「希望はどこから来るのか」ローマの信徒への手紙4章23節〜5章5節

まず、最初に一つの絵画を見てもらいます。これは世界三大美術館の一つ、ロシアのサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館のレンブラントが描いたアブラハムの絵です。                                thumbnail?bbs_id=14&bbs_message_id=6066&bbsflg=1&m=1594020495
アブラハムは神様から多くの国民の父とする、大きな土地を与えるとの約束を得て旅立ちましたが、25年過ぎても子供を授かることができませんでした。そして、ようやく子供が与えられたにも関わらず、神様はアブラハムに大きな試練を与えられました。モリヤの山に行き、その子を殺してささげなさいという命令です。アブラハムは悩み、苦しみましたが、神様ならば、たとえ死んでも復活させてくださると信じて彼は旅立ちました。
先程の絵はアブラハムがまさに自分の子供を殺そうとするところに、アブラハムの信仰がわかったとして、天使が止める場面です。レンブラントはアブラハムの手からナイフが落ち、それが空中に浮いている瞬間を描いています。キリスト教美術ではアブラハムがイサクを捧げることはキリストの十字架の予型(出来事による預言)と考えられます。アブラハムは信仰の父、神の友とも呼ばれる人物です。聖書でアブラハムのことを悪く言う人は誰もいません。彼は完璧に正しい人間だったから、神からの祝福を得たのでしょうか。彼は常に信仰を貫き、一度も失敗したことがなかったのでしょうか。古代イスラエルの男性中心の父系社会では彼は完璧な人物とみなされたでしょう。しかし、アブラハムの生涯は必ずしも正しいことだけではありません。創世記を読みなおすと、アブラハムは一度ならず二度も三度も、いや人権が認められる現代の視点からすると、彼は四度も失敗したように考えられます。彼は保身のために妻サラを妻ではなく、妹と偽り、2度も外国の王に妻を奪われました。彼は子孫を得るために側女(愛人)ハガルを取りました。妻サラの死後、彼は再び側女(愛人)を取りました。アブラハムは決して失敗しない人間ではなく、たとえ、失敗しても、罪を犯しても、悔い改めて、神を信じて生きようと苦しんだ人だったのではないでしょうか。
罪を犯しても、悔い改めて、神を信じて生きようとする者を、神様は決して見捨てません。神はその独り子を十字架につけてまでも私たちを愛し通してくださる方です。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(5:3-4)とありますが、正直言って私は教師、牧師ですが、苦難や試練は嫌です。忍耐はできれば、したくないです。しかし、真面目に正直に生きていても、時には苦難や災難が起こります。それが人生です。ではどこに希望があるのでしょうか。わたしたちの頑張り、努力、人間性には限界があります。わたしたちではなく、罪人を愛し通してくださる神様に希望があります。「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(5:5)ので、私たちには希望があります。今週もこの神様を信じて生きていきましょう。

聖書科教員より

 

聖望学園では中高とも週に1度、礼拝が行われます。キリスト教の精神を学び心を落ち着かせると共に、ことば(メッセージ)を聞くことができます。毎週のメッセージから、人生を歩むヒントや心の支えを見つけてもらえると考えています。

部活や授業、行事では学ぶことのできない、「生きる糧」となるメッセージをもらっています。

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