先日、「開校記念日という日は、開校以来の多くの人の思いを共有するとともに、新たな一歩を踏み出す日にしなければいけない」と話しました。今日は、その時伝えられなかった開校以来の先輩たちの“思い”について紹介します。

最初は、『いちょう第3号』に掲載されている、1期生が卒業する際に3年間を振り返って述べた文章です。
この学校で学んできた中で、一番大切だったのは“人間の心”についてではなかったでしょうか。人の気持ちを考えながら、常にがまんと忍耐を繰り返し、やさしさを生み出そうとする、そんな精神活動の繰り返しが自分という一人の人間を磨いていったのだと思います。もちろんこれからだって続けていくつもりです。まだまだ半人前、私はまだ歩き始めたばかりなのですから。

次は、『開校5周年記念誌』に掲載されている、当時の同窓会長さんの文章です。
私は、校訓「考えることのできる人」のとおり、3年間本当によくいろいろなことを考えた。将来とは、勉強とは、学校とは、友だちとは、家族とは……。そのような問いの繰り返しの中で、最終的に帰着するところは、いつも「自分とは何か」ということであった。
そして私は、今ここに存在する私、「自分とは何か」と考えている私、それが他の何者でもない私自身なのだ、ということに気づいた。それからというもの私は何事も安心してできるようになった。自分自身の中に確かな拠り所があるからだろう。時には失敗したり、理想とあまりにもかけ離れた自分の姿を見て落ち込んだりすることもあるが、そんな自分もまた自分なのだと思うとほっとする。

続いて、同じ『開校5周年記念誌』に掲載されている、当時の生徒会長さんの文章です。
私がこの学校に入学して最初に感じたことは、生徒一人ひとりが自分の意志を持って行動しているということでした。この学校には厳しい校則というものがありません。しかし、「考えることのできる人」を目指して一人ひとりが翠陵生としての自覚を持っているのです。きっとこのことは、将来社会に出た時に役に立つこととなるでしょう。

最後は、『開校10周年記念誌』に掲載されている、当時の生徒会長さんの文章です。
私はこの学校の雰囲気が好きです。自由だけれど、だらしないというわけでなないところが好きです。個性豊かな皆が好きです。そんな私たちを理解し、伸ばそうとしてくれる先生方が好きです。そして四季を感じさせてくれる山々の自然が好きです。こんなぐあいに大好きなものが多い翠陵ですが、最近ごく稀に、何か自由をはき違えている人もいるように感じます。これまで創り続けてきたものが崩れてしまうことのないように、真剣に考えていくこともこれからの私たちに必要なことだと思います。母校を良くするのも、悪くするのもきっと私たちだから、「目指せ!!『考えることのできる人』」を目標に、翠陵生としての自覚を持ちながら生活したいと思います。

自分の通う翠陵という学校を理解し、翠陵生としての自覚を持って校訓「考えることのできる人」に一歩一歩近づこうと励んだ先輩たちの生き方を、皆さんはしっかりと受け継ぎ、後に続く人たちにバトンタッチしていってください。

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