本日の第40回吹奏楽部定期演奏会

には多数の皆様のご来場を賜り、

誠にありがとうございました。

 

生徒たちの演奏がすこしでも

会場の皆様の心に感動を呼び

起こすことができましたなら

幸いです。

 

今後も本校吹奏楽部、ならびに

狭山ヶ丘学園をよろしくお願い

いたします。

 

夜空に星が多かった頃(1/2) 

校長 小川義男

狭山ヶ丘高等学校付属中学校校長メッセージ

私が六年生の頃、敗色濃いアメリカとの戦争の末期、

父は家から十二キロほど離 れた原始林の中に

「三角兵舎」を造るために、職人さんたちと一緒に

出かけた。

 

ど んな事情で父に会いたくなったのか、そのあたりの

記憶はないのだが、とにかく私は、歩いて父のもとまで

行くことにした。 「三角兵舎」とは、半地下式の戦闘用兵舎

である。地面に長方形の穴を掘り、そ の上に材木を三角に

組んで屋根を造る。その屋根に更に五十センチほどの土を

載せ る。半地下式だから、爆撃されても直撃でない限り内部

の兵士は助かるわけである。

 

当時の小学生にとっても、十二キロは簡単な道のりではなかった。

昼なお暗い原 始林に入ってからは、怖さも混じり後悔し始めたもの

である。歩いているうちに、 日はすっかり暮れてしまった。手探りで

歩く原始林の怖さは、今も私の記憶に鮮烈である。それだけに、

前方に灯火がチラチラ見え始めたときの嬉しさは格別であっ た。

 

 

「兵舎」の中では、仕事を終わった職人さんや人夫の人たちが、

それぞれ焼酎を飲んだり花札をしたりしていた。みんな少年の私を

見て驚いたが、間もなく、「小川 さん、息子さんがきたよ」とすでに

横になっていた私の父に知らせてくれた。息子の意外な出現は、

父にとり嬉しかったようである。しかし、感情を表に出す人ではない

から、淡々と私が、どうして急にこんな遠いところまで歩いてきたのか

を尋ね た。

 

仕事を終わった人たちの飯場の雰囲気は、私にとり、とても馴染みやすい

もので あった。夜も更けたことだし、私は当然その日は飯場に泊まり、翌日

遅れて学校に 行けばよいのだと思っていた。丁度十一時頃だったであろうか、

父が、「義男、もう 遅いから、お前そろそろ帰れ」と言ったのである。驚天動地

とはこのことである。 六年生の少年が深夜の原始林を越え、十二キロの道を

どうやって帰るというのか。 季節は晩秋だから、熊が出るかも知れない。

 

しかし、父は厳しい人であった。泣けば泊めてくれるというような生やさしい人柄

ではなかったのである。それをよく知 っている私は、べそをかきながら立ち上が

った。「途中まで俺が送ってやるからな」、 そう言うと父は私を先に立たせ、すた

すたとついてきた。手を後に組んでいるのだが、その手に何か大きな枝を持って

いるようであった。

 

しかし、闇の恐怖に怯えている私に、それが何であるかなど考える余裕はない。

小一時間も密林を歩き、幅広い国道に出た。父はそこで、道路脇の材木に座って

気長に私と話を始めた。私は父の真意を測りかねていたのだが、そのうちに一台の

馬車が近づいてきた。父は、その「馬車追い」に、どこまで帰るかを尋ねた。

 

その人が私の家のある町まで帰ると知ると、「すまないが息子をそこまで乗せて

行ってく れ」と頼んだのである。私がほっとしながら乗り込むと、父は後ろ手に

持っていたひと枝を私に渡し、「これでも食いながら行け」と言った。 それは、

実が重いくらいに沢山ついている「こくわ」のひと枝であった。

 

(後編へ続く)

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