父与作の失敗(4)
ところが、その頃、日本経済は大変なインフレに
見舞われた。
日本銀行の卸売物価指数は 1945 年 9 月の
346.6 から 1948 年 12 月までの間に 20825.1
まで急騰した。三年三ヶ月の間に、 実に 60 倍の
上昇である。
「今の百円が一万円になる」のではなく「今の百円
は一円六十銭」 になってしまった。
一億円が 160 万円になったと言う方がぴんと来るかも
知れない。
やがて「傾斜生産」は国の方針から姿を消す。
朝鮮戦争による「朝鮮特需」が終わる頃、 日本経済は
墓場のような低迷状態に陥る。
あれほど勤勉に働き続けたのに、与作の手元には
自分が住む家一軒を建てる程度の金しか残っていな
かった。
あれほど勤勉に働き続けたのに、 彼はどれほど淋し
かった事であろうか。私も妹も学生だから、家計を
助ける力はなかった。
それでも彼は、私たち兄妹を大学に通わせるため
働き続けた。晩年は多少の家賃収入で暮ら せるように
なったが、デフレとインフレを取り違った彼の判断ミスは、
その生涯を名状しが たい寂しさに追い落としたに違いない。
その5につづく…