令和3年度 全国高等学校総合体育大会サッカー競技県予選

頂点まで、あと一歩届かず!!

帝京第三に惜敗し、無念の敗退!

令和3年度 全国高等学校総合体育大会サッカー競技県予選
準決勝
日大明誠 前半 帝京第三
後半

手塚秀昭のホイッスル

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令和3年度全国高等学校総合体育大会サッカー競技県予選兼原杯争奪サッカー大会は、19日(土)に準決勝が行われ、本校は帝京第三高等学校(以下、帝三)と対戦、1-0で敗れインターハイ出場は成らず、今大会第三位の成績で終わった。なお、決勝は韮崎高等学校と帝京第三高等学校との対戦となった。

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立ち上がりから本校は、細かいパスワークで攻勢をかけ、4分、右45°FKがGKを超え逆サイドまで流れ、⑤山本がシュートを打つも帝三DFにクリアーされ惜しくも先制点とはならなかった。対する帝三は、新チームから継続していたBKラインから丁寧にボールを繋ぐ攻撃を“現実路線”に変え、後方から一気に前線の⑨をターゲットにボールを預け、空中戦でこぼれたセカンドボールを拾い続け優位に試合を進めた。8分、ゴール前に高速のクロスが通したがタイミングが僅かに合わず得点には至らず、その後も⑧の左右からのロングスロー等で何度もチャンスを迎えたが、どれも決め手を欠き無得点で試合が進んだ。試合が動いたのは28分、帝三は左サイドで⑧が頭で⑨に繋ぎ、そのまま個人技豊かのドルブルで本校DFをかわし、ゴール左に決め均衡を破った。この得点で帝三の攻撃にさらに拍車がかかり、30分過ぎからはロングスローからゴール前の混戦に持ち込み、CKを立て続けに6本獲得し攻め続けるが、本校GK永田のファインセーブなどで追加点なく前半を終えた。

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後半開始直後、本校は帝三の一瞬の隙を突き⑨粟生田がヘッドでゴール前に流し、そのボールを、準々決勝でも得点しエースナンバー⑩を背負った大月が運動量豊かに走り込みシュートしたが、ボールは惜しくもゴール左僅かに外れて同点とはならなかった。運も味方し同点機を逃れた帝三は、前半と同様に奪ったボールを即座に⑨に預け、間延びした本校の中盤をその運動量で完全に支配した。又、ディフェンス面でも最前線からボールを追い回しプレッシャーをかけ続け、ゲームキャップテン④安達の得意のロングフィードを防ぐなど、攻撃の起点となるパスの供給源を絶った。お互い何とか主導権を握ろうとして、20分に帝三は2名、24分に本校は1名をそれぞれ交代させた。30分過ぎから何とか同点を狙う本校は、DFから中盤で持ち前の細かいパスが通り始め攻撃に転じようとするが、この時間帯になっても落ちない運動量とフィジカル面で優位に立つ帝三は、各自の「粘りあるプレー」で要所要所を締め、終了間際ではコーナー付近でボールーキープするなど、あくなき勝利への執念を見せそのまま逃げ切った。

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本校は、帝三に今年を含め過去の3試合(2018年・19年インターハイ県予選、21年関東大会順位決定予備戦)全てに勝利してきた。その対戦結果を踏まえて本来なら苦手意識を持つはずの帝三は、逆にその敗戦の屈辱をバネにして雪辱に燃える気持ちを前面に押し出し、内容はともかく“勝ち”にこだわり、シュート数を見ても本校のそれを大幅に上回ったことが数字的にも証明している。特に奪った瞬間間髪入れずに前線にボール預け、前の試合まで時折見せていた本校DF陣からのビルドアップやロングフィードを封じ込む作戦が功を奏した。ただ、敗れたとはいえ、現チームの最初の公式戦の新人大会はベスト16、関東予選はベスト8、今大会は第三位と、着々とチーム成績はアップしてきた。また、この試合の先発メンバーは、3年生5名、2年生5名、1年生1名という若い布陣であるが、次回の高校生最高峰の戦い「冬の選手権」へ向けて、特に高校生活集大成を迎える3年生が最後の意地を見せ、熾烈のレギュラー争いに果敢に挑戦し続けることが、『全国高校サッカー選手権大会県予選覇者』と成り得る大きな要因となるだろう。

先発メンバー(学年)⇒交代
GK ①永 田(2)
DF ②津 田(3)
DF ③渡 辺(1)
DF・主将 ④安 達(3)
DF ⑤山 本(3)
MF ⑥橋 本(2)
MF ⑦佐々木(2)
MF ⑧高 橋(2) ⑱久 保
FW ⑨粟生田(3)
MF ⑩大 月(2)
MF ⑪平 田(3) ⑯浅 田
リザーブメンバー
DF ⑫小 林(3)
DF ⑬苑 田(2)
DF ⑭神 田(3)
MF ⑮川 村(3)
MF ⑯浅 田(2)
GK ⑰片 平(3)
MF ⑱久 保(3)
MF ⑲宇田川(2)
FW ⑳ 昆 (2)

 

筆者のプロフィール ≪日刊スポーツ山梨版(現在休刊)より抜粋≫
手塚秀昭(てづか・ひであき)
tezuka1950年、山梨県塩山市(現甲州市)生まれ。1972年、日本大学明誠高等学校に英語科教諭として赴任。75年、サッカー部監督に就任。全国選手権県大会準優勝(82、83年)、インターハイ県代表(83,84年、私学勢として初)、関東大会県代表(88年)、日大付属大会優勝など県下屈指の強豪に育て上げた。“心”を優先とした指導で、独自の戦術を駆使し、常に強豪校を脅かした智将。又、県東部地区の第3種(中学生年代)の普及のため、2001年に「リヴィエール」を創設し、05年、06年に関東クラブ選手権県大会優勝(同大会出場)、06年、高円宮杯県大会(U15)第3位に導くなど、第2種、3種の2つのカテゴリーでそれぞれ優勝(第3種はクラブ選手権)に導いた。それらの功績が称えられ、08年、県高体連より「指導者功労賞」、14年、県体育協会より「体育功労賞」がそれぞれ授与された。
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