先週に引き続いて今回も、『人はなぜ物語を求めるのか』(千野帽子著 ちくまプリマー新書)の「はじめに」で取り上げられているなぞなぞを話題にします。

 

 前回のブログはこちらをクリックください。

 
 

 

 

 まず、「問2」のなぞなぞはこういうなぞなぞでした。

 

 

 ある男がその息子を乗せて車を運転していました。すると、車はダンプカーと激突して大破した。

 救急車で搬送中に、運転していた父親は死亡し、息子は意識不明の重体。

 救急病院の手術室で、運び込まれてきた後者の顔を見た外科医は息を呑んで、つぎのような意味のことを口にした。

 「自分はこの手術はできない。なぜならこの怪我人は自分の息子だから」

 これはいったいどういうことだ?

 

 

 筆者はこんな解説をしていました。

 

 なぞなぞの文面には、外科医の性別や名前が明示されていませんでした(それを言うなら年齢や身長、髪の色や本数、靴のサイズに血液型、勤務先名、年収、マイナンバー、未婚既婚の別も、いっさい明示されません。卑怯ですね!)。そして、答えられなかった人は、外科医の性別欄を自動的に(受動的に)埋めてしまい、しかも自分がそうしたことに自分では気づかない。

 

 

 

 解説文の「外科医の性別欄を自動的に(受動的に)埋めてしまい」とは、

 

   「外科医=男性」

 

 と考えると言うことですよね。

 

 

 「あれっ、この文章、変だな」といった違和感を覚えるとすれば、「外科医=男性」という無意識の判断があったからなのかも知れませんね。

 

 つまり、「自分はこの手術はできない。」と言ったのは、「執刀医である母親」だったと考えると違和感が解消しますね。

 

 

 

 今回のなぞなぞも、頭の体操になりましたか?

 

 この本の紹介を兼ねて「あとがき」を引用して今回のブログを終わりたいと思います。

 

 

 人間は物語を必要としている、とよく言われます。2011年の東日本大震災の大地震のあとには、とくによく言われました。なんだかまるで人間が、自分の外にある日光や水や酸素と同じように、物語を外から摂取することが必要であるかのようです。
 本書の主張は違います。人間は生きていると、二酸化炭素を作ってしまいます。そして人間は生きていると、ストーリーを合成してしまいます。人間は物語を聞く・読む以外に、ストーリーを自分で不可避的に合成してしまう、というのが本書の主張です。

…みんなで登山

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