新約聖書ヨハネによる福音書 9章35~41節
「見える」「見えない」とはどういうことか。
生まれつき目の見えない人がいました。
イエス様はこの男の目に土を塗り「シロアムの池で洗いなさい」と言われる。
男がその通りにすると、彼の目は開き、ものが見えるようになる。
そこで騒動が持ち上がります。
この出来事は一体、どういうことか?
見えるようになった男が呼び出され、その両親までもが質問をされます。
これはどういうことなのか、と。
男は最初、どこの誰かも分からない方が自分の目を開けてくれた、と言います。
その男はどのこの誰なのか?と質問が始まります。
目が見えるようになった人は人々から詰問をされているうちに
「預言者ではないでしょうか」「神のもとから来た方だ」と表現を変えていきます。
これを聞く度に人々は黙っていません。
今日は安息日、この日に働くものが神からの使者であるはずがない。
自分の言うことを誰も聞いてくれないので、たまりかねて目の見えるようになった人が言います。
「神からの者でなければ一体だれがこんなことができるのですか。私は今までこんなことが起こったことを聞いたことはない」と。
それを聞いて人々はこの者を社会から追い出しました。
【伊藤校長ブログ】本当の「見える」は、「見えないもの」を信じること(5月21日全校礼拝にて)⇒コチラから