人間を矮小化してはならぬ(その2)

実は、あの墜落現場である入間川の河川敷は、その近くに家屋や学校が

密集している場所なのです。柏原の高級住宅地は、手を伸ばせば届くような

近距離ですし、柏原小、中学校、西武高等学校も直ぐそばです。百メートル

上空で脱出すれば、彼らは確実に助かったでしょうが、その場合残された

機体が民家や学校に激突する危険がありました。

 

彼らは、助からないことを覚悟した上で、高圧線にぶつかるような超低空で

河川敷に接近しました。そうして、他人に被害が及ばないことが確実になった

段階で、万一の可能性に賭けて脱出装置を作動させたのです。

 

死の瞬間、かれらの脳裏をよぎった者は、家族の顔でしょうか。それとも民家や

学校を巻き添えにせずに済んだという安堵感でしょうか。 他人の命と自分の命

の二者選択を迫られたとき、迷わず他人を選ぶ、この犠牲的精神の何と崇高な

ことでしょう。皆さんはどうですか。このような英雄的な死を選ぶことができますか。

私はおそらく皆さんも同じコースを選ぶと思います。私も必ずそうするでしょう。

実は人間は、神の手によって、そのように作られているのです。

 

人間はすべてエゴイストであるというふうに、人間を矮小化(わいしょうか)、つまり

実存以上に小さく、卑しいものに貶(おとし)めようとする文化が今日専らです。

しかし、そうではありません。人間は本来、気高く偉大なものなのです。火災の 際の

消防士の動きを見てご覧なさい。逃げ遅れている人があると知れば、彼らは自らの

危険を忘れて猛火の中に飛び込んでいくではありませんか。母は我が子のために、

父は家族のために命を投げ出して戦います。これが人間の本当の姿なのです。

その愛の対称を家族から友人へ、友人から国家へと拡大していった人をわれわれは

英雄と呼ぶのです。

 

あのジェット機は、西武文理高等学校の上を飛んで河川敷に飛び込んでいったと、

佐藤校長はパイロットの犠牲的精神に感動しつつ語っておられました。 しかし、新聞は、

この将校たちの崇高な精神に対して、一言半句のほめ言葉も発しておりません。彼らは、

ただもう自衛隊が「また事故を起こした」と騒ぎ立てるばかりなのです。防衛庁長官の言動も

我慢がなりません。彼は、事故を陳謝することのみに終始していました。その言葉には、

死者に対するいたわりの心が少しもありません。

 

(その3へ続く)

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