東日本大震災から2年2ヶ月目になる5月11日(土)と12日(日)の2日間をかけて、横浜市内の若手経営者たちの東北支援活動に同行して被災地を訪問してきました。
11日は宮城県気仙沼市の五右衛門ヶ原運動場仮設住宅(170戸、約350人) で居住者の写真撮影会を実施しました。プロのカメラマンが同行し、仮設住宅の集会所にスタジオを設営して写真を撮影し、その場でプリントして台紙に入れて お渡しするという企画で、地震、津波や続いて起こった火災で家を失いアルバムも消失した方々がたくさんおりましたので非常に好評でした。親子孫三代で撮影 する家族も何組かあり、ほほえましい光景が見られました。撮影の合間には抹茶の接待や、川柳大会なども開催し、和やかな雰囲気ではありましたが、被災当日 の悲惨な状況や、その後の筆舌に尽くしがたいご苦労についてもたくさんのお話を伺うことができました。
11日 は気仙沼港近くの木造の旅館に泊まりましたが、この旅館もかろうじて倒壊や火災は免れたものの当日は2階まで津波が押し寄せ、宿泊客の何人かは亡くなった そうです。被災された方々が異口同音におっしゃったことは、海岸近くにいて地震にあったら何をおいても高台に逃げることの大切さでした。津波は地震の後す ぐには来ないので油断して荷物を運び出そうとしたり、家族全員で待ち合わせたりしている内に大津波にのみ込まれて一家全員が亡くなったケースが少なくな かったとのことでした。最近よく「津波てんでんこ」とも言われますが、日頃から家族で最終的な集合避難場所だけを決めておいて、どこにいても直ちにてんで んばらばらに逃げることが大切です。
12日は、車で気仙沼から南三陸町を通り、福島県の南相馬市まで海岸沿いを南下して、被災地の状況を確認しました。リアス式の三陸海岸は岬と入り江が交互に続いていますが、入り江の集落は全て津波の被害にあっており、鉄道の線路も各地で寸断されたままでした。
気仙沼には 津波で流された大きな漁船が海から遠く離れた内陸に取り残されていましたし、港の桟橋も半分海中に沈んだままでした。広い市街地がひろがっていた南三陸町 の中心部は跡形もなく、鉄骨3階建ての防災対策庁舎の骨組みだけがポツンと残されていました。この庁舎では職員の遠藤未希さん(当時24才)が 最後まで津波警報の防災無線を繰り返して住民に避難を呼びかけ、自身は3階建ての庁舎の屋上を2mも超えた大津波に庁舎ごと呑み込まれて犠牲になった場所 です。骨組みだけになった庁舎には献花台が設けられており、遠藤さんの呼びかけを聞いて無事避難することのできた多くの町民やこのことを伝え聞いた人々か ら、花束や千羽鶴がたくさん供えられていたのが涙を誘いました。
福 島県の相馬市と南相馬市は甲冑姿の騎馬武者による勇壮な野馬追祭で知られる地域ですが、ここでは地震・津波に加えて東京電力福島第一発電所の事故による放 射能汚染のため立ち入りが制限されている地域もあり、人間だけでなく祭に参加する馬にも多大の犠牲がでたとのことでした。4月から昼間の立ち入りが解除さ れたという南相馬市小高区の商店街は日曜日だというのに全く人影が無く信号機だけが点滅していました。また、サーファーの人気スポットだったという海岸も 防波堤が倒壊し、見渡す限りの荒れ地に変わっており、所々に調査済みの紙が貼られた壊れた自動車や小型ボートが放置されていました。
南相馬市 から山越えをして飯館村を通って福島市方面に抜けましたが、山間部に入ると同行者が持参した放射線量計の数字が車の中でも急激に上昇し、蓄積された放射能 の除洗が進んでいないことを実感しました。沿道の農家の庭先には八重桜や桃の花が咲き、水仙・チューリップ・芝桜・山吹など色とりどりの花が咲き乱れ、ま さに北国の春爛漫の美しい風景なのですが、ここにも人の姿は見られず、本来なら水を張って田植えを行っているはずの水田も青草に覆われ、畑も荒れたまま放 置されているのが無言のうちに放射能汚染の恐ろしさを語りかけていました。
今 回、訪問したのは被災地のほんの一部に過ぎません。津波の被害は青森県から千葉県までの太平洋沿岸の殆どの地域に及びましたし、原子力発電所の事故による 放射能汚染では未だに全く立ち入ることができず、がれきの除去すらも進んでいない地域もあります。東日本大震災では、現在までに確認された死者・行方不明 者は2万人以上、建物の全半壊が約40万戸(H25.3 消防庁)、現在でも多数の人々が不自由な避難生活を送っています。
被災地で 子どもたちのためのボランティア活動を行っている方の話では、被災地以外での震災の記憶が急速に風化していることが一番恐ろしいと語っていました。震災の 年にはボランティア活動にも個人の寄附や企業の協賛金も目標通りに集まったのが、翌年には半分に減り、3年目の今年はボランティア活動そのものにも支障が 出かねない状況だそうです。被災地はまだまだ大変な状況にあります。私たちはこの震災を決して忘れることなく、全ての被災地が完全に復旧・復興するまで、 一人ひとりができる範囲での支援活動を続けたいものです。
なお、5月12日は、死者・行方不明者8万7千人を出した2008年の中国四川大地震から5年目に当たります。また、2004年に22万 人以上の犠牲者を出した大津波を伴ったスマトラ沖地震の記憶も新しいところです。横浜翠陵で学ぶ皆さんには、日本国内のみでなく、世界の出来事にも目を向 け、幅広いグローバルな視野と全ての人々への共感の心を持って『考えることのできる人』になってくれることを期待します。