。

ランベールはパリに住む新聞記者だが、ペストが流行するオラン市に閉じ込められてしまう。妻が待つパリへ帰るため脱走をこころみる。だが最終的に、リウーも妻と離ればなれになっていることをきかされ、リウーに協力を申し出る。リウーは決して名医ではない。ペストをくいとめられるわけではないが、死にそうな患者の手当てからにげない立派な医者であり、ペストがはやく終息することを願っている。こうして登場人物それぞれの想いを見ていくと、人間の薄汚さや生きることの本質が分かりやすいような気がする。それは現代社会でも同じで、ほとんどの人がリウーのように終息を願うが、中にはコタールと同様に混乱が心地良いと感じる人もいるのだろう。しかしやはりコロナは乗り越えていくべき壁だと思う。医療従事者の方をはじめとし一人ひとりの意識によってコロナが一刻もはやく終息することを願う。

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漫画『ジョジョの奇妙な冒険』とともに考える正義

まず前提として、このまとめ文章は僕の思うことをまとめたものです。不確かなことを事実として断定したり、僕の考えを押し付けようとしたりするつもりはないことを理解していただきますよう、よろしくお願いします。

はじめに
今回の国語の授業内で小説『ペスト』の一部を読んで、僕は正義について疑問が生まれました。正義とは何なのか?は人によって違うものだと思います。二つの違う正義感を持った人物が対立したときどうするのが正しいのか?という疑問です。しかし、この小説『ペスト』は僕にとっては少し難しい内容の物でした。なので、このペストを読んで生まれた疑問について、何とか思考するために他の資料を用意しました。その資料とは!漫画です。資料として出させていただく漫画は『ジョジョの奇妙な冒険』という作品で作者は荒木飛呂彦先生です。なので、このまとめ文では僕の好きな人気漫画『ジョジョの奇妙な冒険』とともに正義について考えていきたいと思います。

『ジョジョの奇妙な冒険』とは?
まず、『ジョジョの奇妙な冒険』とともに正義について考えるにあたって、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』についての基礎知識が必要だと思います。なので、大体の登場人物や、その性格、人間関係、などを書いておきます。大体知っている人は読まなくてもいいと思うので、次の題名まで飛ばしてください。まず、このまとめ文では『ジョジョの奇妙な冒険』、通称『ジョジョ』(今後は『ジョジョ』と表記します)の数あるシリーズの中でもその原点である『ジョジョ‐第一部ファントムブラッド』の少年期にしぼって考察をしていきたいと思います。

「この物語はある2人の若者と、血塗られた伝説を持つ古代アステカの石仮面にまつわる奇妙な物語である。」‐ジョジョ ファントムブラッド冒頭。この作品の舞台は立教英国学院ができる前の時代、1889年のイギリス。主人公はジョナサン・ジョースター(今後はジョナサンと表記します)で、周りのみんなから名前に「ジョ」が二つ付いていることから、ジョジョと呼ばれています。父は名門貴族ジョージ・ジョースター卿で、かなり裕福な家庭で育っています。ジョナサンは正義感が強く第一話の登場シーンでは、からかわれている少女を助けるために少女をからかっている男たちに殴り掛かかっています。一見かっこいい正義のヒーローに見えますが、その直後にその男たちにボコボコにされています。このことから、ジョナサンは勝てないケンカにでも、自分の正義感を信じ貫き、正しいと思ったことを行動に移す性格だという事がわかります。ジョナサンは立派な紳士を目指していますが、少女を守れても、ケンカには勝てなかったり、テーブルマナーがなかなか身につかなかったりと、あまりとんとん拍子にうまくいっているわけではありません。なので、一言でいうとジョナサンは「真面目だけど不器用」な性格なのです。

対して、この物語のいわゆる悪役として登場するのがディオ・ブランドー。彼はイギリスの貧民街の出身で、彼の父、ダリオ・ブランドーの死をきっかけにジョージ・ジョースター卿の養子になります。彼は、悪役でありながら、非常に利口で器用です。しかし、その行動理念はいたって単純かつ欲望的で、自分が一番でありたいというたったそれだけです。しかし、その単純な欲望のためなら何でもするのが彼の恐ろしいところでもあります。その証拠に彼はあるシーンではジョナサンに向かって「いいか!ジョジョ最初に言っておく!これから君の家にやっかいになるからといって僕にイバったりするなよな。ぼくは一番が好きだ。ナンバー1だ!誰だろうとぼくの前でイバらせはしないッ!」と言っています。このセリフだけならまだかわいいものですが、彼の性格はその行動にも出ており、かなり序盤の方で「犬の人間にへーこらする態度が気に入らない」という理由でジョナサンの愛犬ダニーを焼き殺しています。同じ十四歳の行動とは思えません。

一見、彼は自己中な奴だとみんなに嫌われそうにも思えますが、彼のカリスマ性にたくさんの人が惹かれています。ディオの取り巻きのひとりが「さすがディオ!俺たちにできないことを平然とやってのけるッそこにシビれる!あこがれるゥ!」と言っています。ディオは一言でいうと「悪のカリスマ」って感じですかね。
他にもたくさんの登場人物がいますが、今回はこの対照的な二人で悪と正義について考えていきたいと思います。

やっと本編
上のキャラクター説明ではジョナサンとディオの二人は対照的だといいました。では二人には共通点はなく、ディオが悪役だと決まっているのでしょうか?
二人にも共通点はあると思います。二人とも、他人に流されずに、自分の意見をしっかりと持っていて、なおかつ行動派であるという事です。ジョナサンは確かに人気キャラクターです。彼のまっすぐな部分は多くの人にとって正義感が強い少年に見えるでしょう。しかし、ディオも人気キャラであることは確かです。ときどき僕も彼のカリスマ性にはとても惹かれることがあります。悪行を働いている悪のカリスマでさえ、魅力的に見えることは少なからずあるという事です。では、その人は、この例でいうとディオは悪行を働いているから人気キャラなのでしょうか?

僕は一概にそうとは言えないと思います。確かに、すがすがしいほどに欲望的で、一瞬の迷いもなく極められた悪というのは多くの人が「かっこいい!」と感じさせられるものがあるのかもしれません。しかし、ディオの行動がすべての人にとって悪行なのでしょうか?例えば、上の『ジョジョの奇妙な冒険』とは?の中で、ディオの取り巻きの例を挙げました。取り巻きはディオの行動を見て「さすがディオ!俺たちにできないことを平然とやってのけるッそこにシビれる!あこがれるゥ!」と言っています。これは普通の人にはできない悪行をディオは平然とやってのけるので一種の「ワル」にあこがれる精神と似たようなものなのでは?と思う人もいるかもしれません。しかし本当にそうなのでしょうか?人によって正義感が違うという話はよく聞いたことがあると思います。しかし、ディオのよう悪を極めた存在にとって、正義感がどうだとかはどうでもいいのではないでしょうか?自分がやっていることが正しいのか?なんて考えていたらディオはダニーを焼き殺せたでしょうか?おそらくですが、彼の場合、彼自身がやっていることが悪行だと理解していると思います。少なくとも、他人に配慮した善行ではないという事は十分に理解しているはずです。しかし、ディオの取り巻きにとってディオの行動は正義だったのかもしれません。
つまり何が言いたいかというと、正義感は人それぞれで、行動を起こしている人にとってその行動が悪だったとしても、それを見た人が正義だと思えばその人にとってはその行動が正義だという事です。

まとめ
ここからは少し強引にまとめていきます。
最初の問い、二つの違う正義感を持った人物が対立したときどうするのが正しいのか?に対しての答えを考えていきたいと思います。まずこれに対しての答えは断定はできません。しかし、僕が思ったことは対立したのが二人だった場合は、たくさんの周りの意見が必要だと思いました。片方にだけ肩入れするのではなく、両方肯定派、片方肯定派、両方否定派などたくさんの意見を持った人たちと話し合うことで、状況はかなり変わるということです。状況を解決するのではなく解決を目指して改善していく事が大事だと思います。お互いを尊重し、なおかつ各々が自己主張をする。そういう世界にできたらいいなと思います。

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コロナ禍の中で、私の立場なりに出来ることは何だろうか

私は、コロナ禍が私自身に大きな影響を与えたか、というと実のところあまり実感が湧かない。今もこうして変わらず勉強したりテレビを見たり、美味しいご飯も食べられたりと、何不自由なく日々生活を送っている。つまり、コロナ禍による外出禁止といえども、私はそこまで事の重大さを理解できずに、のほほんとその命令に従うだけであったように思う。コロナは、私と近いようで遠い存在なのだ。

そんな中で私は、国語の授業で『ペスト』という本と出会った。この本は、感染症が生活の中に降りかかってきた時の人々の様子が描かれていて、今のコロナの状況と重ね合わせると、ふと気付かされることがたくさんある。授業では、この物語の部分的なところしか扱わなかったけれど、その中で私が強く感じたことがある。それは、「深い」ということだ。

テレビなどで注目視されるのは偉い人であったり、特別にすごい人であったりと、社会の明るい、見える部分が多い。しかしペストには、医師、観察者兼記録者、新聞記者、凡人や悪役的な立場の者など、幅広いキャラクターが登場する。そしてその凡人であったり、悪役的な立場の人間にも、スポットライトが当てられているのだ。善は善、悪は悪、といった見方ではなくて、本当にいろんな人の意見を交えた内容になっている。

その意見のぶつかり合いの中で、印象深かった場面がある。新聞記者のランベールが、医師のリウーから保健隊に入らないかと誘われるがそれを断った場面だ。そしてその理由を、「僕はヒロイズムというものを信用しない」、「僕が心をひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということ」というふうに述べていた。私は、人助けの行為に反対するランベールに対して、どうして入らないのかという気持ちでいたが、彼には彼なりの理由があり、私もそれを悪いとは思わず、素直に納得できた。その答えに対して医師は、「今度のことはヒロイズムなどという問題じゃない」、ペストと戦う唯一の方法は、「誠実さ」であり、その誠実さというのは、「自分の職務を果たすこと」と述べている。リウーは医師という立場からして、社会の中ではヒーロー的な存在である。だからといって称賛するわけではないけれど、リウーの本質を理解した上での考えというか、その心意気は素晴らしいと思った。日々感染者が増加して疲労困憊する中、患者さんに対する同情の気持ちが消えつつも、医師として感染症と誠実に向き合う姿はとても尊敬した。

このように、善い行為に反する人がいけないとか、ヒーロー的な人だからすごいとかそういう問題ではないんだということを、私なりに理解した。感染症との戦いと立ち向かうのは、医療関係者や政府などの社会の見えるところに存在する者だけでなく、見えないところで過ごしている私のような学生や、大人たちであったりすることに変わりはない。そしてたくさんの人が自分の職務をまっとうしていることだろう。だから私も、私の立場なりに出来ることを精一杯まっとうしたいと思った。

授業で、あるひとりの看護師さんからの意見を知る機会があり、「何をしたらありがたいか?」というクラスメイトの中の誰かの質問があった。私は、マスク着用とか、三密を防ぐこととかを予想していたが、看護師さんは「みなさんの身近な医療者に応援のエールを送ってほしい」と回答された。それは、コロナと身近にいるからこその意見だと思う。そのような立場にいる人の意見や気持ちを知るということは、私みたいに感染症の重みを知らない人にとって物事を考えるきっかけとなり、ある意味私の「誠実さ」であるのではないかと感じた。この世の中には本当にたくさんの人がいて、たくさんの意見、考え、思いがあるのでこれが正解というのは分からない。また、自分が行動に移すだけで社会が変わるわけでもない。でも、自分なりに出来ることをまっとうするという「誠実さ」は、大事にするべきではないだろうか。そして、私は他人の意見を理解、尊重するとともに自分なりに深く考えられるようになりたい。

中1国語では、1学期の締めくくりとして稲垣英洋さんの「ダイコンは大きな根?」を読みました。作品を読んで、大根の上・下の部分、また、すりおろし方で味が異なることを知ったうえで、実際に自分でダイコンの味や特徴を調べて説明文に書きまとめるという「ダイコン・プロジェクト」を企画しました。

大根を買いに行くことから始まり、自分の手ですりおろした大根おろしを食べ比べたり、家族と協力して大根おろしに合う料理をつくってみたりなどして作品を完成させました。作品は、クラスの中で共有し、互いに読み合ってコメントを送ることによって、読者と作者の立場を経験するだけでなく、オンライン上でしか顔を合わせたことのないクラスメイトとの交流の機会としても、働きかけることができたのではないかと思います。

中1国語は、1学期の授業のすべてをオンラインで開講しました。通常授業では、クラスメイトの発表を聞くことによって自分も理解したような気持ちになってしまいがちです。オンライン授業では、生徒それぞれが教科書の文章をしっかり読み、自分の発見や感想を書くまでの時間を確保することができます。自らの考えを持ったうえで、意見交換に臨むことで、よりよい学習に繋げることができたのではないでしょうか。

今回は、「ダイコン・プロジェクト」より、いくつかの作品を2部に分けて紹介したいと思います。

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「ダイコンの違い?」

私たちが普段食べている野菜には様々な種類と味があります。また、場所によって味が違うことがあり、その例として、大根があげられます。大根は下にいくほど辛みが増していくそうです。果たして本当にそうなのでしょうか。私はその疑問を解決するために実験をしてみました。

まず、上と下の味の違いを比べるために、大根おろしを作って比較しました。まず初めに、一番上の写真を見てください。一番上の写真は大根の下の部分を使って作ったものです。また、二番目の写真は大根の上の部分を使って作ったもので、見た目はよく似ていますが、味はとても違い、一番目の写真の方が辛かったです。つまり、大根は下に行くほど辛いということです。

他にも、大根おろしを作るときのすり方によっても味が変わるそうです。そこで、「円を描くようにやさしく」すったものと、「力強く直線的」にすったものを用意して、味を比べてみました。三番目の写真は「力強く直線的」にすったもので、四番目の写真は「円を描くようにやさしく」すったものです。
「力強く直線的」にすったものは、「円を描くようにやさしく」すったものよりも辛かったです。私は食べてみる前はそこまで大差ないと思っていましたが、意外と味が違ってとても驚きました。

このように、大根は上と下とでは味が違い、下にいくほど辛くなっていくことが分かりました。また、大根おろしのすり方によっても味が変わり、「力強く直線的」にするのと、「円を描くようにやさしく」するのとでは、「力強く直線的」にする方が辛いことも分かりました。また、「力強く直線的」にすったものの方が舌ざわりがザラザラしていました。今回は、この二つをしてみたけれど、他にも大根おろしに合う料理についてや、他の野菜についても詳しく知りたいです。daikon_project_02_02

中3国語では1か月近い期間を使い、「コロナ禍と社会について考える」という単元を行いました。生徒個々人の頑張りは勿論、月曜のオンライン学習で課題文を読んだ後Googleフォームで振り返り・質問への回答、木曜のインタラクティブ授業で読解内容の確認と交流という形で進められたからこそ出来た学習です。今回は、学びをまとめるために各自で問いを立てて文章を書くということをしてもらいました。今後も彼らは答えの明確に出せない問いと格闘しながら考え続けてくれることでしょう。授業担当として大いに期待しています。

生徒の書いた文章を3回に分けてご紹介します。今回は下記3点です。

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ペストとコロナウイルス、そしてこれからについて

今回のコロナウイルスの問題はまさに100年に1度の問題と言われています。
これまで私達が生活してきた生活様式を大きく変えるものです。このことからペストとコロナウイルス、そしてこれからどう向き合っていったら良いのか、ということについて考えたいと思います。
現在、東京では緊急事態宣言や外出自粛、3密を避けることが呼びかけられていますが、ペストの時は国や地方の対策等があまりとられず、また、医療関係も技術や人員の整備が整っていない為、今より大変であったと思います。また、警察が機能せず罪人が野放しにされ治安も悪化していました。
しかし、『ペスト』の登場人物である医者の葛藤が出て来ました。それは今の世界中の医療機関の方達と殆ど同じ意見で、大変しみじみ感じました。この事実から私は「歴史は繰り返す」という言葉を思い出しました。ペストは今から遠い昔の疫病であり、多くの被害を出しました。それに対して、コロナウイルスも世界中に被害を出している疫病です。ペストのような大きな出来事があっても、人々の混乱や不安による行動は昔も今も変わらず、医療や政治も殆ど似たような動きをしている部分もあると思います。
一方、看護師の方に質問をして、回答を得る機会がありました。その中で「1番苦労したことは?」という質問に対して「自分が感染しないように気をつけること」と答えて頂きました。私はその答えを聞いて、実際に現場にいる人だからこその思いと感じました。当たり前の事の様に思えますが、実際に多くの患者と接している環境では、大変難しいと思います。他にも「コロナを通して考える平和とは」という質問に対して、「すべての人が相手の立場になったことを想像して行動し、意見が言える世界」と答えて頂きました。私はその答えを聞いて、このコロナウイルスを経験したからこそ考えられる言葉でとても深いなと思いました。看護師の方がこのように考えている事実は、政府やテレビの報道ではなかなか伝え切れない部分があると思います。だからこそ、これらの貴重な言葉を様々な物事に繋げられる様に当てはめて考えながら、他の国難や災害にも関心や興味を持ちつつ、平和について考えていこうと思いました。
私は、今回の学習でペストとコロナウイルス、1人の看護師の方からの意見から学びを深めました。この学んだ物事からこのコロナ禍についてもっと関心を持ち、これからの状況を様々な方向から見ていきたいと思います。また、これからの世界や日本は、30年に1度は今回の様な災害や国難があると言われています。
だから、今回学んだペストの歴史や当時の状況、コロナ禍から私がこれからどう社会や平和の為に行動できるかを考えていきたいです。そして、次の世代の人達がまた起こるであろう災害や国難を乗り切る為の知恵や道具となって欲しいので、私は次の世代の人達に何か伝えたり、教えたりする機会がある時は今回のコロナウイルスは勿論、今の医療現場の方達の思いを必ず伝えていきたいです。

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コロナ禍と社会について考える

私はこの『コロナ禍と社会について考える』の単元を通じてペストとコロナ禍の状況の違いによって、その時のどのような選択が良いのかという問いについて考えました。
まず、ペストとコロナでは環境が違いました。ペストが流行ったころは今ほど医療技術がなく、インターネットがなかったため情報伝達にも時間がかかり、当時は感染予防も今ほど徹底的にできなかったと思うので、コロナとペストでは似ているところがありますが、ペストと今のコロナ禍を完全にそのまま重ねることはできないのだと気づきました。
これを踏まえたうえで今と昔ではどのような選択が良いのかという問いについて考えていくと、この単元で看護師の方からお話を聞かせていただいたときに、その方は、何をしてもらうとありがたいか?という質問に対して、「近くの医療関係者の方にエールを送ってあげてほしい」と言っていました。これはあくまでもこの方の意見なので他の方がどう思っているかはわかりませんが、この方と同じことを感じていた人は今も昔も沢山いると思うので、今も昔も大切だと考えられるのは、一人一人が社会の病気と向き合い、考え、周りの治療をしている人に対して感謝をすることだということが分かります。このことから、今も昔も私たちにできる最低限の、最も良い選択とは一人一人が社会の病気と向き合い、考え、周りの治療をしている人に対して感謝をし、エールを送るということなのではないかと私は考えました。
今と昔ではおかれている状況が違っても、感じていることは同じ人間なので似ているのではないかと思ったので、今と昔の最善の選択はこのようになるのではないかと私は考えました。

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私はこの単元を通して感染症の感染拡大時の人々の考えや思いはどうなのかという問いを立ててそれについて考えました。その中で例として『ペスト』とコロナの二つで比較して考えていきます。
『ペスト』・コロナの双方で早く感染を収束して欲しいと願う気持ちと自分の欲望のために外に出るという二つの気持ちがあるという点が共通していると私は思います。
まず、コロナでは緊急事態宣言が発令されているにもかかわらず不要不急の外出する人がいるというのをニュースや新聞で見ました。
また、『ペスト』のでも愛する人のために外出制限が出ている中、外出しようとしている人がいます。
今回の問いに答えはないと思いますが、人々の気持ちはいろいろあり多くの葛藤の中、感染症を乗り越えていくと思います。今回このまとめの文章を書いてどんな状況でも人にはさまざまな考えがあることを改めて知りました。

「ステイホーム」で家にいる時間が長くなった児童生徒の国際感覚を高め、平和について深く考える機会を作ることを目的に1学期の終盤7月3日、6日にオンライン講演会を実施いたしました。今回は、世界21ヶ国に暮らす本校児童生徒をアフリカのルワンダと繋ぎ「ルワンダから平和について学ぶ」というテーマで学びました。講師には、プロテスタント人文・社会科学大学上級講師の佐々木和之先生をお招きしました。佐々木先生はアフリカのエチオピアやルワンダで平和活動を20年以上続けられ、2011年にはルワンダの大学で初となる平和学科を設立されました。本講演会では、26年前にルワンダで起きた大虐殺について、そしてその虐殺の加害者と被害者の和解のための取り組みについてお話下さいました。

涙しながら聴く生徒もいた本講演会の感想を3つ、以下にご紹介させていただきます。

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今回の講演会は本当に興味深いものでした。 特に印象に残っているのは、佐々木先生がルワンダに調査に行った時、現地の方から「あなたは”あの時”どこにいたのか?」と聞かれたお話です。「なぜ私たちを助けなかったの?なぜ私たちを見捨てたの?」というメッセージが込められていたと佐々木先生は語っておられました。僕だったら、どう答えただろう、うろたえて何も言えなかったはずです。人間は時に攻撃的で、無力なのでしょう。26年前の大虐殺の当時、僕はまだ生まれていません。そしてルワンダで、こんな酷いことが起きたことを僕は今日初めて知りました。なぜ、このような事が起きてしまったのかは、僕には理解が出来ません。同じ人間なのに、同じ所に一緒に住んでいるのに、なぜ人を愛するのではなく 人を殺めたのか。この出来事を永遠に忘れてはいけないと思いました。そして、「分かち合う」ことの大切さを痛感しました。

(中学部2年生 男子)

 

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私は小さい頃からずっと世界の平和のためにお祈りをしてきました。しかし、祈っているだけで何もできない自分を惨めに感じていました。そのためか、佐々木さんがおっしゃった「その時あなたは何をしていたのか。」という言葉が私の胸に刺さってきました。

虐殺されてしまった方々の苦しみと加害者の悔やみを理解しようとしても、私には全てを推し量ることができません。しかし、お話しを聞いて和解のためにできることが自分にもあるということがわかりました。友達といる時も家族と過ごしている時も、そこには小さいけれど1つの社会があります。その中で揉めてしまうと、赦すことを難しく思ったりやってしまった行為を悔やんだりすることがあります。どちらの立場でも辛くなりますが、和解できると今までより関係はより強まる事を私は知っています。私は人に相談されることが多いです。人間関係においては日頃から悩んでいる友人の問題が解決するように行動をしています。そのような自分の長所を活かし、今後は世界にも目を向け、世界平和に貢献していきたいと思いました。そのために、私自身が身近な社会の平和を作っていくための力を養わなければなりません。これまで以上に世界の歴史について知るべく、講演会を聴いた今日から、新たな学びを進めていきます。

(高等部1年生 女子)

中1国語では、1学期の締めくくりとして稲垣英洋さんの「ダイコンは大きな根?」を読みました。作品を読んで、大根の上・下の部分、また、すりおろし方で味が異なることを知ったうえで、実際に自分でダイコンの味や特徴を調べて説明文に書きまとめるという「ダイコン・プロジェクト」を企画しました。

大根を買いに行くことから始まり、自分の手ですりおろした大根おろしを食べ比べたり、家族と協力して大根おろしに合う料理をつくってみたりなどして作品を完成させました。作品は、クラスの中で共有し、互いに読み合ってコメントを送ることによって、読者と作者の立場を経験するだけでなく、オンライン上でしか顔を合わせたことのないクラスメイトとの交流の機会としても、働きかけることができたのではないかと思います。

中1国語は、1学期の授業のすべてをオンラインで開講しました。通常授業では、クラスメイトの発表を聞くことによって自分も理解したような気持ちになってしまいがちです。オンライン授業では、生徒それぞれが教科書の文章をしっかり読み、自分の発見や感想を書くまでの時間を確保することができます。自らの考えを持ったうえで、意見交換に臨むことで、よりよい学習に繋げることができたのではないでしょうか。

今回は、「ダイコン・プロジェクト」より、いくつかの作品を2部に分けて紹介したいと思います。

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「大根の味は本当に違う?」

私は、教科書では、味が違うとありましたが、本当に違うか比べてみました。
まず、大根を買いに行きます。大根は冷蔵されていました。サイズは1本を半分に切ったものもありましたが、今回は1本丸ごと買いました。そして、大根を少し観察してみました。私が買った大根は、食べられるところの三分の二に側根が生えていて、生えていない部分は黄緑色をしていました。

この大根の胚軸の部分と根の部分を食べ比べるために、端と端を切り、すりおろして大根おろしを作りました。すりおろした後の見た目は、根の部分のほうが、みずみずしく見え、辛いようには見えませんでした。

最初に根の端の部分を食べてみました。根の端の部分は、はじめ、あまり辛く感じなかったです。ところが後から、すごく辛くなり、舌がピリピリしました。これに対して、胚軸の部分は辛味がなく、少し甘みがありました。根と比べると全然辛さが違いました。

このように、食べ比べた結果、辛さは本当に違っていて、正直、「こんなに違うんだ!」とおどろきました。料理をするときは、これをふまえて作るとよりおいしくなるので活用していこうと思いました。普段、大根の根の部分と胚軸の部分の味を比べることがないのでいい機会になりました。

 

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「胚‌軸‌と‌根‌の‌味‌比‌べ‌ ‌」 ‌ ‌

‌大‌根‌お‌ろ‌し‌を‌作‌る‌時‌に‌胚‌軸‌(上)‌の‌部‌分‌か‌根‌(下)‌の‌部‌分‌を‌使‌用‌す‌る‌か‌で‌味‌は‌変‌わ‌る‌の‌で‌しょ‌う‌か?‌ ‌

‌実‌際‌に‌大‌根‌お‌ろ‌し‌を‌胚‌軸‌の‌部‌分、‌根‌の‌部‌分‌で‌分‌け‌て‌作っ‌て‌食‌べ‌て‌み‌る‌と、‌胚‌軸‌の‌部‌分‌で‌作っ‌た‌大‌根‌お‌ろ‌し‌は‌甘‌め‌に‌感‌じ‌ま‌し‌た。‌いっ‌ぽ‌う、‌根‌の‌部‌分‌で‌作っ‌た‌大‌根‌お‌ろ‌し‌は‌と‌て‌も‌苦‌く‌感‌じ‌ま‌し‌た。‌試‌し‌に‌大‌根‌の‌真‌ん‌中‌の‌部‌分‌を‌使っ‌て‌大‌根‌お‌ろ‌し‌を‌作っ‌て‌み‌る‌と‌甘‌さ‌と‌辛‌さ‌の‌バ‌ラ‌ン‌ス‌が‌ちょ‌う‌ど‌良‌い‌味‌で‌し‌た。‌ ‌

‌そ‌こ‌で、‌な‌ぜ‌大‌根‌の‌使‌う‌部‌分‌に‌よっ‌て‌味‌が‌変‌わ‌る‌の‌か‌を‌調‌べ‌ま‌し‌た。‌大‌根‌お‌ろ‌し‌の‌刺‌激‌的‌な‌辛‌さ‌は‌「ア‌リ‌ル‌イ‌ソ‌チ‌オ‌シ‌ア‌ネー‌ト」‌と‌い‌う‌成‌分‌に‌よ‌る‌も‌の‌で‌す。‌こ‌れ‌は‌大‌根‌の‌細‌胞‌が‌破‌壊‌さ‌れ‌る‌こ‌と‌で‌発‌生‌し‌ま‌す。‌す‌な‌わ‌ち、‌大‌根‌お‌ろ‌し‌は‌大‌根‌を‌す‌り‌お‌ろ‌す‌こ‌と‌で‌辛‌く‌な‌る‌の‌で‌す。‌こ‌の‌「ア‌リ‌ル‌イ‌ソ‌チ‌オ‌シ‌ア‌ネー‌ト」‌を‌生‌み‌出‌す‌成‌分‌は‌大‌根‌の‌上‌部‌よ‌り‌も‌下‌部‌の‌ほ‌う‌に‌多‌く‌あ‌り‌ま‌す。‌大‌根‌の‌下‌部‌を‌す‌り‌お‌ろ‌す‌と、‌上‌部‌よ‌り‌も‌辛‌い‌の‌は‌こ‌の‌た‌め‌な‌の‌で‌す。‌ ‌

‌こ‌の‌よ‌う‌に、‌大‌根‌お‌ろ‌し‌は‌使‌う‌部‌分‌に‌よっ‌て‌味‌が‌変‌わ‌る‌こ‌と‌が‌わ‌か‌り‌ま‌し‌た。‌僕‌は、‌ほ‌か‌に‌も‌大‌根‌の‌よ‌う‌に‌使‌う‌部‌分‌に‌よっ‌て‌味‌が‌変‌わ‌る‌野‌菜‌に‌つ‌い‌て‌知‌り‌た‌い‌と‌思‌い‌ま‌し‌た。

 

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「大根おろしの部位とおろし方による味の変化」

あなたは大根おろしが大根の使う部位で味が変わることを知っていますか。大根おろしは、日本の食卓に欠かせない薬味の定番です。みずみずしく、さっぱりとした爽やかな風味は、焼き魚やお蕎麦、卵焼きなどなど、どんな料理にも合い、もちろん美味しさを引き立ててくれます。

大根の根は大きく三つの部位に分けられます。上部、中部そして、下部です。(各部位の特徴などは図1を参照)この三つの部位の中から二つを、繊維に沿って縦に平行におろしたものと、輪切りにした断面側の繊維を断つおろし方の二種類のおろし方で食べ比べてみました。

最初に、上部から食べ比べていきます。上部は水分が多く甘味がとても強いです。繊維に沿っておろした方はほとんど辛みを感じなくまろやかな味わい。繊維を断つようにおろした方は甘味もありますが、辛みがとても強く大根の爽やかな風味が感じられました。母に聞いてみたところ、繊維に沿っておろした方は甘くて大根本来の辛さがないので子供でも食べられる味。繊維を断つようにおろした方は甘辛くてネギのような風味がすると言われました。 そして下部です。下の部分は上の方に比べると水分はかなり少なめでした。食感も繊維質な感じで硬めでした。どちらのおろし方もかなり辛みが強いです。少々苦みも感じました。とっても辛かったです。母に食べ比べてもらったところ、繊維に沿っておろした方は、苦くて下部のような味が、繊維を断つようにおろしたものはただ単に苦かったそうです。 このように大根おろしは使う部位、おろし方により味が変わることがわかりました。これは、各部位の役割の違いが生み出しています。まず上部が甘い理由及び中部が甘い理由は、地上の葉で作られた栄養を根に運び、そして、根から吸い上げられた水を葉に送る働きをしているからです。下の部分が辛いのは、ただ水を吸い上げているだけだからです。

 

(おまけ)今回は大根おろしに合う料理ということで卵焼きを姉と一緒に作ってみました。家族からとっても評判が良かったので今度も作りたいと思いました。一応写真も撮ったので載せておきました。 daikon_project_03

中3国語では1か月近い期間を使い、「コロナ禍と社会について考える」という単元を行いました。
導入として、教科書教材「新聞の社説を比較して読もう」を扱って社説を対象にした比べ読みを学習した後に、実際に現在のコロナ禍を扱った社説の読み比べを行うことを通して現状認識を深めました。
次に、アルベール・カミュ『ペスト』の一部を3回かけて読解することを通して現状を相対化させました。扱ったテキストは合計でおおよそ100ページ以上かつ、『ペスト』自体が難解な内容であったため生徒は相当大変だったと思います。生徒個々人の頑張りは勿論、月曜のオンライン学習で課題文を読んだ後Googleフォームで振り返り・質問への回答、木曜のインタラクティブ授業で読解内容の確認と交流という形で進められたからこそ出来た学習だと思います。交流ではJAMBOARDを活用して他の生徒の意見を可視化しました。これまでの授業で長い時間をかけてきた自分とは異なる意見から学ぶことが定着してきていると授業での発言から感じられました。

最後に、新型コロナウイルス感染症患者を積極的に受け入れる病棟に勤務している看護師の方にご協力頂き、中3生徒の質問に答えてもらいました。文学というフィクションを通して学んだことや日頃の思索を活かした質問をコロナ禍にある個人に投げかけることで、普通に生きているだけでは知りえなかった考えと出会うことができたと思います。

上記のような学びをまとめるために各自で問いを立てて文章を書くということをしてもらいました。今後も彼らは答えの明確に出せない問いと格闘しながら考え続けてくれることでしょう。授業担当として大いに期待しています。

生徒の書いた文章を3回に分けてご紹介します。今回は下記2点です。

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未完成な生き物

今、世の中は新型コロナウイルスによって混乱状態に陥っている。「ペスト」の様な状況下で私たちは適切な意思統一をする事はできるのか?
そもそも人間はそれぞれが異なる思考を持っている。しかし、人間はそれと同時に周りの人間の思考に自分自身の思考を合わせようとする面もある。これは人間の思考がグチャグチャな事を意味している。つまり、人間はそう簡単には統一出来ない生き物である。

世間では新型コロナウイルスに対抗する対策を沢山行っている。中には個人個人が心掛けなければいけないものもある。例えば、ソーシャルディスタンスや自粛などである。だが、このような対策には人間の統一性が必要になってくる。先程言った様に人間は統一性の低い生き物なので、感染者の人数に差が生まれるのだ。

「ペスト」においてリウーとランベールは同じ人間であるのにも関わらず、意見が対立している。「ペスト」を読んで、特に人間は混乱状態になると統一性がさらに低くなると思った。では、この様な状況で人間を統一させるにはどうすれば良いのか?

人間の集団には昔も今も必ずリーダーが存在して居る。リーダーの様に命令を出す者が居て、それに従う者が居るという関係は人間の統一性をグンッと上げる。なので、人間を統一させるにはリーダーがその状況に適した判断を、従う者に下す事が大切である。とはいえ、リーダーがどんなに正しい判断をしても、やはり個々の思考を持っている人間にとって完璧な統一は難しい。

人間の周りに合わせる性質を正しい方向に使う為には、その人間の環境を変えなければならない。その人間に対してハッキリと善悪の区別を出来る様にしなければならない。しかし、人間は幼い頃に個々の思考が生まれてしまう。なので、この様な区別を出来るようにするには私たちの子供たちに対して教育しなければならない。僕はまだ14歳なのでこの様な事は僕にとってまだまだ先の事だ。
今私たちに出来る事は人と人の意見の対立を避け、正しい人間の統一を目指す事だろう。一人一人の行動が世界の運命を変えるので、小さな事から大きな事まで気をつけて生活していこう。

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日本にとっての平和な暮らしとは

日本人は、コロナが流行しているこの状況をどのように見ているか。目を閉じて少し考えてみてほしい。私はコロナを少し甘く見ていた。だが、今は違う。今は恐ろしさを痛感し、甘く見ていた過去の自分に後悔だけが残っている。日本人の中には、私と同じ気持ちの人がたくさんいるのではないだろうか。旅行先で感染してしまった人や街中で遊んで感染してしまった人など、ごまんといる。だからこそ、過去の過ちを繰り返さないためにも、コロナが蔓延する社会の中で考えさせられたこと、忘れてはいけないことは何なのか。また、そんな状況から考える、日本にとっての平和な暮らしとは何なのだろうか。その暮らしの実現に向けて私たちができることは何なのだろうか。これが私の問いだ。

コロナが流行し感染者が多く出始め緊急事態宣言が出されたが、中には外出自粛に伴うストレスを発散したいからと、パチンコ店などに足を運んでいる人をニュースで見た。こういう人たちが出てくることは何となく予想はしていだが、もう少し状況を見て行動するべきだと感じた。また、あまりPCR検査ができない時に感染してしまった人に対して、ネットに書き込みをしていた人もいた。 「近くに感染者がいたんだけど、感染してたらあいつのせいだ」 「こんな状況になったのもすべて中国人のせいだ」などが書き込まれていた。どうして状況を見て発言しないのだろうか。どうして、そのような行動をとってしまうのか。なぜ、考えて行動しないのかなど、いろんな疑問が生まれる。コロナで亡くなってしまった人は、私たちが当たり前にできることができない。もう二度とできないのだ。その行動で、傷ついている人がコロナに限らず、沢山いるのに、なぜ社会に悪影響なアクションをしてしまっているのか。まだ動けるのなら、皆が楽しく笑顔になるようなアクションをしよう。過ちの責任を他人に押し付けるような行動に出た人に対して、同じ日本人として様々な気持ちがこみ上げてくる。ストレスの発散方法が日本の状況を悪化させる方向にしてしまっている人がいることが、コロナを通して新たな問題だと考えた。コロナのような新型ウイルスに対して多くの人が混乱し、不安であり、現状を把握しようとしている一方で、我慢できずストレスを発散するために、外出してしまったり、他人を傷つけたりと自己中心的な行動をとってしまう人も中にはいた。次このような状況になったときは、互いの意見を言い合い、聞き合い、今どのような状況になっているのかを全国民が知っている状態にし、自分の行動が今後の状況を悪化させないか未来予測をする必要があったことを決して忘れてはいけない。

このような状況から考える、日本にとっての平和な暮らしとは何なのか。ある一人の看護師の方は、「すべての人が相手の立場になったことを想像して行動し、意見の言い合える世界こそが平和だ」と言っていた。このことを聞いた時、私は「平和」とは何なのか、「平和」な世界は訪れるのかなど、ますます「平和」が難しく感じた。だが、確かに互いのことを考えて行動にうつし、互いに意見を伝え合うということは、私の考える「平和」には必要だと感じた。私がこの状況を通して考える、日本にとっての平和な暮らしとは、一人一人が社会に必要な存在としていて、相手の立場になり行動でき、時には互いに助け合い、時には意見し合う関係が保たれることだと考える。

では、日本にとっての平和な暮らしの実現に向けて私たちができることは何なのだろうか。いろんな人が考えている「平和」とは理想に過ぎず、実現するのが困難である。だからこそ、一歩でも近づけるために大きなことではなく、私たちが行動できる範囲で実現に向けて動かなければならない。そこで私は、家族でも友達でも困ったときは助け、意見の言い合える環境を作っていく。そして、相手の立場になったときのことを考えて行動できるようにコンピューターの中だけでなく、コミュニケーションをとっていくことが、一番の近道だと考える。私たちはまだ生きている。コロナで多くの人が亡くなってしまったということを、全世界の人が心に刻み前に進んでいく必要がある。もう二度と適当な行動で相手が傷つかないように。

「ステイホーム」で家にいる時間が長くなった児童生徒の国際感覚を高め、平和について深く考える機会を作ることを目的に1学期の終盤7月3日、6日にオンライン講演会を実施いたしました。今回は、世界21ヶ国に暮らす本校児童生徒をアフリカのルワンダと繋ぎ「ルワンダから平和について学ぶ」というテーマで学びました。講師には、プロテスタント人文・社会科学大学上級講師の佐々木和之先生をお招きしました。佐々木先生はアフリカのエチオピアやルワンダで平和活動を20年以上続けられ、2011年にはルワンダの大学で初となる平和学科を設立されました。本講演会では、26年前にルワンダで起きた大虐殺について、そしてその虐殺の加害者と被害者の和解のための取り組みについてお話下さいました。

涙しながら聴く生徒もいた本講演会の感想を3つ、以下にご紹介させていただきます。

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私は、ルワンダで起きた大虐殺についてはもちろん、ルワンダという国のことさえも知りませんでした。本講演会の冒頭でルワンダで”何が起きたのか”を聞いた時、そして、セルディオさんとジョンさんの”加害者を赦す”という言葉を聞いた時、私は涙が止まりませんでした。私が一番胸が締め付けられたのは、セルディオさんの「あの時リーダーに従わなくては自分の家族が殺されていた」という言葉です。私がセルディアさんの立場だったら、どうしていたのだろう。または、ジョンさんの立場だったら、家族を殺した人を私は赦せているだろうか。そんなことを考えさせられました。この時代、人の数だけ正義があり、どの正義が本当に正しいのかは簡単に決めれるものではないのだということも改めて感じました。

日本の学校で起きているいじめの問題も、根本的な心理メカニズムはルワンダで起きた大虐殺の背景と同じであるともおっしゃっていました。私たちにも「他人事ではない」のだと本当に心に刺さりました。 私ができることがあったとしても小さなことだと思うのですが、「平和」のためにできることを探していきたいと強く思いました。まずは、もっと世界に関心を持つことから始めます。せっかくイギリスに住んでいるのだから、BBCニュースをこれから見始めようと思います。この歳まで見てなかったなんて恥ずかしいことなのですが、今日、「もっと世界情勢に目を向けなくては」と気づけてよかったです。

最後になりますが、人間って本当に強いんだなと、加害者を赦したルワンダの方々のお話を聞いて思いました。一度崩れてしまっても、また歩き出せる、それには何より自分の伝えたいことを「言葉」にするのが大切なのだと感じることができました。

(高等部3年生 女子)

小学6年生の国語では「詩を読む・紹介する・書く」という単元を行いました。

まずは教科書にある詩や教師がお勧めする詩を読み、詩にはどのようなものがあるか、またどのような工夫があるかを学びました。

次に自分のお気に入りの詩をクラスに向けて紹介する活動を行いました。お気に入りの詩を朗読し、どのようなところが好きかを語るという形式です。これは後に控えるブックトークの予行演習も兼ねています。金子みすゞ「転校生」「蜂と神様」「私と小鳥と鈴と」「春の朝」、吉野弘「樹」、谷川俊太郎「朝のリレー」草野心平「冬眠」を紹介してくれました。

単元の締めとして詩を書き、それをクラスに向けて発表する活動を行いました。お気に入りの詩紹介から自作詩の発表までは2週間程度時間を取り、詩を書く時間を十分に確保しました。詩のリズムや工夫について多くの詩から学んできましたが作品については特に型の指定はしていません。書くためのいくつかのヒントと助言だけ与え、児童が各々書きたいテーマで書くことを重視しました。ゼロから書くというのは児童にとってもなかなか大変なことですが、本校中学2年の生徒たちの詩(ホームページに掲載されています)を参照したことで詩を書くイメージができるようになったように思います。異学年での交流は現状なかなか厳しいところがありますが、作品を通して児童たちが同じ学校の先輩の姿を感じられたらという思いもありました。創作の過程で聞くことのできた「書けたけど納得いかないからもう少し考えたい」というある児童の言葉は、詩を書く中でじっくりと言葉に向き合ってきたことを象徴していると思います。

ブックトークや詩の紹介でスライドを使用する児童が数名おりました。ご家庭や学級でのご指導のおかげでしょう。また、インタラクティブ授業で使用していたzoomは画面の共有が出来て、スライドの使用にそれほど手間がかからないのも奏功したようです。インタラクティブ授業やオンライン学習でPC・タブレットを使いこなしている児童に驚かされます。

本単元の成 hmn_mizu-scaled果ともいえる実際の作品を以下にいくつかご紹介します。画像の作品は児童が実際の発表で使用したスライドの一部です。そちらもご覧ください。また作品の中には児童とともに作った授業者によるものもひっそりと加えています。

 

夕焼け

 

学校の帰り

空をみると

きれいなオレンジ色に

染まっていた

地面が燃え

草が燃え

友達の顔も

真っ赤に燃えている

あたりはすーっと青く 暗くなり

もうすぐ夜がくるようだ

次に太陽がのぼるとき

新しい一日がやってくる

 

*   *   *

 

起きようとはしているよ

 

起きようとはしているよ

ただ、まぶたが重くてあかないだけ。

起きようとはしているよ。

ただ、目覚ましの音が全く聞こえないだけ。

起きようとはしているよ。

ただ、枕に頭が引っ付いて離れないだけ。

起きようとはしているよ。

ただ、布団が私を離さないだけ。

起きようとはしているよ。

ただ、心だけが起きていて体は寝てるだけ。

起きようとはしているよ。

ただ、夢に出てきたステーキに手を付けてないの。

残したら、もったいないからね。

ただただ眠い。それだけなんだ。

もう少し。もう少し。もう少し。

起きようとはしているよ。

起きようとする努力はしている。

スヌーズにした目覚ましがカーテンから見える昼の烈日とともに寝室に鳴り響いた。

 

*   *   *

 

わすれる

 

ニンゲンという

生き物は

「わすれる」機能が

あるのです

これがなければいくらでも

おぼえることができるのに

なぜいじわるなかみさまよ

なぜニンゲンは「わすれる」の

きっと時間は飛行機で

記憶を多くは積めないの?

きっと真相忘れてて

空に帰れば思いだす

 

*   *   *

 

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高1古典では、7月7日のオンライン授業日にちなんで、七夕に関する和歌の鑑賞を行いました。七夕の夜は、日本ではあいにくの雨でしたが、世界各地では美しい天の川を楽しむことができた人もいたのではないでしょうか。

離れ離れになってしまった乙姫と彦星に、コロナ禍を生きる自分自身を重ね合わせて読んだ解釈も数多く、現代に蘇る和歌の可能性を改めて再認識することができました。

今学期より古典の学習を始め、古典文法を基礎から学びはじめたばかりではありますが、古語に耳を傾け、31音からなる和歌の意味世界に想像を膨らませることは、古典文学作品、またその文化を体系的に学ぶ機会になりえると考えています。

第2回は前回に引き続き①の歌と、新たに2つの歌(②・③)に関する生徒の解釈をご紹介します。(歌は「古今和歌集」(岩波書店・1994・佐伯梅友 校注)より引用しました。)

①:「久方の あまのかはらの 渡守 きみ渡りなば かぢ隠してよ」
(古今和歌集・秋歌上・読み人知らず・174)

②:「恋ひ恋ひて あふ夜はこよひ 天の川 霧立ちわたり あけずもあらなん」
(古今和歌集・秋歌上・読み人知らず・176)

③:「こよひこむ 人にはあはじ 七夕の 久しき程に まちもこそすれ」
(古今和歌集・秋歌上・素性法師・181)

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▶ この歌から、二人はなかなか会うことのできない、まさに織姫と彦星のような関係が想像できました。私は、この歌の作者には遠距離恋愛中の恋人や片想い中の相手がいて、頻繁に会うことができないからこその会えたときの喜びと、やがてやって来る別れの切なさを詠ったんだと思います。当時は現代のようにテレビ通話で画面越しに顔を見るのはおろか、電話で声すら聞くこともできませんでした。だから、久しぶりに会えた時の嬉しさと別れの寂しさは、現代以上に辛かったと思います。またなかなか会えない分、お互いの存在の大切さを知れるので、ある意味素敵な時代かもしれないとも感じました。
私も中二の春に父の仕事の都合でロンドンに転勤してきました。空港まで来たとき思ったほど寂しくはなかったけど、自分が住んでた町が段々と遠ざかっていくのが見えたとき、言葉ではいい表せないけど無性に寂しくなったのを今でも覚えています。また、人付き合いが苦手な私の数少ない友達とも離れるのはすごく悲しかったです。そして去年の夏休み、私は一時帰国して、久しぶりにその友達と会いました。一緒にいる時間はものすごく楽しかったけど、別れるとき、あと数年は会えないと思うと、飛行場が何等かの事情で使えなくなって二度と帰れなくなったらいいのになと思ってしまいました。私も恋愛ではないけど、このような経験や状況下にあるので、この歌には大いに共感できます。


▶ この歌は天帝が詠った歌だと思いました。天帝は織女の親として、織女と牽牛を引き離してしまうことはとても胸が痛かったと思います。しかし天空の神様として、遊び呆けて仕事を疎かにしていることを見過ごすわけにはいきませんでした。天帝が織女と牽牛をまた引き合わせることは簡単で、親としてはそうしてあげたい気持ちがありますが、立場上できないのでそれを渡し船の船頭に頼んでいる歌だと思いました。
また、私が知っている七夕の話では何で渡るかという表現はなく、会えるとだけ言われていました。この歌では、天の川を渡し船で渡ると詠まれていて、美しい風景描写だなと思いました。


▶ きっとこの作者は自分の気持ちを抑えきれないほど恋をしていたんだと思う。そしてこの霧は、例え夜が明けたとしても夜明けとは感じさせないようなことや、霧のおかげで作者と恋相手だけの二人の世界を作ることができるという遠回しの表現だと思う。ものすごく切ない恋だ。


▶ 1年に1度しか会うことが出来ないつらさを織姫と彦星で表している。今も新型コロナウイルス感染拡大の影響で家族や友人に会えない人がたくさんいるので最も今の世の中にあてはまる。1回でも会うことが出来る人は幸せだと思う。中には数十年会うことが出来ていない人もいる。会えること自体が幸せであると思わなければならない。常に人に感謝することを忘れてはいけない。

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