ごきげんよう。

先日の前編に続いて、石川先生の後編、「学生時代~先生として編」をお届けします!
さっそく参りましょう!

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石川先生(美術)

 

広告の裏紙に絵を描いて、両親の帰りを待っていた

広報:さっそくですが、先生はどんなお子さんでしたか?

石川先生:小学生のときは……私には7つ違いの弟がいるんだけど、ほとんど一人っ子でしたね。両親も共働きで、鍵っ子で。おとなしい子でしたね、すっごく。通知表には「ちょっと石川くんおとなし過ぎます」って書かれるくらい、喋(しゃべ)らない子でした。何も考えていないわけじゃないんだけど、親が帰ってくるまで一人で過ごしたり、小学校の高学年のときは弟の面倒を見たりして。全然遊べなかったんですよ。保育園に弟を迎えに行くのが仕事で。学校が終わると、みんな遊びに行くでしょ? でも私は遊べなかった。だから、親が帰ってくるのをひたすら待っていたんです。

広報:弟さんの面倒を見る以外だと、どんなことをしてご両親の帰りを待ってたんですか?

石川先生:広告の裏紙に絵を描いたりしてね。まぁ、だから、“寂しさを紛らわす”っていうのもあったかな。そうやって時間を過ごすことが多かったですね。「壁には描いちゃだめだよ」「描くならこの紙にしてね」って言って、紙がいっぱい置いてあったっていうのもあったかもしれない。でもそれが、いまに繋がってきたのかもしれないね。

広報:必然的に、絵に向き合うことになっていたんですね。

石川先生:小学生のときから、自分の得意だったことが……というより、“絵が好き”だったのは、絵を描いたり、粘土で立体を作ったりしたときに、周りの人たちが、例えば友達や先生から「石川くんすごい!」って言われる、それが子供ながら快感だったんです。「石川がここにいる」という“存在”を、みんなが認めだす、っていうのかな。子供でも、無視されるよりも注目を浴びるほうが気分はいいですよね。それがやっぱり、ものをつくったときにそういうことがあって、それで“好き”になっていったところもありましたね。

広報:なるほど。

石川先生:あと、小学生の頃は“耳が大きいこと”がコンプレックスで、よくからかわれていたんですよ。それがケンカの元になったりして、内に籠(こも)ったりしてたのもあったかもしれないですね。でも絵を描いてるときは、別人扱いみたいに「石川くんすごい!」ってなったから。その瞬間は光が差すっていうのかな。その頃の先生がすごく褒めてくれたのもあったかもしれないな。だから“絵を描いてさえすれば、存在感がある”って思ってたところはあったかもしれない。
“自分”を出したら、見えていなかったものが見えるようになった

石川先生:で、転機が訪れたのは中学1年生の終わり……。

広報:何があったんですか?

石川先生:何がきっかけだったかわからないんだけど、“このままこうしていたら、人とコミュニケーションが取れなくなるじゃないか……”とか、そんなことをすっごく考えた時期があったことは覚えています。で、きっかけはわからないんだけど、中学1年の終わりから2年にかけて、人が変わったように喋りだしたんですよ。

広報:え!

石川先生:かなり無理して喋るようにしたんですよ。“ちょっとは話すようにしないと友達も増えないし…”“小学校のときはおとなし過ぎって言われたし…”って思って。そしたら周りにウケて。意外と、お話をすると周りの人たちの反応がよかったんです。そっからがデビューですね。すっごくお喋りになりました。

広報:“中学デビュー”ですね。

石川先生:自分を出していったら、いままで見えていなかったものが見えたり、いいことがいっぱいあって。自分が話すと周りに人が増えていったりするから、楽しくなってきたんです。そっからは、今度は「石川ちょっと喋りすぎ」と先生に言われるようになって。

広報:あはははは(笑)

石川先生:それで周りに人も多くなりましたね。いろいろなタイプの人が周りに蠢(うごめ)くようになった。それも楽しかったですね。そこからはもう、自分の得意なこともわかっているから、そこを活かせばさらに上手く交流もしていけるっていうね。中学2年生の頃には「藝大に僕は行くんだ」と決めていましたね。
「石川くん、石膏像って描いたことある?」

石川先生:そのとき、部活には入っていなかったんだけど、私が絵が好きな子だってことは知っているから、「石川くん、石膏(せっこう)像って描いたことある?」って美術の先生が声をかけてくれたんです。「描いてみたい?」って言うから、うん描いてみたいっす、って言って。そしたら、「放課後美術室に来て描いてていいよ」って言うんです。「木炭って、使ったことある?」とか「僕の貸してあげるからこれで描いてみたら? 鉛筆とは違う感覚だよ」って話してくれて。でも、何も指導はしないんです。「ここで描いてていいから」って言って場所をくれて、木炭も貸してくれて。それでいなくなるんです。

広報:いなくなっちゃうんですか。

石川先生:で、しばらくすると「どう? 結構面白いだろ?」って言って戻ってきて。そのときのことをいまでも覚えているっていうのは……何を指導するわけではないけども、場を与えて、「触ってみる?」「これで描いてみると面白いよ」って話しかける、ただそれだけのことだけど、いまの私の指導の基盤になっているかもしれないですね。いま思うとね。

広報:機会を与えてくれた、と。

石川先生:何かを教えるっていうより“場”をつくってあげる、“空間”をつくってあげることが大事だなっていうのは、この仕事に就いて改めて振り返ると、美術の先生との思い出がすべていい思い出ってわけではないけども、あのときの先生はなんにも絵の技術を指導してくれない、ただ場所と木炭とそれだけを与えてくれただけなわけなんだけど、“そのことが忘れない”ってことは、あの時、あの場で、あの経験を提供してくれたのは大きかったんですよね。私、あの時、“どうして先生はいなくなっちゃうんだろう”なんて思わなかったんですよ。だって、ただ一人でいていい、好きな絵を描いてていいって言うんですから。

広報:自主性を大事にしてくれていたと。

石川先生:そう。ある意味それが“指導”だよね。場を与えて、好きなようにやってごらんって。で、そろそろって頃にやってきて……。

広報:いいタイミングで声をかけてくれたと。

石川先生:そう。いま思うと、どこからか見ていたのかもしれないよね。
「僕は藝大を目指します」と口に出した

石川先生:で、“藝大に行きたい”っていうのも、子供ながらに“絵で一番のところは藝大だ”と知っていたわけです。だから口にするようにしました。親にも、学校の先生にも「僕は藝大を目指します」と。何の根拠もないけど、絵が好きだし、それ以外のものでは一番になれなかったから、“これでやっていきたい”、と。

広報:決意されたわけですね。

石川先生:そりゃそうだよね、絵を描いたらみんなが注目してくれて、私の存在をみんなが認めてくれたわけだから。だから“これが一番自分に向いているだろう”と。描いていて たまらない快感を得られたり、達成感があったり、充実感があったり。それに、小さいころから“絵を描く”ということが、無くてはならないことだったから。だからそれでやっていこうと。

広報:なるほど。

石川先生:でも藝大は国立だから、やっぱり進学校に行ったほうがいいな、と。なので一生懸命勉強して、高校は当時でいう、県の選抜校に入りました。ただ、周りで絵のほうに行きたいという仲間がいなくて。難関大学を目指す子ばっかりだったり、「藝大なんて夢みたいな話、やめなよ」っていう先生がいたりしてね。

広報:そんなこと言うんですか?

石川先生:うん。でも“僕は藝大に行くんだ”って、意志は変わらなかったですね。私の父親も、「やりたいことをとことんやりなさい」と言ってくれていたのでね。チェレンジすることに理解があったんです。だから、高校時代は本当に絵を描きまくりましたよ。
高校生で、県立美術館で展覧会をした

広報:藝大に受かるために。

石川先生:それもあるし、“自分が絵を描けば人が周りに蠢く”って、小学校・中学校で知っていたんで。そういう“おいしい”ところを知っているから、自分の持っている力を最大限に活かしてましたね。学園祭でもそうだし、自分の力を発揮できるところでは“誰にも負けない”という気持ちで取り組んでいましたね。高校では美術部にも入部して、部長までやったんです。そのとき初めて、県立美術館で初めて高校生の美術展を開催したんです。私が話を取ってきて。

広報:すごい!

石川先生:あと公募展も、県内とかテレビ局主催の展示会とかに出品して、名前を売りましたね。なので県内の美術界隈では、ちょっとした有名人になったんです。新聞に名前がよく載ってたんです。

広報:すごい……。

石川先生:だから、他校の絵が好きな同級生とか、会ったことはないんだけど私のことを知ってくれる人がいて、表彰式で「あなた石川くん?」って話しかけられたりしてね。そういうところで、他校の、美術大学を目指している生徒と知り合えたり、交流ができたりしたから、やっぱり絵を一生懸命やっててよかったなと。

広報:高校生で、学校の外の人と知り合うのは大変なことです。

石川先生:そうなんですよ。だから本当に、高校生のときはどっぷり美術でしたね。
“決めたことは最後までやり抜きたい”

石川先生:でも勉強のほうが、進学校の中ではいわゆる“落ちぶれ”状態になっていて。「石川、国立目指すって言ってるのに、そんなんじゃ無理だよ」って先生方に言われてね。だけど、“でも藝大は絵がありますから!”って言って。でも誰も、全然信じてくれなくて(笑)

広報:信じてくれない(笑)

石川先生:「石川そりゃ無理だよ」って言う先生方の話も、笑ってかわしてね。だけど、やっぱり、現役では受からなくて。

広報:やっぱり難しいんですね。

石川先生:でもそれも、“絵がダメだったんです!”って言い返してね。“だから東京に行って、浪人します!”と。父親は賛成してくれたんだけど、担任の先生は「“東京の藝大”なんて言わないで、地元の国立大に行って、今後の人生設計を組み立て直したほうがいい」なんてって言ってね。

広報:堅実な道を考えてみたら? と。

石川先生:そう。「美術が好きなら、美術の先生という道もあるわけだし」ってね。でも、“僕、決めたことは最後までやり抜きたいんで”って言って、東京に出て来たんです。
せっかく受かった大学も、1年で退学届を出した

広報:初志貫徹、ですね。

石川先生:でも、時間がかかりましたね。“藝大一本”で、2浪してダメで。で、3年目に親が「お金は出すから、私立もちょっと受けてみたら?」と。いままで“上野にある国立の藝大”しか頭になくて、いわゆる滑り止めとかも考えてこなかったから。

広報:潔い良いまでに、藝大一本だったと。

石川先生:そうそう。でもさすがに親も不安になったみたいで(笑)でも私は、藝大に行けないとは思っていなかったんです。受験に失敗した原因も、何が足りなかったのかも、よくわかっていたし……要するに、“本番に弱かった”んです。

広報:なんと……。

石川先生:試験場に行くと緊張しちゃうタイプで、小学校時代を思い出しちゃったりして。だから、精神面を鍛えないとダメだな、と。繊細な神経だけじゃなくて、うんと太い神経もつくらないとダメだと。それで立て直して、3年目を迎えて。

広報:ついに3年目に。

石川先生:藝大だけじゃなくて、私立の美大も受けました。私立のほう、受かりました。でも藝大はまた落ちました、と(笑)

広報:無情にも……。

石川先生:親からは「約束だよね。受かった私立の美大に行きなさい」と。約束なので、受かったほうに行きました。でも、1年で勝手に、退学届を出しました。
“イメージしないと、そこに追いつかない”

広報:諦めきれなかったんですね。

石川先生:親に内緒で退学届を出して、藝大を受けるために誰にも言わないで母校に帰って、卒業証明書とか必要な書類を取って、近所の人にも見られないようにこっそり東京に戻ってね。それで藝大を受け直しました。

広報:“4度目の正直”、と。

石川先生:もちろん、受けていることは内緒で。“次の連絡は受かったとき”って決めてね。

広報:それで…? 受かった…?

石川先生:うん。親に「言わなくて申し訳なかったけど、実は、諦めきれなくて……どうして僕は“藝大じゃない”この学校に通ってるんだろうって思う日々を毎日毎日送ってて、これだとずーっと負けた気がしちゃって」なんて、「勝手なことしたけど、当初の目標だった藝大に入ったから」って感じで話してね。これが私の学生時代でしたね。

広報:目標を成し遂げて、すごいです。やっぱり、“自分はここに行くんだ”って強く思う、“イメージする”って大事ですね。

石川先生:だから生徒にも、「“遠い”って思うと“遠い”し、“自分がそこの大学に通っているイメージをする”と現実にそうなるし、当たり前になるよ」って話しています。

広報:私事ですけど、私も第一志望はちょっと背伸びをした大学だったんですけど、なぜか“そこに通う自分”がイメージできて、結果的に合格しました。

石川先生:そうなんです。そういうことなんです。私も、イメージができていた。だから4度目の受験のときに、“これでダメだったら藝大には興味がない”って、“なんでわかってくれないんだ”って思えた。そういう感じで行ったら、緊張感もなく、楽しく、初めて自分のリズムで試験を受けることができたんですよ。いままではお腹が痛くなったり、体調が悪くなったり、焦ったりしていることが試験場でわかったりしてたんですけど、それがなかったんです。ゆったりした気持ちで受けることができたんです。「これでダメだったら諦めがつく」「“自分らしさ”は出した」と思えてね。

広報:イメージすることって、大事ですね。

石川先生:イメージしないと、そこに追いつかないんですよ。
“変化していく実感”が味わえる学校

広報:では最後に、受験生にエール、メッセージをお願いできますでしょうか?

石川先生:まず、いろいろなことにチャレンジできる環境が、瀧野川には整っていますね。校長、副校長、学園の考え方が「好きなことに思いっきりチャレンジしよう」っていうことなんです。ゼミ制度を導入したのもそうですしね。“チャレンジさせてくれる学校”ですね。

広報:「好きなことに思いっきり挑戦しよう!」というのはスローガンにもなっています。

石川先生:あと、これは昔からなんだけど、入学してから卒業するまでの間で大きく成長する生徒、全く別人のように変わって、いきいきする生徒、そういう生徒たちをたくさん見てきているんです。だから、“自分の可能性を信じて、伸ばしたい”と思う受験生にとっては、自分が成長しているとわかる、「わたし変わった!」とか、自分が知らなかった自分に出会えて、“変化していく実感”を味わえる学校かな、と思います。そしてそれをサポートする先生方がたくさんいる。そういう学校なんです。なので、“自分の内側に秘めている可能性を信じている受験生”はここに来て、チャレンジしてほしいですね。そういったものがある受験生は瀧野川を選んだら、それが叶うかな、と思います。

広報:チャレンジを応援してくれると。

石川先生:美術部だけでも、入学したときの顔と卒業するときの顔が全然違う生徒をたくさん見てきました。でもそれは美術部だけに言えることじゃなくて、教科、部活関係なく「可能性を引き出せる学校」じゃないかな、と思います。学校の基盤からしてそうだと思いますよ。先生方も丁寧に、寄り添って見てくれますし。でも、自分の可能性を自分で信じていないとダメですよ。

広報:自分で自分の可能性を信じないと、始まらないと。

石川先生:もちろん、それを信じさせてくれる先生もたくさんいます。自分も気がつかなかった面に気づかせてくれる先生が、いっぱいいると思います。私自身も、そのことを大事にして、瀧野川に来た生徒、部活で出会った生徒たちにいろんなことを伝えられるように頑張っています。“発見”が日々あるように、見えなかった自分が見えてくるように、そんな指導を授業や部活でしています。

広報:引き出してくれる、と。

石川先生:いま、自分で自分の可能性を信じられない、自分に自信をもてない生徒って多いですよね。でも、それを引き出してくれたり、きっかけを与えてくれる学校ですよ、瀧野川は。だから受験生には、そういう学校だよ、って伝えたいですね。

広報:石川先生、ありがとうございました……!
「何気ない、さりげない、たあいもないひと時に、生徒の可能性を引き出す、何か“スイッチ”が見つけられるんじゃないかなと思います」と話してくれた石川先生。ご自身が受けた“指導”も、ずっと心に残っていたようです。

さて、次回はどんな先生が登場するでしょうか?
これまでの先生インタビューもぜひご覧ください! ★石川先生の前編はこちら

 

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