「あなたの善意で平和はつくれるのか?」(コリントの信徒への手紙 一 13章12節)

 

善意と言うと、なんとなく自分の中に善い思いを常に持ち続けなくてはいけないのかなと思ってしまいます。でも、いつも善意を持つことを目指していることが世の中の平和になるとは限りません。今日はそんなお話をします。
電車の中で座っている一人の青年がいます。次の駅で一人のご高齢の方が乗り込んできた時、青年は席を譲ろうとしました。勇気を出して「どうぞ、お座りください。」と声をかけます。すると、ご高齢の方は青年を見るなり、声を荒立てて「私はまだ席を譲られなくても大丈夫だ。迷惑だ!」と言いました。青年はその場を立ち去ってしまいました。もし、ご高齢の方が自分の思いにとらわれず、青年の思いを受け取って、ありがとうと伝えられたら平和が生まれたかもしれません。青年がどう思ったかはわかりませんが、もし自分の思いだけに支配されていたならば、「せっかく譲ってやったのに……」と相手の気持ちを汲み取れなかったかもしれません。
この二人の対面を通して思わされるのは、自分の持つ思いは、たとえそれが良い思いだとしても、相手を傷つけることがあるということです。「自分はこうだ、相手のためを思ってそうしているんだ」という自分の理解できる範囲の思いをもっていると、相手の思いを受け取れないのです。1コリント13章12節には、私たちが知るところは物事の一部分にすぎないと書いてあります。自分が見ていることだけが正解ではないし、自分が思っていることだけが正しいのではないということを知ることは大切です。聖書に出てくる善意という言葉の原語には寛大さという意味が含まれています。善意を持つということは聖書的には寛大な心を持つということになります。心に相手の思いを聞くスペースを作ることは大切です。そこから世界の平和が始まることを信じましょう。

聖書科教員より

 

聖望学園では中高とも週に1度、礼拝が行われます。キリスト教の精神を学び心を落ち着かせると共に、ことば(メッセージ)を聞くことができます。毎週のメッセージから、人生を歩むヒントや心の支えを見つけてもらえると考えています。

部活や授業、行事では学ぶことのできない、「生きる糧」となるメッセージをもらっています。

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