あなたはどんな物語を紡ぎながら日々を過ごしていますか?
ひょんな切っ掛けから『人はなぜ物語を求めるのか』(千野帽子著 ちくまプリマー新書)を読みました。その「はじめに」でこんななぞなぞが取り上げられていました。
問1
ある国の、ある村には、伝統的な雨乞いの踊りがあります。
それをやると100パーセント雨が降る、と村人は口を揃えて言う。
さて、それはいったいどんな踊りか?
問2
ある男がその息子を乗せて車を運転していました。すると、車はダンプカーと激突して大破した。
救急車で搬送中に、運転していた父親は死亡し、息子は意識不明の重体。
救急病院の手術室で、運び込まれてきた後者の顔を見た外科医は息を呑のんで、つぎのような意味のことを口にした。
「自分はこの手術はできない。なぜならこの怪我人は自分の息子だから」
これはいったいどういうことだ?
今回は、問1のなぞなぞについて考えていきます。
筆者はこんな解説をしているんです。
「p:おまじないをした」「q:雨が降った」というできごとが時間順に置かれているとき、pとqとを因果関係に置く村人にとって、雨が降らないうちに踊りをやめてしまうということは、「踊り続ける根性が足りないから、雨が降らない」ということになるわけですね。
このとき彼らにとって雨乞いは、壜の固い蓋をひねって開ける行為に似ています。壜の蓋は力を加え続ければ、いずれ開くはずですよね。
つまり、問1の答えは、「雨が降り続けるまで踊る踊り」となるわけです。
え、回答に違和感がある?
ですよね。
科学的思考をする私たちからすれば、「気象の変化によって雨が降ったのだ」と考えるのが一般なのですから。ですから、村人は「伝統的な踊りを踊る」と「雨が降った」こととを因果関係に置いているので、因果関係を間違って認識しているということになりますよね。
とはいえ、「村人の思考」からすると「伝統的な踊りを踊ったから雨が降った」というストーリー(物語)は自然なのかも知れませんよね。私たちの中にもおまじないをしたり縁起を担いだりする日常がありますからね。
あなたはどんな物語を紡ぎながら日々を過ごしていますか?
「pとqとを因果関係に置く村人」に陥ることがありませんか?
次回に続く。
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