「先生、祈っていただきたいのです、友達のために。」と一人の生徒が学院長室に来て、進路実現で苦労している友達のために祈ってほしいと言ってきました。その場ですぐ、私たち二人は祈りました。このできごとを通して、玉聖の二つの素敵な所を思わされました。一つは玉聖は仲間となる、心から心配してくれる友達ができるところだということです。聖書は真の友情について次のように語ります。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」(箴言17:17)学校生活の中で、いろいろな経験があります。楽しいときもいっぱいあるし、辛いときもあります。しかし、本当の友達はどんなときでもともにいて、ともに笑い、ともに泣きます。

実は、人の辛いときに、心配してあげたり、力になりたいと思ったりすることの方が簡単かも知れません。皆が同じ目標に向かって、頑張っている中で、友達の成功を喜ぶことは難しいことだと言えると思います。しかし、玉聖の学校生活の中で、良いときも、つらいときも、どんなときでも共感してくれる友達ができることは本当に幸せだと思います。

二番目のことは、祈りの大切さと祈られる恵みということです。ピリピ4:6-7は次のように教えてくれます。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」祈りにはこういう力があります。

ときどき、「ごめんなさい。祈ることしかできません。」という人がいます。しかし、私は人が人のためにできる最大のわざは祈ることだと思います。今年、私は妻の病気のためにアメリカに帰り、妻の看病に努めさせてもらいました。玉聖から遠く離れていましたが、何回も先生方に、「生徒たちは毎日先生のために祈っていますよ。」と言われました。なんと力強い言葉でしょうか。

祈られることは、覚えられていることも含まれています。心にかけていただいている意味もあります。そして、さらに、その祈りは生ける神様の御前に捧げられているので、実際に神様がその祈りに応えてくださり、助け、支えてくださるという事実があります。妻と私が辛いときを過ごしている中で、祈られたことによって、何回か励まされ、支えられ、神様に助けていただいたのは数えきれないほどです。その祈り、また祈られていることについての励ましの言葉を心から神様に感謝しました。さすが、玉聖の精神はここにあると思います。

皆さんの学校生活の中で、どんなときでもともに分かち合う友との出会い、また祈りの大切さを覚えたことがあればなんと幸せでしょう。これは一生の宝です!これこそ玉聖です!

(この記事は高等部生徒会での雑誌「飛翔」の原稿です。)

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