ペリカン君の想い出(3)

 

千九百六十年代、チェコスロバキアはソ連の頸城(クビキ)を
脱しようと死に物狂いの抵抗を続けていた。いわゆる
「プラーハの春」である。

もともとチェコスロバキアは、我から進んで社会主義化した
国ではない。第二次世界大戦の混乱に紛れてソビエトロシア
に占領され、不本意ながら社会主義化を強行された国家
なのである。

戦前からその工業水準は相当のものであった。 スボボダ
大統領、ドプチェク共産党書記長の指導のもとに、自由を
求めてプラーハは燃えていた。その夢も実現されるかに
見えた千九百六十八年八月二十日、ソ連、 ブルガリア、
ハンガリー、東ドイツ、ポーランドの五カ国の軍隊は、突如
チェコス ロバキアに侵入したのである。

スボボダもドプチェクもモスクワに連行された。ドプチェクは
その後役職を剥奪され、森林監視員を命ぜられた。スボボダ
には、モス クワでエックス線をかけられたという噂もある。緩慢
に殺害する意図だったのかも知れない。 チェコへのワルシャワ
条約機構軍の進入は、全世界の憤激を生んだ。既に三十六歳
になった私も、ひそかに胸を痛めていたが、ある日「中央公論」
に目を通して驚 いた。その中に「プラーハの春」と題する
J・ペリカン名の論文を発見したからであ る。

ペリカンがチェコ議会の外交委員長になっていることは知って
いたが、ソ連の軍事弾圧の中で殺されたのではないかと憂慮
していた。彼は健在だったのである。 国際経験の豊かな彼は、
ワルシャワ機構軍侵入の直前、西ドイツに亡命し、そこから
チェコ自由化のための戦いを続行していたのである。

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