山上の説教」
マタイによる福音書5章1節〜10節

主イエスは福音書の中でしばしば教えを語られましたが、その説教の中で最も有名なものはマタイ福音書5章から7章にかけてのイエス・キリストがガリラヤの山の上で語られた「山上の説教」です。その中にはみなさんが暗唱している「主の祈り」もあります。本日の聖書の箇所は「山上の説教」の冒頭部分の8つの幸いの教えです。ギリシア語の原文ではまず、「幸いである」と語られ、「~という人々は」と続きます。ここでは世の中の常識ではとても幸いとは思えないような人々が「幸いである」と語られています。「貧しい人々」、「悲しむ人々」、「飢え渇く人々」、「迫害される人々」です。当初、イエス・キリストの周りに集まった人々は社会の底辺の「地の民」(アム・ハーレツ)と呼ばれた人々でした。彼らのほとんどが貧しく、飢え渇き、悲しむ、社会から見捨てられた人々でした。しかし、主イエスは、そんな彼らを愛する神様がおられる、そんな彼らを救う神様がおられると語るのです。
先日、テニスの全米選手権で大坂なおみさんが優勝しましたが、彼女は黒人差別によって殺された犠牲者の名前をマスクに書いて試合会場に現れ、アメリカで黒人が差別され、抑圧されている状況に抗議しました。
イエス・キリストは当時の差別され、抑圧されている人々に福音を語りました。そして、主イエスは人間の救いを「神の国」と呼びました。マタイ福音書ではユダヤ人の婉曲的な表現で「天の国」、「天国」、みなさんの覚えている主の祈りでは「み国」となっています。
貧しい人々、飢え渇く人々、悲しむ人々が貧しいまま、飢え渇くまま、悲しむままで終わらない「神の国」が与えられるのです。神様は私たち一人びとりを愛してくださり、主イエス・キリストを十字架にかけてまでも、私たちを愛し通してくださる方です。
少し、余談ですが、私が撮ってきた2枚の写真を見てもらいましょう。1枚目は湖の写真ですが、山の上から撮ったイスラエルのガリラヤ湖の写真です。2枚目はガリラヤ湖のこの写真を撮った山の上にある「山上の説教教会」です。私は10年ほど前、研究調査もかねてイスラエルに一人旅で行きました。最初はエルサレムで数日間過ごし、次にエリコ、ベツレヘム、死海と調査し、最後にガリラヤのカファルナウムという町に行きました。日程の関係で、路線バスで宿のあるティベリアスから15キロほど離れたカファルナウムに着いたのは金曜日の昼過ぎでした。最初から分かっていたことですが、金曜日の午後二時以降には大変なことが始まります。それは安息日です。安息日はユダヤ教徒もイスラム教徒も一切の労働が禁止で、バス、タクシー、あらゆる交通手段が止まります。一軒残らず、すべての店も閉まります。エレベーターのスイッチを押すことも労働と考えられるために、エレベーターは自動で各階に泊まるようにセットされ、家電のスイッチを押すことも労働と考えられるので、大人は禁止で、子供がすることは労働ではなく、遊びと考えられるので、大人は子供に頼んで、スイッチを入れてもらったり、テレビのチャンネンルを変えてもらったりするそうです。
カファルナウムはイエス・キリストが宣教活動の拠点とした町で、そこには現在3つの教会があります。ガリラヤ湖沿岸には主イエスが5つのパンと2匹の魚で5千人を養ったことを記念する5千人の給食の教会と、主イエスがペトロに宣教を命じ、天国の鍵を託したことを記念するペトロの教会があります。そして、ガリラヤ湖を見渡す山の上には山上の説教教会があります。
私は5000人の給食教会、ペトロの教会を回った後、最後にバナナ畑の斜面を20分ほど登り、山上の説教教会に行きました。ここはある種、観光地なので、安息日にもかかわらず、多くの観光客がチャーターバス、自家用車などで訪れていました。しかし、バス停から歩いてここに来たのは私一人でした。昔の人は歩いて旅したのだから、帰りは歩いて帰ることを覚悟していましたが、少し考えが甘かったと後で後悔しました。日本なら、夜になっても街灯や明かりがあるものですが、イスラエルの田舎のカファルナウムには一切明かりがありませんでした。あるのは空の月明かりだけです。どうにかバス道に出て、宿のある町の方向に歩きだしましたが、道には歩道がなく、たまに通るトラックや車に轢かれそうになりました。そこで、生まれて初めてでしたが、ヒッチハイクを試みました。車が通るたびに手を挙げてヒッチハイクを試みましたが、1時間たっても2時間たっても誰も止まってくれません。歩きながら、お祈りしましたが、諦めたころに反対方向に向かう一台の車が止まってくれて、乗せてくれることになりました。彼らは一度通り過ぎたけれども、交通事故にあってはかわいそうだと思って引き返してくれたそうです。車に乗せくれて、わざわざ宿のある街に送ってくれたのは若いイスラエル人のカップルでした。
山上の説教の8つの幸いの教えの後半には「柔和の人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々は幸いである」とありますが、憐れみ深いイスラエル人2人のおかげで、私は無事宿に帰ることができました。
みなさんは、主イエスのもとに集まった貧しい、飢え渇いた人々とは違うかもしれませんが、わたしたちは時には彼らと同じように悲しいこと、苦しいことを経験します。そんな時、ぜひ祈ってください。愛の神様はそんな私たちを助けて下さいます。

聖書科の教員より

 

聖望学園では中高とも週に1度、礼拝が行われます。キリスト教の精神を学び心を落ち着かせると共に、ことば(メッセージ)を聞くことができます。毎週のメッセージから、人生を歩むヒントや心の支えを見つけてもらえると考えています。

部活や授業、行事では学ぶことのできない、「生きる糧」となるメッセージをもらっています。

ガリラヤ湖 (1)山上の説教

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