少年時代に登校拒否をしたこと

のある校長は、私くらいのもの

ではないだろうか。自慢になる

ことではないが、恥を忍んで

その想い出を語ることにしよう。

もしかすると最近の親御さんの

参考になるかもしれない。

 

私は五歳の時に母に死に別れた。

それまで我々の家族は、北海道の

昭和炭山という山奥に住んでいた。

雪深く厳寒の地域であるが。冬に

なると電信柱が雪に埋まり、我々は

電線をまたいで歩いた。電線に腰掛け

たりぶら下がったりしてはいけないと

注意されるほどの豪雪地帯であった。

秋には熊も時々出たらしい。

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妻に死なれた父にとり、この山奥の

炭坑は耐えきれない場所であったらしい。

思えば父も若かった。彼は当てもない

まま炭坑を辞め、「放浪の旅」に出た。

おかげで私は、小学校一年の一学期に

二回転校を経験することになったので

ある。

 
私は積極的な少年であった。何しろ

小学校の入学式に、姉が同行するのを

待ちきれず、一人で学校へ行ってしまった

のだから、積極性もいささか度を超して

いたのであろう。もっとも「義男が

行ってしまったから」というので、

そのままほったらかしにした姉も

相当なものである。

 
しかし、一学期の間に二回学校を

変わるというのは、それなりに大変な

ことであった。

 
最後に落ち着いた小学校一年の七月、

私はふとしたことから腎臓炎を患った。

夏休みを挟んで相当の期間学校に行く

ことができなくなったのである。

 
二学期が始まってしばらくした頃、

病も癒え学校に通えるようになった

私は、久々のランドセルを背負って、

初秋の日をまぶしく感じながら学校

へ向かった。

 
ところが、近所の「八郎ちゃん」が、

「小川、お前なんか学校に来るな。

おまえが学校に来たって、もう机も

腰掛けもないぞ。先生が『小川さん

なんて学校に来ない方がいいよね。』

って言ったら、みんなが『うん』て

言ったぞ」と言うのである。私は

驚いた。永いこと学校に行っていない

のだから、それは確かに、もう机も

腰掛けもないだろうなと思った。

みんなが来ない方がよいと言ったと

いうのである。私は、学校には行か

ないことにした。

 

実は、発病の前、私は掃除当番の

班長であった。北海道では「当番長」

と言う。それを八郎ちゃんは、私が

休んでいる間代わってやってくれていた

らしいのである。病み上がりの子供に

班長をやらせる先生などいるはずも

ないのだが、八郎ちゃんも幼いから、

その辺の呼吸はわからない。彼は

当番長を私に取りかえされると

思ったのである。

 

学校に行けない私は、校舎の裏の

草むらに隠れて教室を覗き見る

毎日には、正常な学校生活とは

別な味わいがあった。

 

その2に続く

 

〜お知らせ〜

狭山ヶ丘高等学校付属中学校

第1回学校見学説明会

7月17日(月)

 

開始前(希望者)

9:00-9:30 学校行事DVD放映

9:30-9:55 学校紹介DVD放映

 

説明会

10:00-10:40 学校長挨拶

10:40-11:00 入試概要説明

11:00-11:20 質疑応答

 

その後、

体験授業(茶道/国語/理科/

先着予約制)に併行して

個別相談を行います。

 

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